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第一話

 

 ガタゴトと揺れる車内に身を委ねて、綾香は右に左にと微かに振れていた。荒い道中である。獣道のような山道を走る車は、そもそも山道走行に向いていないのか、普通の車に比べて大きく跳ねているようにも見える。

 窓を隔てた向こう側。くぐもって聞こえる蝉の声は遠い。夏の暑さも遮断された車内は快適で、綾香はただ揺られながら、窓の外をぼんやりと眺めていた。


「本当に久しぶりやねえ、あやちゃん。もう十年ぶりやって」


 助手席で指折り数えていた洋子が、横目に振り向いた。


「絶対みんな喜ぶと思うわぁ。ねえ、高雄さん」

「そうやなぁ。今はみんな落ち込んどる時期やけぇ」

「真知子も楽しみにしとるんよ。遊びに行かんと待っとくんやって言っとったわ」


 クスクスと笑う洋子に、高雄は「やけ真知子早起きしとったんか」と意外そうな声をあげる。二人の会話を聞いていた綾香は、何も言わずに目を伏せた。


 綾香は、七歳の頃まで田舎の山に住んでいた。

 自然が多いのはもちろん、田んぼや畑も広がる景色の中、ポツポツとある家々が密やかにコミュニティを形成しているのどかなところである。小学校は少し離れたところにあり、全校生徒で一クラス。近くのスーパーに行くにも車で一時間を要する上、コンビニなどはもちろんない。鳥のさえずりと小川のせせらぎを聞いて朝を迎え、夜には満天の星を楽しみながら眠るような、そんな場所で暮らしていた。


 しかし綾香が七歳のとき、単身赴任で都会に住んでいた父親が、やはり家族で暮らしたいと強く願ったために都会に住むことになった。

 綾香は自然しか知らなかった。遊ぶ場所と言えば、小学校のグラウンドと近くの小川、そして裏山にあった寂れた神社くらいのものである。


 それが突然都会に出た。それはもう「興奮」なんて言葉ではおさまらない。建物の高さにも、人の多さにも圧倒された。さらには二十四時間開いている店があったり、夜になっても人が多く行き交う場所があるということにもたいそう驚いたものだ。

 綾香の目にはすべてが真新しく映り、キラキラと心に焼き付いていく。

 好奇心旺盛だった七歳の少女を虜にするには、「都会」という街はあまりにも魅力的すぎた。綾香はひと月もしないうちに、すっかり都会暮らしに夢中になった。


「ねえあやちゃん、正美は元気なん? ほら、三人目のお子さん、まだ小さかったやろ」

「……うん、お母さんはすっごく元気。弟には手を焼いてるみたいだけど」


 弱々しく小さな声だった。しかし洋子は気にしなかったのか、楽しそうな笑みを浮かべて続ける。


「そうやろなぁ。二歳って聞いたけ、心配やったん。あやちゃんこっち来ると育児の戦力減るやろうし……真ん中の子はまだ八歳やし」

「洋子、着いたで。今日はあやちゃん疲れとんやから、はよ寝かしてやらんと」

「分かっとる。みんなあやちゃんと話そうって集まるん、邪魔する係は任せとき!」


 洋子はそう言って、再び綾香を振り返る。ニッと歯を見せて拳を作っているその姿は、今の綾香には眩しいものに思えた。



「おかえり! あやちゃん、まっとったよー!」


 家の前に着いた頃、第一に飛びついたのは、洋子と高雄の末の子である真知子だ。三つ年下の真知子も、当然ながら綾香の記憶の中の真知子よりも十年分は育って、まるで知らないお姉さんのようになっている。


「まち、暑い」

「ひどっ! 久しぶりやのにー!」

「こら真知子。あやちゃん疲れとるんやからひっつかんの! まだみんな来てないん?」

「うん。みんな夜に顔出そかって言いよったけど」

「いかん、高雄さん、私先にあやちゃん案内してくるわ」

「そうやな」


 高雄はまだまだ綾香に構いたそうだった真知子をひっつかむと、任せた、と言わんばかりに洋子に手を振る。


「いろいろあって疲れとるやろ。あやちゃん、今日はゆっくりしぃ」

「……ありがと、おじさん」


 十年ぶりのお隣さんの夫婦は、その笑顔と優しい人柄に変わりはないらしい。それにひっそりと安堵した綾香はすぐに、先に歩きだした洋子の背を追いかける。


 綾香の両親と、洋子たちは仲が良い。とはいえ、綾香が帰ってくるとなったときに「面倒をみる」なんてことを言い出さなくてもよかったはずだった。当然だ。仲が良いとはいえ、他人の子である。そんな面倒ごとを引き受ける必要はないし、通常であれば避ける道だろう。それでも洋子たちはそうせずに、綾香を本当の娘と思って引き受けてくれた。それを思えば、綾香の心も凪いでいく。


