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第三話


「……なんでって、せいちゃんが聞くの?」

「俺が関係あった?」

「あるよ。……だけど、言わない」


 当時よりもうんと小さく思えるその寂れた神社に二人。征吾は何も言うことなく、綾香の横顔を見つめる。

 綾香は弱い。征吾はそれをよく知っている。きっと、認められないことの方が多いのだ。


「母さんがな、明日はさきちゃんが来るって言よった」

「そうなんだ」

「遊びにいかんの? 来てくれるのに」

「……行かないよ。絶対行かない。私はせいちゃんとここに来る」

「飽きん?」

「飽きない」


 綾香の即答には、征吾はもう何も言えなかった。

 どうしてそんなにも頑ななのか。分かってはいても、気が気ではない。


「せいちゃんはどうだった? 私が東京に行ってからの十年間」

「俺?」

「そういえば、聞いたことなかったなって思って」


 綾香にとっては、目まぐるしい十年間だった。東京という大都会で過ごしたのだから、当然と言えば当然だろう。しかし、残された征吾がどうだったのかは綾香には分からない。離れ離れになった当時は携帯電話なんて持ってもいなかったから、綾香が帰らなければ接点もなかった。行事ごとに帰省していたのは両親だけだ。綾香はいつも「友達と遊ぶから」と、都会に魅了され、田舎を「ダサい」と思っていたために、田舎に帰りたがらなかった。

 だから、綾香は征吾の十年間を知らない。


「なぁんもないよ。俺は何一つ変わっとらん」

「……見た目は変わったね。おっきくなった」

「そりゃ、成長はするけぇね」


 寂しそうだった表情が一変、征吾は嬉しそうにカラカラと笑う。


「それ言うなら、あやちゃんやって変わっとる。女の人になっとるやん」

「今はせいちゃんの話をしてるのに」

「俺の話は面白くないけ、ええんよ」


 ハツラツとした笑顔は変わらないなと、征吾を見て、ひっそりと心で思う。

 征吾はいつも元気だった。元気だねと言われる綾香よりも活発で、いつも綾香の手を引いて遊びに連れて行ってくれた。やや強引ではあったものの、征吾のそんなところに救われていたこともあったために、苦言を漏らしたこともない。もちろん、悪い気持ちになることもなかった。


「もう戻ろか。母さんがご飯持ってくる頃や」


 たわいもない会話を繰り返していると、時間は案外あっという間に過ぎる。征吾と過ごすと特にそうだ。綾香はいつも、自分だけが流れの早い世界で生きている感覚にさせられる。


「うん。戻る」


 帰り道も、ゆったりとした時間である。「昔ここで虫捕りした」だとか「蛇が出てきて二人して逃げた」だとか、そんなことを語らいながら裏山を下りるのだ。

 十年前は体の中程まであった草木も、今では太腿あたりまでしかない。時間の経過を感じながら歩む征吾との落ち着いたこの時間が、綾香は案外気に入っていた。


 戻ってくると、征吾はいつも綾香に声をかける引き違い窓の前まで送ってくれる。そこから立ち止まって綾香を見送る、というのがいつもの流れだ。


「じゃあ、ありがとうせいちゃん」

「うん。こっちこそ」


 征吾が手を振る。綾香が帰るまでは、征吾は絶対に動かない。分かっている。征吾はしっかりと綾香を見送ってくれるのだ。しかし今日もダメだったかと、仕方がなく綾香が口を開いた。


「……明日も来てくれる?」


 綾香の問いに、征吾がピタリと手を止めた。


「あやちゃんが家に来てくれんなら、俺は来るよ」

「行かないよ。だから来てよ。待ってるからね」

「そんなら仕方がないけ、来んといかん」


 へにゃりと、眉を下げて力なく笑った。きっと征吾は「やっぱりあやちゃんは変わらん」とでも思っているのだろう。それでも綾香は気にしない。綾香は毎日でも、それこそ仲が良かったさきちゃんが来るとしても、征吾と居たいと思っている。


