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第二話

 

 綾香と征吾は、生まれた時から一緒にいた。どこに行くにもどちらともなく側に居て、性別の違いなど関係なく、物心ついた頃には「側に居て当たり前」と平気で言えるほどだった。

 そんな征吾だからこそ、綾香もすべてを素直に吐き出すことが出来た。

 大変やったねと洋子に出迎えられたときにも「大丈夫だよ」と笑い、無理せんでええけぇと高雄が気を遣ったときにも「無理なんかしてないよ」と格好つけたというのに。征吾が「何があったん?」と聞いただけで、綾香はスラスラと話せてしまった。


 本当は聞いてほしかったのだろう。それでも素直になれる相手が、征吾しか居なかった。

 同じ歳の幼馴染。その存在が、綾香の中では大きなものとしてある。それなのに綾香は忘れていた。ダサいと言って嘲笑い、帰ることもせず、あまつさえ頭の中からその存在を消していたのだ。


 三ヶ月前に一度、帰るチャンスが訪れた。しかしそのときにも、綾香だけは都会に残った。

 その選択が正しかったのかは、綾香にはいまだに分からない。それでも動けなかったのだから、きっとそれが当時の「正しい」答えだったのだろう。


 今でも、よく覚えている。ひとりぼっちの暗い部屋で、ぼんやりと時間がすぎるのを待つ数日。窓を開け放ち、風を感じて、何度ベランダに立ったのか。

 見下ろした先にある「死」に、綾香は確かに焦がれていた。


「あやちゃん。起きとる?」


 綾香が田舎に戻ってから毎日、征吾は綾香の元を訪れるようになった。

 必ず引き違い窓の外から声をかけて、裏山にある寂れた神社に向かう。もう日課のようになったそれに最初は対応できなかった綾香も、二週間経った今ではすっかり慣れっこだ。


「お待たせ、せいちゃん」

「昨日、まさおいちゃん来とったんやろ? 大丈夫やったん?」

「大丈夫だよ。……ありがたい話だよね。毎日ね、誰かしら来てくれるの」

「父さんと母さんはやめさせたいみたいやけどな。あやちゃん、まだゆっくりしたいやろうし」


 いつもの神社への道をたどる征吾の背中に、綾香は黙ってついて歩く。

 蝉の声の隙間から、葉が重なり合う爽やかな音が聞こえる。それは征吾に落ちていた影をも揺らし、コントラストを変えていく。


 夏が教える。広い背中に落ちる影。揺らめくそれの儚さを思い出せと、嫌と言うほど押し付ける。


「あやちゃんは子どもの頃から、嫌なことあった時は一人になりたがっとったけぇなぁ」


 歩みを止めることなく、征吾が小さく呟いた。


「そうだった?」

「そうやった。……暗い部屋で一人、体育座りするんよ」


 暗い部屋で、一人。そう言われて不意によぎったのは、いつかの日のことだった。

 まだひんやりとした空気の残る季節、綾香は一人で部屋に居た。学校にも不登校で行っておらず、両親は揃って田舎に帰って、家にも綾香ひとりぼっちだったあのとき。

 心を埋め尽くしていた絶望と虚無感に、綾香は涙すらも流せなかった。


「泣きもせん。しゃべりもせん。あやちゃんはな、一人で暗い部屋でただ、呼吸するだけになる」


 寂れた神社の鳥居を抜けて、征吾がいつもの場所に座る。

 柔らかな風が吹く。それは綾香と征吾の真ん中を吹き抜けて、涼やかな音を立てる木々の中に溶け込んだ。


「どうしたん、あやちゃん。こっち来て、話そうや。俺が知らんときのこと、今日も教えてほしい」


 ニカッと、白い歯を見せて征吾が笑った。キラキラとしたそれに目を細めながら、綾香は静かに歩み寄る。


「……どうしようかなー。本当、情けない話ばっかりだし」

「情けないとか情けなくないとかやないよ。俺が知りたいだけやけ。……俺は、あやちゃんの口から、聞きたいんよ」

「……友達だった子たちのこと?」