「あやちゃん、東京にはすぐに慣れたん?」


 洋子がそう聞いたのは、離れ家の扉を開けた時だった。

 むわりと、古びた家の匂いが鼻をつく。どこか懐かしいような、それでいて落ち着く香りだ。


「うん。慣れた。……慣れすぎた、のかも」


 蒸せ返る暑さと、じんわりと浮かぶ汗。鼓膜には蝉の合唱が張り付いて、五感のすべてに訴えかけている。


 夏が教える。田舎を。現実を。子どもの頃の、何もかもを、思い出させる。

 ワンルームのような離れ家にキャリーケースを置いた綾香は、そこでようやく肩から力を抜いた。


「おばさんも、ありがとう。いつまで居るか分かんないけど……ごめんね。なんか、面倒ごと押し付けちゃって」

「何言っとんの! だぁれもそんなこと思っとらん! ……あやちゃんは、きっとちょっと疲れたんよ。東京は広すぎて、たくさん気ぃ遣わな大変そうやけ」


 洋子は気丈に笑った。綾香の知っている、元気をくれていた笑顔である。

 そうしてすぐに「じゃあ私はみんなを邪魔するけぇ戻るけど、誰が来ても開けんでええから! 寝たふりしよき!」と残すと、洋子はピシャリと扉を閉めて離れ家を出て行った。


 十年は決して短くない。けれどここは、何一つ変わらない。

 洋子はとても優しい。高雄は強くたくましい。真知子は変わらず無邪気に天真爛漫で、この田舎の空気はあまりにも心地良い。自然も、音も、匂いも、すべてが十年前と変わらず、綾香を心地よく受け入れる。

 まるで、これまで住んでいた東京が……あの大勢が行き交うギラギラとした大都会が、遠く別の世界にあるとさえ思えてしまう。

 静まり返った部屋で一人、綾香は改めてため息を吐く。懐かしくも愛しい故郷に帰ってきたのだと、唐突に頭が理解したようだった。

 


「あやちゃん」


 声が聞こえた。ただしそれは扉の方向からではない。綾香のすぐ近くにある、引き違い窓の外からである。

 聞き馴染みあるものよりも低い。しかし綾香はすぐに誰かを理解して、迷いもなく窓を開けた。


「せいちゃん!」

「しーっ! ばか、声がでかい」


 困ったように眉を下げて笑うと、照れ臭そうに頬をかく。十年経って身長が伸びて、声も低くなって体つきもがっしりとしたのに、見せる表情は昔と変わらないのだなと、そんなことに綾香はつい嬉しくなった。


 綾香と征吾は幼馴染だ。綾香が七歳で東京に行くまでずっと一緒に居た、仲の良い男の子である。

 この田舎出身である綾香の母、正美と、征吾の母である洋子が幼馴染だからこそ、仲が良くなったと言ってもいい。二人は生まれた時から一緒に居て、どこに遊びに行くにも手を繋いで駆け回っていた。


「あやちゃんどうせ疲れてないんやろ? 久しぶりに神社行かん?」


 思い出すのは、小さな頃に「二人だけの場所ね」と言っていつも訪れていた、裏山に埋もれるように存在する寂れた神社である。

 綾香はもちろん、一も二もなく大きく頷いた。それを見て嬉しそうに笑うと、征吾が先に歩き出す。綾香も慌てて外に回ってしっかりと施錠をすると、征吾の元へと駆け出した。


「あやちゃん、いつまでおるん?」

「はっきりとは分かんない。……けどほら……なんか、もう戻りたくない……かも……」


 懐かしい道をたどりながらうつむくと、綾香は苦笑を漏らす。


「せいちゃん……東京であったこと、知ってる?」

「……知っとるよ」

「そっか。……疲れちゃったんだ、私」


 征吾は少しだけ振り返り、しかしすぐに前を見る。

 真っ先に浮かんだのは、慰める言葉である。一瞬だけ「大丈夫?」なんてそんな浅はかな単語すらもよぎった。それでも征吾が何も言わなかったのは、綾香がそれらを求めていないと分かったからだ。

