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第五話

 

「あやちゃん。起きとる?」


 翌日。綾香はその言葉が聞こえて、半ば転がり出るように離れ家から飛び出す。


「せいちゃん!」

「しーっ。本当、声が大きいんやって」


 いつもと変わらない笑顔で、征吾が立っていた。慌てて駆け寄ると、行こうか、とすぐに歩き出す。


「どこに行くの?」

「うん。あやちゃんが引っ越す前、一緒に行こうって言っとった展望台覚えとる?」

「あ、私が途中で疲れてたどり着かなかったところだ」

「そう。あそこ行こや。まあ田舎やから、自然しか見えんけど」


 綾香は頷いて、征吾の隣を歩く。いつもは少し後ろをついて歩くのだが、今日ばかりは――と手を繋いでみると、征吾の指先がピクリと揺れた。動揺したかのように思えたが、存外緩やかな仕草で振り向いたために、まったくそんな心境は見られない。焦りどころか、その目にはやはり「仕方がないなあ」という呆れた色が見えた。


「また繋ぐん?」

「うん。……大きい手だね」

「あやちゃんが小さいんよ」


 綾香が少し力をこめて握り締めると、征吾も同じほど返してくる。昨日よりもほんの少しだけ近づいたように思える距離に、それでも素直に喜べないのはどうしてなのか。


 征吾から拒絶を感じるからか。あるいは、綾香が覚悟を決めたからか。


 つい、諦めたような笑みがもれた。そんな綾香に、前を向いていた征吾は気付かないまま、今も「なんでこんな田舎に展望台があるんやろな」と不思議そうに言っている。

 展望台に行ったのは、綾香がバテてしまったあの一度きりだ。そのため新しい場所にデートにでも向かっている心地になってしまい、綾香の胸中はいろいろと複雑である。


「当時はだいぶ長い道や思てたけど、そんなことないんね。案外近いんよ」


 展望台への階段を見つけて、そこから上を見上げた征吾がつまらなさそうに呟いた。綾香も同じように思う。これでは、一緒に楽しめる時間も短いのではないか。


「あやちゃん、今日はバテんでな。運んでやれんけ」

「バテんわ!」

「あ」


 征吾がパッと振り向いた。


「方言戻っとる。そっちの方が可愛ええよ」

「……そう?」

「そう。安心する。あやちゃんやーって思う」

「何それ」


 なんでもないよと付け足して、征吾は優しく綾香の手を引いた。

 一段、一段、階段を踏み締める。当時は幅が広く一歩では上れなかったそこも、今では一歩でちょうど良いほどだ。


「ねえ、展望台って高い?」


 綾香が沈んだ声で問う。


「高いよ」

「十二階のマンションより高い?」

「山の上にあるけぇね、そりゃあうんと高い」

「そっか。……そっか」


 言葉尻が揺れた。しかし征吾は気付かないふりをして、くっと口角を持ち上げる。


「大丈夫、怖ないよ。少し前にも行ったけど、全然怖なかった」

「うん」


 征吾の表情は変わらない。それを見上げて、こんなにも首が太かったかとか、こんなにも輪郭が男らしかったかとか、綾香はただそんなことをじっくりと観察していた。

 ポツポツと会話をしながら少し歩くと、小さな展望台が見えてきた。本当に何を見るためのものなのかは分からないが、自然を楽しむためのものだと思えば納得である。


「ほら」


 展望台の短い階段を上っててっぺんまでやってくると、視界が開けた。

 山が広がる。大きな湖もあり、脇の道路を走る車が小さく見えた。


「……綺麗だね」

「そうやろ」

「……すっごい高いじゃん」

「言うたやん」

「うん」


 展望台から真下を見れば、そこは断崖である。展望台自体は低く設計されているとはいえ、山の上の、さらに少し階段を上ったところにあるともなれば、高さがあるのも理解ができる。