「また明日ね」


 ようやく綾香が手を振った。それに征吾も笑顔を返しながら、同じように「またね」と呟いた。



「あやちゃん。どこか行っとったん?」


 離れ家に戻って少し、征吾が言っていたように、ちょうど洋子が夕食を持ってきた。作りたてなのか、温かであることを証明するようにほくほくと湯気が立ち上っている。

 引き換えに渡した洗濯物を見て、そこに草やひっつき虫がついていたために洋子は不思議そうな顔をして聞いた。


「うん。裏山に行ってた」

「そうなん。ええね、ゆっくりしてやね。……そうや、明日、さきちゃんが来るって言ってるんやけど……引き止めとこうか? まだしんどいよね?」

「うん。申し訳ないけど……」

「ううん。ええんよ。……おばさんね、嬉しいんよ。あやちゃんが来てくれて、お世話できるんが楽しい」

「ありがとう。そう言ってもらえると、私も気が楽だよ」

「真知子も喜んでるんよ。あやちゃんのこと、本当のお姉ちゃんやと思っとるから」


 そうして洗濯物を持つと、洋子が外に出ようと背を向ける。しかし扉を開けてすぐ、ちらりと微かに振り返った。


「……あやちゃん、うちにはまだ来ん?」


 声のトーンから、表情は曇っているのだと分かる。

 洋子はそれ以上何も言わなかった。それでも綾香には充分である。ただ静かに首を振り、小さなため息を吐き出す。


「うん。……もう少し、ここで一人で居させて」

「……そう。無理にとは言わんのよ、ごめんね、急かすみたいなこと言って」

「ううん。ありがとう。……私、おばさんとおじさんにはすっごく助けられてる。本当に、感謝してもしきれない」

「何言っとんの! 当たり前のことしよるだけよ。いつでも来てね、うちは大歓迎やから」


 今度は明るい笑みを見せて、洋子はとうとう出て行った。

 洋子は嘘をつかない。だからきっと、本当に綾香のことを邪険に思っているわけではない。それが分かるからこそ、綾香も気負わず、気を遣わずに過ごせている。


 外を見れば、もう日が傾いていた。空のグラデーションを見つめながら、東京ではこんなにも澄んだ空は見られなかったなと、ぼんやりとそんなことを考えていた。



「あやちゃん。おはよう」


 翌日も、引き違い窓の外から声がした。もちろん征吾の声だ。すでにしっかりと準備を済ませていた綾香はすぐに靴を履くと、声のした方へと駆け出す。


「せいちゃん!」

「声がでかい! 今日も元気やね」


 仕方がないなあ、と言わんばかりに、征吾が笑った。


「なああやちゃん。今日は、あやちゃんが東京行く前に埋めた、タイムカプセル掘り返しに行かん?」

「……タイムカプセル?」

「やっぱり忘れとった。……ほら、引越し決まってからあやちゃん、毎日毎日寂しいって泣いとったけぇ、そん時に『じゃあ帰ってくる理由を作ろう』って言って、埋めたやん」


 そういえばと、綾香はようやく思い出す。

 父のところに行くからと正美から伝えられたとき、綾香はすぐに征吾に伝えるために家を飛び出した。そうして泣きながら「離れたくない、寂しい」と繰り返して、突然家にやってきた綾香に何事かと身構えた洋子をも困らせたのだ。


「そうだね、そういえば、せいちゃんが言ってくれたんだよね。また帰っておいでって」

「そうそう」


 征吾が、まるで案内するように歩き出した。きっとタイムカプセルのところに向かうのだろう。理解した綾香は、それに黙ってついて歩く。


「その感じやと、何書いたか覚えてないん?」

「うーん……覚えてない、ね」

「あやちゃんらしい。んでも、俺も覚えとらんから、そんなもんなんやろね」


 懐かしい道だ、と感じたのは、征吾が山中の獣道に足を向けた時である。

 鬱蒼と茂る草木。揺れる木漏れ日の落ちるそこは、道と呼ぶにはあまりにも心許ない。涼やかな風は夏には快適で、まるで避暑地とも思えるほどに過ごしやすい気候に変える。音も、声も、温度も。何もかもが綾香に「懐かしい」という感覚を思い出させるようだった。


 征吾と二人、まだ幼かった当時は、小学校までの少し遠いこの道のりを、近道だからと言って手を繋いで歩いていた。今思えば危ない道ではあるが、子どもとはそういったことには疎い。まるで冒険でもしているような心地で通学していたのをよく覚えている。


「ねえ、ここで鹿見たの覚えてる? 野生の牡鹿!」

「あー、おったね。すっごい遠くからこっち見よって、二人でゆっくり逃げたんやっけ」

「そう! 食べられるかもしれん! とか言いながらさ、なんか怖がってたよね」


 綾香が笑ってそう言うと、征吾も嬉しそうに「そんなことはよう覚えとるなあ」と笑った。

 ここは本当に、肌から感じられるすべてが綺麗な場所だ。空気も、匂いも、その森の色でさえ、何もかもが澄んでいる。全身で当時を思い出しながら歩いていると、やがて二人は小学校にたどり着いた。綾香が半年と少ししか通えなかった学び舎だ。かつての通学路をたどっていたために、ここに向かっているのだろうとなんとなく察してはいたが、実際に目の当たりにすると心も浮かれる。


 正門を乗り越える征吾に続いて、綾香もそこをよじのぼる。幸いにも小学生に合わせた高さで難なく進めたが、行儀悪くよじのぼるという行為が久しぶりなために、少しばかり胸がざわついた。


 閑散とした敷地内を、二人は目的地に向かって突き進む。かつての学び舎が廃校になった、ということは綾香の耳にも届いていた。綾香たちが中学三年生になった頃である。山をおりたところにある小学校と合併されて、綾香たちが通っていた校舎は使われなくなったのだ。