 大丈夫ではないと思える人に、大丈夫かと聞けるわけもない。征吾はしゅんと眉を下げて、黙ることしかできなかった。


「……懐かしいね、ここ。せいちゃんと一緒によく走り回ってたところだ」


 空気を変えようと思ったのか。綾香は周囲を見渡してポツリと呟く。神社までの道中、獣道ではないにしてもあまりにも細すぎるこの道は、今もそのままにされているようだった。

 先に走り出すのはいつも征吾だ。早く早くと駆け出して、遅れて追いかける綾香を決して待たない。


「昔からせいちゃんは元気だったから……たくさん助けられてたなぁ」

「そうそう。あやちゃんいっつも転びよって、そん時俺の腕まで引っ張っとったけぇ、二人とも泥まみれやった」

「そうだっけ?」

「そうやったよ。……あやちゃんは昔から泣き虫やって、そんたび大泣きしよって」


 征吾の含み笑いを見上げて、綾香が肘で征吾をつついた。

 やがて苔の這う石の鳥居が見えてくると、綾香の足がピタリと止まる。征吾はそれに気付かないまま一人歩みを進めて、するりと鳥居をくぐってしまった。


「あやちゃん? どうしたん?」

「……うん」


 綾香の目が、当時よりも小さくなったようにも思える鳥居を見上げた。


「変わらないね。せいちゃんも、ここも。……なんにも変わらない」


 笑い声が聞こえる。今日は何しようか。かくれんぼはどうかな。そんな会話さえ、どこからか届くようだった。

 眩しい、と思いながらも目を細めて、きゅっと唇を噛み締めた。綾香の中には、懐かしさやもどかしさ、悔しさや悲しみがぐるぐるとはてしなく渦巻く。


「やっぱり、あやちゃんは泣き虫やね」


 呆れたように征吾が笑う。言われて頬に触れてみれば、綾香の頬には涙が流れていた。


「……教えてや、あやちゃん。東京で何があったん?」


 知っているくせに、とは、言わなかった。もしかしたら、綾香も救われたくて、誰かに心の内を吐き出してしまいたかったのかもしれない。

 目元をぬぐい、綾香も鳥居をくぐる。征吾を通り過ぎて本殿の階段に座ると、征吾もすぐに綾香の隣に腰掛けた。


「東京は、すっごく楽しかったよ」


 静かに口を開く。それに、征吾はただ「うん」と短く返事をして、続きを待った。


「テレビで見る物とかお店がたくさんあるの。夜も明るくってね、人だって多かった。知らなかったこととか、見たこともなかったものが全部あって、東京にある何もかもが新鮮で楽しかった」

「そうなんや」

「小学校も中学校も楽しくて、東京で暮らしてるだけでお洒落になった気持ちになって、田舎に住んでる子のことをダサいって思ったりしてね。……高校生になって、田舎から出てきたばっかりの子を『ダサい』からって理由でいじめてたの。だってダサいって思ったんだもん。言葉も分かりにくくって、眉も太いし、体型もなんだかずんぐりしててね」

「うん」


 征吾の声が優しい。それに、心の奥から熱いものがこみ上げる。

 思い出しても酷い話だ。綾香だって田舎出身であるのに、自分だけは違うのだと思いこんで、その同級生を見下していた。

 たった十年住んだだけである。それだけで「都会に住んでいるから」と、自分の中の「ダサい」部分に嘘をついた。

 だからだろう。綾香はある日、迷子のような感覚に陥ることになる。


「……だけど、ある日その子が『田舎のいいところを知らない方がダサい』って言ったの。その瞬間に、私何してるんだろうって思っちゃって……だって私、知ってるよ。いいところたくさん知ってる。ここが大好きだもん。みんな優しいし、穏やかで……自然がすごく綺麗なところも大好き」


 そうして気付く。綾香は都会に染まっていたのか、大好きなはずの田舎を「ダサい」と言っていたのだ。もっと早くに気付いていてもよかったそれは、綾香が無自覚に隠したのだから仕方がない。