「それはもう聞いたで。あやちゃんの友達には、茶色い髪の毛の子と、彼氏が三人おる子と、とんでもなく緑色が好きな子がおるんよな」

「そうそう。いつものグループの子ね。……あと一人居るよ。私のことが大嫌いだった子」

「……なん? それ」


 征吾はいつもと変わらないトーンで聞き返した。

 過度に怒るわけでもない。過剰に反応するわけでもない。そんな態度が綾香にはひどく心地よく、口元がついゆるりと緩む。


「私がいじめの標的になった時にね、しばらくしてその子から電話がきたの。ごめんねって謝られて、本当はいじめなんかしたくないんだけどって言われてね。学校では話せないけど、愚痴とかは電話で聞けるからってさ」

「そうなんや」

「私みたいでしょ。私もあの子に、ひっそり謝りに行ったからさ。……ずるいんだよね、その子も。私知ってるんだよ。その子、私のこと大嫌いなの。その子の好きな男の子と仲が良かったから、私のことが嫌いだって愚痴ってるのも聞いたことあったし」


 その男の子と恋人関係であったとか、まったくそんなことはない。同じ委員会ということもあって、それなりに仲が良かっただけである。それでも綾香はいつも、水面下でひどく敵視されていた。


「すごく腹が立った。都合良すぎることばっかり言うんだもん。みんなの前では私をいじめて、でも学校の外では相談してねって……ただの八方美人じゃん。でもさ、そんなこと言い出したら、私にも当てはまっちゃう。私だってあの子におんなじことしたんだから」


 綾香が謝ったとき、同級生は憤りを露わにした。それはきっと、綾香が感じたものと同じなのだ。


「全部、全部返ってきてるの。あの子にしたこと全部。与えた気持ちも何もかも、今、私に返ってきてる。因果応報なんて言うけど、本当なんだね。……だから私に恨む権利なんかないんだよね。私が『腹が立つ』とか、絶対言っちゃいけない」

「……そうなん?」

「そうだよ。だって、私がやったことなんだから」

「なんで?」


 征吾の静かに熱を持った目が、綾香をとらえる。

 他意のない声だった。そんな征吾の様子には、綾香も言葉を奪われた。


「……なんで、って……」

「なんであやちゃんがおんなじことしとったら、相手を責めたらいかんの?」


 それは、子どもが大人に意味を問うときと変わらない。純粋で、まっすぐな質問だと思えた。

 どうして、とは難しい質問だ。通常であれば、自分がしたことが返ってきて文句を言うのはいけないことだと、なんとなくにでも思ってしまう。しかしそれに「なんで」と聞かれれば、途端に分からなくなる。絶対にダメなのかと聞かれても、答えは否だ。


 本当に、どうして綾香は頑なに「責めたらいけない」と思っているのか。ぐるぐると考えるが、答えはどこにも見当たらない。


「結局、あやちゃんがみじめになりたくないだけや」


 その言葉は、鋭く刺さる。


「自分とおんなじことしよる子に腹立てたら、自分がその子よりみじめで醜くなるって思っとる」


 ざわざわと、木々が騒いでいた。風に揺れて、擦れ合って音を立てる。それはまるで、綾香の胸中を表しているかのようだった。


「あやちゃんはもう最低なんよ。最低でずるいのに、それ以上最低になりたくないって思っとるんや」

「……最低……とか、そんなこと、なんでせいちゃんに言われないといけないの。私が一番分かってる」

「もう『それ以上』なんかない。あやちゃんは充分最低やけぇ。なんで今更いい子ぶって、綺麗に綺麗に終わろうとしとるん」


 そんなことを言われなくても、綾香だって分かっている。

 いじめを始めてから、周囲の目がひんやりとしたものに変わった。話したことのないクラスメイトも、別のクラスの同級生たちも、綾香と綾香のグループを極端に避けるようになった。もちろん口には出さず、あからさまに態度にも出さない。しかしそれが余計に気持ち悪く、綾香たちがどれほど最低なのかを突きつけてでもいるようだった。


