表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/6

第四話

 

 小学校には、多くの思い出が落ちていた。

 二人で駆け回ったグラウンド。競争をしたうんていと、綾香だけが最後までできなかったのぼり棒。校舎裏のブロック塀を乗り越えると小さな川が流れていて、夏になれば二人はよく水遊びをしていた。そうして教師に見つかるたびに「危ないからやめなさい!」と怒られて、それでもやめない二人を見かねた教師が付き添いで来てくれるようになったのもいい思い出である。


 春にはグラウンドの近くで山菜をとった。夏には全校生徒と保護者と教師とで花火をして、秋にはハイキングにも行って、グラウンドでバーベキューやキャンプを楽しんだ。綾香が居られなかった冬には、雪がつもり、雪合戦や鎌倉作りが授業の中に盛り込まれていたと話には聞いている。


 綾香は、この田舎が大好きだった。コンビニもなくて、スーパーも車で一時間かけて行かなければならないほどには山にあるが、そんなことが気にもならないくらいにはこの土地を愛していた。


「あやちゃん、この木、よく登ったやつや。あん時にはとんでもなく大きいもんやと思とったけど、今思えば小さいなぁ」


 グラウンドの片隅にある一際大きな木を見上げて、征吾が目を輝かせた。上に行きたい、と最初に言い出したのは綾香だった。そんな綾香を一人で木に登らせるなんてできるわけもなく、征吾は仕方なく保護者として付き添ったのだ。昔から、無茶を言うのはお転婆な綾香だった。


「あやちゃん?」


 征吾は、なぜか黙りこんでしまった綾香を振り返る。するとその先で、綾香が目に涙を溜めていた。


「な……どしたん? 嫌なことあったん?」


 その問いに、綾香は否定を示すように首を振る。


「私……すっごく大切なこと、ここでたくさん学んでたのに……なんで人をいじめたりしちゃったんだろうって、情けない……」


 後悔をするような言葉に、征吾はやはり何も言わない。綾香は慰めを求めているわけではないのだろうと、征吾も分かっているからだ。


「馬鹿みたい……都会に住むことなんて、格好いいことでもなんでもなかったのに。勘違いしてた。便利な場所に住んで、自分は偉くなったんだって思いこんで……田舎者はダサいとか見下すようになっちゃってた。全然ダサくなんかない。全然格好悪くなんかない。私が一番ダサい。格好悪い。すっごく、恥ずかしい」


 溢れる涙を拭いながら、綾香は続ける。


「せいちゃん。ごめん。帰ってこなくてごめん。せいちゃんのこと、ひとりぼっちにしてごめん。せいちゃんが大好きで、せいちゃんとずっと一緒に居たいって思ってたのに……私、十年も帰ってこなかった」


 綾香は十年間、たくさんの友人に囲まれた。高校に入ってからは歪んでしまったが、それまでは決して一人ではなかった。右を見ても、左を見ても、誰かが居て、話しかけてくれる。そんな環境が当たり前だった。


 しかし、征吾はどうだろう。


 この田舎で一人。唯一の同級生だった綾香が東京に行って帰ってこない中、いったい誰が征吾と一緒に居たのだろうか。征吾は何度、綾香を思い出したのだろうか。もしかしたら綾香が征吾を思い出すよりも多く、綾香に思いを馳せていたのではないか。

 ひとりぼっちの少年の背中。それを思えば、綾香の胸も痛む。


「……そりゃ、恨んだことはあるよ。なんで帰ってこんのやろう、もしかしたら俺のこと忘れてしもたんかって、もう数えきれんくらい思っとった時期もある。嘘つきやって、責めたこともある」


 大きな木を見上げる征吾の目は、言葉に反して落ち着いていた。


「でももうええんよ。今はな……あやちゃんがベランダから飛び降りんかったけぇ、それだけでええと思っとる」

「……もっと責めてよ」

「責める気持ちなんかないけ、無理やわ」


 眉を下げて、苦く笑う。征吾は変わらない。おおらかな人柄は、優しい気持ちを思い出させる。


「俺に謝るより、今は東京でのこと考えてほしい。……携帯見とらんやろ」

「電源切ってる」

「おばさんも心配しとんやない?」

「お母さんは大丈夫。連絡はせいちゃんの家と取り合ってるみたいだし」

「直接連絡欲しいって思っとるよ、絶対。娘のことなんやから」


 綾香の変化に真っ先に気付いたのは、正美だった。いつもは元気な娘が、つくろうように空元気に笑って、顔色悪く学校に向かう。何度聞いても「大丈夫だから」としか言われなかったために深追いはしなかったものの、しばらく後に綾香から「もう学校に行きたくない」と唐突に言われた時には、何も聞かずに正美はそれを受け入れた。


