第三話 黒い雲
やっと異世界です。
どれくらいの間、抱き合っていたのだろうか。
気が付くとシャツの下に手が入れられ胸をまさぐろうとしている。
「駄目……」
「触ってほしいくせに」
拒絶の言葉を吐いても止めてくれない。
「お願い。ダメだから」
「グフフ…。よいではないか。よいではないか」
胸をまさぐる手は止まらない。
「嫌ーって、あほか!」
僕は真夜姉の頭に拳骨を落とす。いつもの真夜姉に戻ったようだ。涙目になって頭をさすっている真夜姉を見て安心する。
僕が一緒に住むようになってから真夜姉は、一度もパニックを起こしていなかったんだが、今日は伯父さんと伯母さんの姿が見えない。僕が帰ってくるまで不安だったんだろう。真夜姉の様子がいつもと違ったのはそのせいか。
僕と真夜姉は、テーブルに向かい合って座り遅い夕食を取る。
「高君怒ってる?」
真夜姉は怯えたような顔で聞いてくる。
「大丈夫。怒ってないよ」
「ごめんなさい。高君が大事にしてたプラモ落としちゃって。それで高君の怒った声を聞いたら怖くなって。高君が怒って何処かにいってしまうんじゃないかって」
「大丈夫。僕は、真夜姉をずっと守るって決めたから。傍にずっと居るから」
僕は真夜姉の目を見ながらゆっくりと話す。しまった。口に出してから気付いた。これって、プロポーズの言葉みたいだ。真夜姉は照れたように微笑むと立ち上がり僕の横に座る。
「エヘヘ、ん~」
真夜姉は目を閉じ顔を寄せてくる。
ああ、駄目だ。一線を越えたら歯止めが利かなくなる自信がある。エスカレートして高校中退なんて事になれば真夜姉を不幸にしてしまう。
「ああ酸っぱい。これがファーストキスの味って。梅干し入れないでよ!」
真夜姉の口に小梅を突っ込んだ僕は、何とか誘惑を振り切りソファに逃げる。ソファに寝転がり、TVの電源を入れる。
「今日、伯父さんと伯母さんは?」
真夜姉は少し怒っているが無視して聞いてみる。
「名智兄が熱を出したって言うから様子を見にいったの。ただの風邪だって電話があったから明日の朝帰ってくると思うけど」
名智兄は勤め先の近くにあるアパートに住んでいる。実家から離れ彼女と同居しようとしたらしいが、引っ越して即、振られた。そのことを真夜姉にからかわれたのが悔しいらしく、アパートでの一人暮らしを続けている。
食器の片付けを終えた真夜姉は、対面の椅子に座って足を組む。僕は、隣に座って迫られないようにソファに寝転がったままでいた。目線の高さに真夜姉の太ももが。ああ、太ももが眩しいって中年か!
真夜姉は足を降ろすとテーブルに手をつけ迫ってくる。やばい。チューブトップから見える胸の谷間がやばい。
「高君、今晩は二人きりよ。だから……しよ」
「……わかった」
僕は頷き、立ち上がる。
「ああっ…高君だめ」
「自分から誘っておいて泣き言か」
「嫌、やめて」
やめてと言われても僕は攻め続ける。
「ほら、もっと抵抗しろ」
「あ、ああ…ダメ死んじゃう」
「ね、もう一回しよ」
僕は真夜姉に何回も求められ疲れてきた。
「しょうがないな、もう一回だけだよ」
「高君の鬼。一回も負けてくれないんだから」
伯父さんたちが居る時は、リビングの大型TVでゲームが出来ない。真夜姉に誘われるまま古い格闘ゲームを始めたが、僕が勝ち続けたせいで止める事が出来ない。真夜姉は意外と負けず嫌いだ。
「う~~む」
唸り声を聞き目を覚ます。真夜姉とゲームを続けていたはずが、いつの間にか眠ってしまったらしい。TVの画面は、僕が操っていたキャラがダウンしている姿を映している。
目線を上げると伯父さんが、ひきつるような顔でこちらを見ていた。名智兄の見舞いから帰って来たみたいだ。なにか怒ってるように見える。TVゲームをやりっぱなしにしていたのが駄目だったか。