 そういえば、帰らなくなってどれほど経つのだろう。


 いじめていた同級生の言葉を受けて、綾香はようやく故郷を思い出す。

 まるで本当に「ダサい」とでも思っているように、綾香は長く帰っていなかった。帰ろうとも思わなかった。思い出すこともなく、話題にもしなかったほどだ。

 心の奥底では、思い出はキラキラと輝いている。けれどそれを裏切るように、振り返りもしなかった。


「もういじめなんてできなかった。だってあの子はダサくなんかない。自分の故郷が大好きなだけだもん。だから、ごめんねって謝りに行ったの。その子にひっそり、今までずっとごめんねって。私も田舎から出てきたんだよって、そう告白したの」

「頑張ったんやね」

「ううん。違う。逃げたかっただけ。……私が『ダサい』って思ってたことを、無くしたかっただけ。ずるかった。分かってるの。私はずるい。あの子も言ってたよ、最低だねって。知ってるよ。私が最低なことくらい」


 同級生が言う。その瞳に怒りと憎しみを滾らせて、綾香を睨みつけたまま、


『田舎もんが都会人気取るとが一番ダサいがや! 覚えちょき、おまんのこと絶対許さんで。死ぬまで許さん』


 分かってもらえなかったことが悲しかったのではない。綾香はただ、真正面から「ダサい」と言われたことがショックだった。

 しかしそれは、綾香がこれまでにしていたことだ。

 だから何も言えなかった。去っていく同級生を追いかけることもできず、ただ立ち尽くしていた。


「……馬鹿なんだよ。次の標的は、私になったの。あの子が受けてたものが全部、私に向けられた」

「……もう思い出さんでもええよ」

「聞いてよ、せいちゃん。あの子はすごかったんだよ。私なんかより、ずっとずっと強かったの。いじめられるってね、すごく寂しくて、悲しくて、悔しくってね……すっごくやるせないことだったんだ」


 それまでずっと側に居た友人たちが、手のひらを返したように嘲笑う。

 集団で無視をして、わざとぶつかり、足を踏み、物を隠す。濡れた雑巾をいくつも投げつけられた。トイレに逃げこんでも追いかけてきて、便器に頭を押しつけられた。体操服も、カバンも、制服でさえ汚されるのは当たり前で、酷いときには机を投げつけられることもある。


 それは毎日、あの同級生が受け続けていたことで、同じほど、綾香が与え続けていたことである。


「ダサい。私はダサい。すっごくダサい。……逃げたんだよ。ここに、逃げてきたの。ダサいって言ってた田舎に、私は逃げてくるしかできなかった」


 征吾は何も言わなかった。

 何も言わず、静かに綾香の言葉に耳を傾ける。


「あの子は逃げなかったのに。どんな扱いを受けても、何を言われたって逃げ出さなかったのに。……悔しい。私もここが大好きなはずなのに、ここを逃げる場所にしかできない。胸を張って、誇れなかった」

「ゆっくりしよき。ここは何言うても、あやちゃんの故郷なんは変わらんけぇ」

「……ちょっとくらい、罵ってもらえた方が良かったのに」

「でもあやちゃん。俺が本当にそうしたら、あやちゃんの気持ちは楽になってしまうんやろ? そんなん、これまでと変わらん。もう逃げんつもりなら、楽な方に流されたらいかんよ」


 やけぇ、言わん。ゆっくりしよき。

 そう付け足して、征吾が柔らかな笑みを浮かべる。

 どこまでも優しい故郷。それを一度でも馬鹿にして、今でさえ「逃げ場所」にしか出来ていない自分が、とにかく恥ずかしいと思った。

 綾香はあふれる涙を、何度も何度も強く拭った。それでも止まらない大粒の雫は、まっすぐにボロボロとこぼれ落ちていく。


「せいちゃん。私、変われるかな」

「……変わりたいん?」

「うん。あの子みたいに強くなりたい。そしたら、あの子にしっかり謝りに行きたいの」


 あの日のように、ひっそりとではなく。今度は堂々と、正面から、みんなの前で謝るのだ。


「なれるよ。やってあやちゃん、変わりたいって思っとんやもん。変われんわけない」

「……うん。うん」


 綾香はふと、征吾を見つめる。

 十年前よりも、たくましくなった。身長も、声音も、肌の色さえ違う。あの日の少年はすでに居なくなったのだと、綾香は頭の片隅でひっそりと理解する。

 少年は居ない。繰り返し思うと、再びじわりと涙が滲んだ。


「どうしたん?」

「……ううん。なんでもない。帰ろっか、もう暗くなっちゃう」


 見上げれば、空はもう色を変えていた。

 

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