 正美の判断のおかげで、綾香は今、気楽に過ごせている。この田舎にもう一度馴染んでしまえば、むしろ東京の方が恐ろしい場所のように思えてくるようだ。


「お友達からも連絡来とるかもよ」

「来てるわけない。私に友達なんか居ない」

「そう拗ねんと。今日帰ってからチェックしてみ」

「なんでそんなに、せいちゃんは私を前に向かせたがるの?」


 少しだけ鋭い声音だ。まっすぐに征吾に向けられたそれはしかし、すぐには拾われることなく二人の間で揺らいで消える。


「…………変わりたいって、言ったけぇ」

「私のせいなの? じゃあ変わりたくないって言ったら、そうやって進めたがらない?」

「あやちゃん、」

「私はせいちゃんと居たい! 今のまま、私だけこっちに引っ越してきたっていいよ!」

「そんなんしたらいかん!」


 征吾が初めて、綾香に大きな声を出した。怒鳴っている、と言うほどに怒気は含まれていないものの、そんな大きな声を出す征吾を知らない綾香は、ついびくりと肩を揺らす。


「……ごめん。でも分かっとるやろ。こっち来たってなんもない。意味ない。あやちゃんは東京で生きていくことを考えないかん」


 嫌だ、嫌だ、と、涙を拭いながら綾香が頭を大きく振る。


「……今日はもう帰ろか、あやちゃん。な。あやちゃんもちょっと冷静じゃないんよ」


 征吾は綾香の答えを待たずに、静かに踏み出した。それに悲しくなりながらも、まだまだ止まらない涙を垂れ流して綾香も後ろに続く。


 タイムカプセルの缶に質素な茶色い封筒を戻して、征吾は来た道を逆にたどる。振り返らないその背中からは、真意は読み取れない。それでも綾香には「東京で生きていくべきだ」という征吾の意思は堅いように思えた。


「せいちゃん」


 呼ぶと、振り返らないままで、征吾が「どしたん?」と聞き返す。


「せいちゃん。手」


 征吾の目が、横目にちらりと綾香を見る。するとそれが落ちて、差し出された綾香の手をとらえた。


「……手?」

「……この通学路は、せいちゃんと手を繋いで通ってたから」


 意図を察して、足を止める。二人はしばらく見つめあっていたものの、征吾が仕方がないなあと言うように笑ったために、すぐに空気は和らいだ。


「あやちゃんは本当、変わっとらん」


 開いていた距離は数歩分。それを大股に戻ってくると、征吾は綾香の隣に来て、その手をすくい上げる。


「やっぱり小さくなっとるわ」


 ほんの少し照れ臭そうに言って、顔を背けて歩き出した。そんな征吾を見上げて泣きそうな顔で笑った綾香は、声にならない気持ちをどう表そうかと、何度も何度も頷いていた。



 いつもの場所まで戻ってくると、手を繋いだまま、二人は向かい合って俯く。

 綾香はなんとなく察していた。きっと征吾は、今日を最後にするつもりであのタイムカプセルを掘り起こしたのだ。東京で生活をしろと背を押したのだってそのためだろう。


 征吾は今日も絶対に「またね」と言ってくれない。そして、とうとう最後になる。


「……じゃあ、あやちゃん」


 するりと、指が解ける。熱が分たれて、綾香の手のひらが瞬時に冷えた。


「せいちゃん」


 一歩、足を引いた征吾を引き止めるように、綾香の声が強めに響く。


「あと一日でいいの。明日、また来てほしい」


 自然と握り締めていた拳が震えていた。思ったよりも緊張しているのかもしれない。そんな綾香を見下ろして、征吾はきゅっと目を細める。


「…………うん。分かった」


 ずいぶん間を置いて、征吾が呟く。


「じゃあ『また明日』ね、あやちゃん」

「……うん。またね」


 綾香が踏み出してもなお、征吾は動かない。征吾は必ず、綾香が離れ家の玄関に向かうのを見えなくなるまで見送るのだ。分かっていながら振り向いて、征吾が立っていることに綾香はそっと安堵する。そうして大人しく離れ家へと入った。


 そこでふと、そういえば携帯を見ろと言われたなと、他人事のように思い出す。誰からも連絡が来ていないことは分かっているが、征吾の言ったように正美にだけは何かメッセージを出しておくかと、久しぶりにそれを取り出した。