「あやちゃん、こっち」


 綾香はキョロキョロと見渡して懐かしさに浸っていたのだが、征吾が容赦無く腕を引っ張る。やってきたのは、中庭の大きな桜の木の前だった。


「ここだっけ?」

「そうやね。この下」


 征吾が、近くに落ちていた折れた太い木を使って、そこを掘り返す。すると征吾の言った通り、明らかに埋められたと分かるお菓子の缶が顔を出す。


「ど、ドキドキするね……ねえせいちゃん。開けてみて」

「……うん」


 意味深に綾香を見上げた征吾は、言われてすぐにその缶を取り出した。

 もうすっかり古びた缶だ。とある遊園地に家族で行ったときのお土産だったそれは、確か征吾が用意したものである。

 少々の開き難さを感じながらも蓋を外すと、中には二つの封筒が入っていた。


「こっちがあやちゃんのな」

「うわあ、懐かしいね。これ、昔持ってたの覚えてる……!」

「言っとったね、お気に入りやからこれ使うんやって」

「そうだっけ?」


 征吾の方は、可愛らしい封筒でもなんでもなく、シンプルな茶封筒だった。そこで「そういえばこれしかなかったって言ってたっけ」と綾香も思い出す。征吾は昔からあまりこだわらないのだ。


 逸る気持ちに背を押されるように、綾香はかつてのお気に入りの封筒を開封する。本当に内容を全く覚えていないために、ドキドキも倍増である。


『未来の私へ』


 一番に、そんな書き出しが見えた。それでも内容は思い出せず、目を滑らせていく。


『わたしはいま、いくつですか? おとなになりましたか? わたしは、ここでおとなになりたかったけど、とうきょうにいかないといけないみたいです。すぐに、かえってきてください。ぜったいぜったい、とうきょうになんて、すまないでください。おとなになっても、ここで、せいちゃんといたいです。せいちゃんとは、なかよしですか? せいちゃんは、まだいっしょにいてくれてますか?』


 綾香の目が、タイムカプセルを掘り返してしゃがみ込んだままの征吾を映す。指先に力が入り、手紙にクシャリと線が走った。

 まだ、一緒に居てくれてますか。そんな過去の自分の問いが、心に深く突き刺さる。


『わたしは、せいちゃんがだいすきなので、ぜったいにいっしょにいてください。できれば、けっこんのやくそくもしたいけど、わたしにはゆうきがないので、みらいのわたしにまかせます。せいちゃんとけっこんしてください。よろしくおねがいします。 あやか』


 過去の自分の純粋な気持ちを、ふつふつと思い出した。

 綾香は、征吾といつも一緒に居た。閉鎖的な田舎で、同じ歳で近くに住んでいたのがお互いしかいなかったから、というのも一つの理由としてあるのだろう。


 それでも、そんな中でも気が合うのは奇跡的な確率のはずだ。お互いにストレスもなく、当たり前のようにそばに居て、これから先一緒に居る未来さえも疑わないほどには、お互いの存在が身近なものに思えていた。

 結婚なんて大それたことを本気で考えていたわけではない。しかしそれさえも許容できてしまうほどに側に居たのは確かである。


「あやちゃん?」


 視線に気付いた征吾が、綾香を見上げる。

 十年前よりも垢抜けた。たくましくなった。大人っぽくなった。そんなことを思いながら、どこかぼんやりと征吾を見ていた綾香は、緩やかな笑みを口元に浮かべる。


「なんでもない。せいちゃんのほうはなんて書いてあったの?」

「あー、俺のね。……うん。これは、あやちゃんが俺の家に来たら読ませたげる」

「じゃあ読めないよ」

「はは、頑固もんや。あやちゃんはなんて書いとったん?」


 封筒に便箋を戻しながら笑う征吾の隣に、綾香は同じようにしゃがみ込んだ。


「ほら」


 そうして手紙を征吾に見せると、征吾の顔がゆっくりとにやけていく。


「昔っからあやちゃんは、俺のことが大好きやけぇね」

「そうだったね。……私、なんで帰ってこなくなっちゃったんだろ」

「……そんなん、気にすることやない。あやちゃんはあやちゃんの人生を歩んどったってだけやけ」

「でも。……私は、せいちゃんに救われてばっかりだったのに。せいちゃんがいっつも側に居てくれてたから、すっごく楽しかったし」

「それは俺もやん」


 征吾は責めない。綾香が故郷を忘れても、故郷を「ダサい」と思っていても、征吾は絶対に綾香を甘やかさない。


「責めてよ」

「責めんよ。変わりたいんやろ」

「……変わりたい。だけど、今のままでいたい。……未来に、行きたくない」

「……わがまま言わんでや。あやちゃんは、進まんといかんのやから」


 それは、とても穏やかな声だ。綾香を諭すような優しい音で、この田舎の空気にも馴染む。

 時が止まったのかとも思える沈黙の後、それを断ち切るように立ち上がったのは征吾だった。


「せっかくやからさ、ちょっと校舎の周り歩いてみん? 中には入れんけぇ、面白ないかもしらんけど」

「う、うん! 行く。行きたい」


 綾香がすぐに駆け出すと、征吾もゆったりと踏み出した。


 

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