「……せいちゃん。せいちゃんに言われ通りにね、携帯確認したよ。そしたら、なんかいろいろ来てた」


 下を見ていた綾香は、隣に立つ征吾の方を見ることはない。しかし気にも留めないまま、征吾も「そうなん」と言葉を続ける。


「東京でやってけそうなん?」

「うん」


 風が抜ける。少し冷たい、強い風だ。


「せいちゃんのおかげだね。ありがとう」

「なんで。俺は何もしとらんよ。メッセージを送ってくれた子が勇気出したんと、おばさんが心配してくれとっただけやから。俺は、なんにもしとらん」

「……そう、だよね」


 手すりを持っていた征吾の手に、綾香はそっと自身の手を重ねる。繋いだ時にも思ったことが、再び綾香の頭を巡った。


「どうしたん?」

「……ごめん。ごめんね、せいちゃん。帰ってこなくて」


 大きな手だ。ゴツゴツとして血管の浮く、少しだけ日に焼けた手。七歳の頃とは違い、征吾はすっかり「男の子」になった。

 それを感じるように撫でる綾香の指先に、征吾はつい苦く笑う。


「それもなんでよ。十年も帰ってこんかったんやから、今更やんか」

「違うよ。……三ヶ月前の話だよ」


 思い出すのは、両親だけが田舎に帰り、綾香だけが一人、暗い部屋で膝を抱えて座っていたあの日だ。

 真っ暗な部屋にひとりぼっち。何も考えられないまま、ぼんやりと時間だけが過ぎていた。


「……うん。そっか」


 征吾はそこで、悲しそうに微笑んだ。それはこれまでに見なかった、ほんの少しの切なさを溶かしたような表情である。


「ええんよ。来れんかったんやろ」

「うん。……いじめられてた時よりも、動けなくなったの」

「知っとるよ」


 優しい声につられるように、綾香はふっと征吾を見上げた。


「知っとる。……あやちゃんがベランダから飛び降りようとしとったんも、全部知っとる」


 一瞬で、溜まることもなく、大粒の涙が流れ出した。鼻の頭がつんとして、ずっと見ていたいと思っていた征吾の笑顔さえ滲む。何度拭っても、何度擦っても後から後からあふれ出て、追いつくことさえできずに顔全体が涙に濡れた。


「だってもう嫌だった。生きてる意味なんかないって思った。何のために生きてるのかもわかんなくて、私なんか学校にも居場所ないし、東京にも居たくなくって、もう全部どうでもよかったの。死んでやるって、絶対今度こそ、もう終わりにするんだって、本気だったの」

「うん」

「だけど、無理だった。本気だったのに。……せいちゃんが、呼んだから」


 何度も見下ろした光景に、恐ろしさはなかった。綾香の中にはもう「死」という選択肢しかなく、決意をして手すりを乗り越えようと力を込める。踏ん張ったところで、聞こえた。


「あやちゃんって。やめてって。……せいちゃんが呼んでくれたから、私はここに居るんだよ」


 正美が「田舎に帰る?」と綾香に聞いたのは、いじめられても正美の前では強がっていた綾香が、正美たちが田舎から帰ってからの三ヶ月間、ずっと泣いていたからというのもあったのだろう。

 正美は、田舎から帰って真っ先に綾香に聞いていた。しかし綾香はただ泣くばかりで、まだ帰りたくないと拒否を示した。


「ごめん、せいちゃん。ここに来ちゃったら、認めなきゃいけないと思って来れなかった。都合いいよね。忘れてたのに、ずっと帰ってこんかったくせに……せいちゃんのこと大切やって、今更そんなこと言うん、ずるいよね」


 嗚咽混じりの言葉は、それでもしっかりと征吾に届く。


「ごめんなさい。心配させて。帰ってこんくて。帰ってきても毎日毎日、またねって言わせて、ごめんなさい」

「ええよ」

「大好きなんよ、せいちゃん。東京が楽しくて帰ってこんかった私が言うん、説得力ないけど。せいちゃんのこと大好きなんよ。ひとりぼっちにさせて、ごめんなさい」

「あやちゃん」


 迷いのない、まっすぐな音が間を落とす。聞こえるのは鳥の声と、綾香がしゃくり上げる声だけだった。


「ええんよ。俺は、あやちゃんが元気におってくれたらええ。……な、俺の家来てくれる? 母さんも父さんも真知子も、みんなあやちゃんが来てくれるん待っとるんよ」


 綾香はためらう素振りを見せて、一つ頷く。それを見届けると、征吾は早々に綾香の肩を押して、階段へとうながした。


「東京でうまくやっていくんよ」


 背後で、優しい声がした。だけど綾香は振り向けないまま、泣きじゃくりながらも一歩一歩と歩み出す。


 階段を下りる。行きは二人だったのに、今は綾香しか居ない。そんなことにさらに涙を流しながら、大声を上げて、まるで子どものように綾香は泣いた。


 蝉の声と、鳥のさえずり。その中に交じる綾香の泣き声は一際大きい。

 目元に手を当てて、とぼとぼと帰路をたどる。離れ家の近くに着いた頃、綾香の泣き声が聞こえて不審に思ったのか、そこには洋子が立っていた。


「あやちゃん! どうしたん!」

「うわぁああぁあ! おばさあぁあ!」

「どうしたんよ! なしてそんな泣きよるん!」


 駆け寄った洋子が綾香を抱きしめるが、綾香はいっこうに泣き止まない。むしろ洋子に強く抱きついて、顔を埋めてさらに激しく泣いていた。


「せいちゃんが! せいちゃんがあああ!」

「……そう、そうなん、そうなん。大丈夫よ、あやちゃん」


 綾香の言葉に、洋子は何も言わなかった。何度も何度も頷いて、綾香を慰めるように優しく撫でる。

 洋子の目にも涙が浮いていた。綾香を抱きしめているために拭えないそれは、何に止められることもなく流れだす。二人してわんわん泣きながら、互いに慰めるように抱きしめあっていた。



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