 充電があるのかも分からない。しかし画面が明るくなったのを見れば、どうやらまだ余力はありそうだ。


 ピンクで可愛らしい待ち受け画面が表示されて、すぐに受信したメッセージを浮かべる。

 正美から数件と、もう一人。それは、綾香がずるいと思った、綾香のことが大嫌いだった友人からだった。


『ごめんなさい。分かってなかった』


 そんな一言を皮切りに、長文のメッセージがトークルームにぶら下がっている。


 綾香が居なくなり、今度は自分が標的にされたこと。そしてとうとう「田舎者だから」と最初にいじめられていた同級生が怒って、教師に言いつけたこと。しかし教師がそれをなかったことにしようと奔走していたこと。結局最後にはクラスメイトやいじめを黙認していた周囲が教師を糾弾し、親を使って校長をすっ飛ばして教育委員会に物申したこと。


 ずらりと並ぶのは、ここ最近のことなのだろう目まぐるしい出来事である。


『綾香のお母さんも出てきて、初めていじめのことを知ったって泣いてた。気付けなかったって、すごく悔しそうだった。綾香は言わなかったんだね。言わずに、ひとりで耐えてたんだね。ごめんなさい。正直、綾香のことが妬ましくて、嫌いだとか言って、だけどたぶん、憧れてたのもあった。綾香は頭もいいし、要領も良かったから、悔しかったんだと思う。ごめんなさい。だからって、いじめていいわけじゃなかった。いじめられたくなくて、だけど綾香に嫌われたくもなかったから、すごく都合のいいことをした。いじめられて初めて、あれが醜かったってよく分かった』


 憧れ。そんな言葉も、あまりピンとこない。だけど言われてみれば確かに、彼女は綾香を嫌いと愚痴を言いながらも、綾香の側に居たがっていたかもしれない。


『私も含めてだけど、私たちのグループは停学になったよ。だから綾香が今戻ってきても、学校に来るなって言われると思う。担任と学年主任と生活指導の先生はすぐに来なくなったから、辞めたのか異動したのかは分かりません。あと、石原さんが、私が停学に入る前に綾香のことを心配してた。連絡が取れないって言ったら、死なないように見張ってあげてって言ってたよ。最近のメッセージはいいね。読まれたら、既読がつくから、生きてるって分かる。最後まで読まなくてもいいから、既読だけはつくように祈ってます』


 ポタリと、画面に雫が落ちた。


 石原さんは――綾香が「田舎者だから」といじめていた「あの子」は、綾香の心配をしてくれていた。自身が同じ扱いを受けて「死にたい」と思った過去があるからか、死なないように見張ってやってと、そう言葉をくれたのだ。


 かなわないなと、どこかで思う。やはり、綾香よりもうんと「あの子」は強い。


 返信はできなかった。何を送ればいいのかも分からなかったからだ。しかし既読だけはしっかりとついただろうから、画面の向こう側ではホッとされているかもしれない。


 そんなことを思いながらもトークルームを出ると、今度は正美のところを開く。

 最初は、綾香が田舎に戻った翌日に「そっちはどう?」とあった。そしてその翌日には「みんなが押しかけてくるって洋子から聞きました。ゆっくりしてね」ときていて、連日何かと気にかけるメッセージがその後も連なっている。そして、同級生からいじめの顛末のメッセージが入っていた日と同日。その、最後のメッセージで目が止まる。


『なんにも知らなくてごめんなさい。お父さんと二人で反省しています。何をされていたのかも聞きました。落ち着いた頃にでも、ゆっくり話ができたらと思うので、連絡をください。待ってます』


 たったそれだけだ。

 きっと正美は、綾香がいじめていたことも聞いたのだろう。そうして次に標的にされて滅入ったということも分かっている。すべてを知った上での親の愛情が、心に深く沁み入るようだった。


 思えば、正美は綾香の異変に気付きながら、深く追及することはなかった。何を聞いても「大丈夫だよ」と笑う綾香にも、途中から「学校に行きたくない」と言い出した綾香にもしつこくせずに受け入れて、田舎に帰る手配までしてくれた。

 結局綾香は限界まで帰ろうとはしなかったものの、今、綾香が落ち着いていられるのは正美のおかげである。


 そこでようやく気付く。征吾は、この一連のメッセージを読んでほしかったのだろう。そうして状況が変わっているということを知らせて、綾香の意識を「東京に戻る」ということに向けようとした。綾香がずるずるとここに居着くのを阻止するためだろう。


 どうして、ということは分かっている。きっと征吾は、別れを待っている。


「……明日……」


 なんとなく、言葉が漏れた。

 また明日、と言って別れたが、本当に来てくれるかは分からない。しかしそれは今回だけでなく、ここに来てからずっとそうだった。


 今の綾香と征吾の関係はアンバランスで、ひどく危ういものである。

 手のひらに、熱が残っていた。その熱を握り締めて、ゴツゴツとした固い手の感触を思い出すと、そのタイミングで洋子が夕食を持ってきたようだった。

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