 いつだって言外に責められていた。浴びせていた罵声はそのまま、周囲から無言で浴びせられていた。


「あやちゃんが最低じゃなくなるんはもう無理や。過去は消えん。やったことも、与えた気持ちも、何一つなかったことになんかならん。無駄なことしよる」

「……別に、消したいとか言ってないじゃん」

「おんなじことやろ。あやちゃんはこれ以上悪者になりたないけぇつくろって、綺麗に見せようとしとる。そんなんでいじめたことが無くなるんなら、人は死なん」

「あの子は死んでない!」

「死にたいと思ったことまでないとは言い切れんやろ。あやちゃんもあったんやない?」


 思い出して、飛び出しかけた言葉が喉の奥で引っかかる。

 無い、と言えば嘘になる。暗い部屋で一人、陰鬱な気持ちの中で、この世界から消えてしまいたいと考えたことは数え切れないほどあった。


 たとえば、綾香が住んでいるマンションのベランダから飛び降りればどうなるだろう。きっと一瞬で終わる。幸いにも十二階に住んでいるために、失敗のリスクは低い。一瞬で真っ黒になる。意識が飛んで、この世界から消えることができる。

 手すりに手をかけて、下をのぞく。風が頬を撫でて、飛び降りろと誘っているようにも思えた。

 一度や二度ではない。綾香はいじめの標的にされてから、もう何度も繰り返しベランダから下をのぞいていた。


「……ある……あるよ。あるに決まってるじゃん。せいちゃんには分かんないよ。殴られるとか蹴られるとか、そんなんじゃないんだよ。そんな生温いものじゃない。もっともっと陰湿で、ひどくて……人として屈辱的な目に何度も遭わされるんだよ」


 綾香が標的になり、いじめられなくなった同級生は、綾香のことを遠巻きに見ているだけだった。同情も浮かばない目で、ただ冷たく、侮蔑を含んだ目を静かに綾香に向ける。

 その目が語る。綾香の浅はかで悪辣な行いを、嘲り、ザマアミロと嗤う。


「もちろん俺には分からん。俺はあやちゃんみたいに最低なことしたことないけぇ、分かるわけない」

「最低最低って……分かってるよ言われなくても! 私が一番分かってる。分かってるけどさ……なんにも知らないせいちゃんにそんなこと言われたくない!」

「やから教えてっていっつも言いよる。……あやちゃんが帰ってこんかった十年間を、俺は知らん」

「嘘つき! 本当はせいちゃんも責めてるくせに! 都会に行っていい気になってた私を馬鹿だって思ってるんでしょ!」

「そんなんやない」

「怒ってるんだ! あのとき私が、帰ってこなかったから!」


 そこで、綾香がハッとして口を閉じた。

 三ヶ月前。暗い部屋でひとりぼっちだったあのときの気持ちを思い出せば、それ以上の言及もできるはずがない。

 しかし征吾は気付かなかったらしく、ふるりと緩やかに首を振った。


「怒っとらん。どこにおっても、あやちゃんが元気でおってくれとるんなら、俺はそれで良かったけ」


 征吾は綾香を絶対に責めない。綾香も分かっていたはずだった。

 荒れていた心が、優しく鎮まっていく。


「……あやちゃんはもう最低なんやから、これ以上最低になることはないんよ。そんなら、汚くなりたくないとか、みじめに思われたくないとか、そんなん何も考えず全部吐き出した方が、すぐ前を向けるやろ」


 征吾は昔から、本当に本当に、綾香には優しい。いや、甘いと言うのかもしれない。それでも綾香はその甘さとも優しさとも言える征吾の言葉に、何度も救われてきた。


「今言わんと、言いにくなる。このあと、たとえば和解したとしたら、もっともっと言えんなっていくよ」

「……でも……汚いよ。おかしい。私が、怒ってるとか、悔しい思いしてるとか……あの子だって、」

「あの子は関係ないやろ。今ここにおって、しゃべって、傷ついてるんはあやちゃんなんやから」


 傷ついている。そんな資格はないのに、綾香はそう言われて初めて、そうなのだと自覚した。

 今まではそんなことがあってはいけないと、無意識に抑えていたのだろう。もういいよと言われれば案外簡単なもので、ぽろぽろと心が崩されていく。


 本当は、綾香だって泣いてしまいたかった。泣いて、喚いて、やめてって言いながら、怒って、殴りかかってやりたかった。だけど出来なかったのだ。だってかつていじめられていた同級生はそんなことをしなかった。綾香たちが与えた屈辱を、泣くこともなく、喚くこともなく、すべてをさらりと受け流していた。


 もしかしたら、負けたくなかったのかもしれない。今まで下に見ていた同級生が泣かなかったというのに、自分がそうすることが、それこそ「ダサい」ように思えていたのか。


「怖かったんだよ……みんなが私をザマアミロって目で見てるの。あの子だけじゃない。今までいじめを傍観してた子たちもみんな、あんなことするから返ってきたんだよって、そんなふうに目で言うの。……先生もみんな見てみぬふり。目に映る人は全員が敵だった」


 綾香の震える声は微かながらに、征吾の耳にしっかりと届く。


「いじめられることはすっごく怖かった。腹が立った。殺してやりたいって思った。都合よく手のひら返していじめてくる子も、学校の外でだけ都合いいこと言ってくるような子も、全員殺してやろうって何度も何度も思った。後のことなんか考えてなかったよ。全員殺して私も死ねばいいじゃんって、それで解決するじゃんって思ってた」


 あの同級生が、どういった気持ちでいじめを受け続けていたのかを綾香は知らない。しかしおおよそ、同じ気持ちだったということは分かっている。

 あんな仕打ちを受けて、悲しくないわけがない。悔しくないわけもない。それも原因が「田舎出身だから」である。自分自身には一切比がなく、それどころか大好きな故郷を馬鹿にされてのことだ。綾香よりも、その念は大きかったことだろう。


「傍観者が一番ムカつく。何もしてないからいいでしょって、そんなわけない。あんなふうに見て『何もしてない』とか絶対に言っちゃいけない。私が悪かったのは分かってる。だけど、あの子がいじめられてる時にも何も言わなかったくせに、私に『ザマアミロ』って思う資格なんかない」


 綾香は俯くと、その顔を嫌悪に歪めた。

 都合が良いのは分かっているのだ。しかしそれはきっと、綾香に限った話ではない。


「あやちゃんは、頑張ったんやね」

「頑張ったよ。……生きることを、頑張った。気を抜いたら、ベランダから飛び降りそうだった……!」


 沈黙が落ちる。征吾は、言葉を迷っているわけではなさそうだった。


「なんでそうせんかったん?」


 少しあとに、小さく聞こえた。隣に座る綾香にはしっかりと届いていたそれは、拾われることもなく、風の音にさらわれる。


 真実、綾香は何度もベランダに立った。下をのぞき、怯えながら、それでも「もういっそ」と繰り返し思っていた。

 ほんの少しの勇気で、苦痛から救われる。綾香をいじめていたかつての友人たちにも意趣返しができるだろう。友人たちは罪をとわれ、インターネットに個人情報が晒されるかもしれない。今度は、あの友人たちが、学校中からいじめられるかもしれない。退学をしても、罪はまとう。どこに逃げても時が経ってもレッテルは貼られたまま、大人になっても人を死ぬまで追いこんだという事実は残る。


 そこまで考えて、手すりを乗り越えようとしたこともあった。

 乗り越えて、浮遊感の後に落下する。風を裂きながらまっすぐに落ちて、心拍が上がり、地面がぐんぐんと迫る。一瞬とも言える出来事はきっと、一分とも十分とも思えるのだろう。そうして目の前に地面が迫り、体が打ち付けられて弾ける。それで終わりだ。意識は随分前に奪われているだろうから、恐れることもない。

 分かっている。分かっていたのに、綾香は動けなかった。


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