起き上がろうとして後ろから抱きしめられているのに気付く。背中に柔らかな感触が二つ。嬉しいんだけどこの状況は不味い。
「真夜姉、起きて」
「う~ん、お早う高君。昨日は、もう少し優しくしてほしかったな。おかげで寝不足よ」
真夜姉は状況が掴めてないのか甘えた声で話す。優しくしてほしかったって言うのはもちろんゲームのことだ。まずい。伯父さんは絶対、勘違いする。
「真夜!」
「えっ、お父さん」
伯父さんに気付いた真夜姉は、慌てて僕から離れる……かと思ったら。
「お父さん邪魔!もう少し高君と寝かせてよ」
「邪、邪魔……」
あ、伯父さん固まってしまった。そして、伯父さんの後ろにいた伯母さんが僕たちを覗き込む。
「あら、あら。避妊だけはしっかりしてね」
「うん。でもね高君(キスも)全然してくれないのよ」
伯母さんは話をこじらせる天才だ。真夜姉もつられて変なことを言い出す。伯父さんが固まっている間に逃げるしかない。僕は真夜姉の手を振り解いて逃げ出す。二階の部屋に上がり急いで外出の準備をする。財布と鍵は、真夜姉が持ち去っていた学生服から昨日のうちに回収してある。
昨日、踏みつぶしてしまった『大和』のプラモを見ながら上着を羽織る。完全に壊れ、買い直すしかない。今日、めぼしいプラモが無ければ買い直そう。
「買い物、行ってきます」
僕はそう声を掛けて玄関を出る。
「お父さんが邪魔するから高君逃げちゃったじゃない」
「邪魔とはなんだ。それになんだ、避妊って」
「あらあら、避妊は大事ですよ」
「そういう問題じゃない!」
なにか家族で言い争ってたけど、気にしない事にしよっと。
少し歩いた処で、頭上を黒い雲が覆っているのに気付く。天気予報は晴れだったが大雨が降りそうな雲だ。しかし、傘を取りに戻ったら確実に伯父さんに捕まる。真夜姉との間に何も無かったと言ってもすぐには信じてくれないだろう。黒い雲は気になるが雨が降ってもバスに乗ってしまえばさほど問題は無い。雨が強く降るようだったら駅から地下街の在る街まで電車に乗り、足を延ばせばいい。僕はそのまま住宅街のメインストリートを下りバス停に向かう。
土曜日の中途半端な時間だけあってバスを待つ人は少ない。小さな女の子を連れた若い夫婦と、レディーススーツを着た綺麗な女の人。後は年配の人が4人。通勤通学の時間帯とは大違いだ。
幸い3分ほど待つだけでバスが到着した。前の方は横向きのベンチシートと一人掛けの席。後の四列は二人掛けになっている。空いていたので僕は後の二人掛けの席を占領し発車を待つ。
発車直前で中学の制服を着た女の子が駆け込んできた。僕の顔をちらっと見た女の子は通路を挟んだ席に座った。乗客が全て座った事を確認し、運転手はバスを発車させる。
視線を感じ、通路側に目を向けると中学生の女の子が僕をじっと見ていた。全く知らない女の子だ。目が合ったところで女の子が僕に話しかけてきた。
「ねえあなた、何処からきたの」
「ここの住人だけど」
女の子が話しかけてきた事を不思議に思いながらもそう答える。何故か女の子は怪訝そうな表情を浮かべる。
「えーっ。あなたの顔、学校で見たことないわ」
「あのね、僕は高校生だけど」
女の子は僕を中学生と思っていたようだ。少し精神にダメージを受けたが、誤解は解けただろう。しかし、女の子はさらに強力な追撃を放ってきた。
「なんで嘘つくの。どう見ても私と同い年か年下じゃない」
僕は手を振って話を打ち切り、窓の外を見る。黒い雲が気になっただけだ。決して涙を隠すためじゃない。僕はまだ高校一年生だ。卒業する頃には身長がグッと伸びてるはずだ。
黒い雲は厚くなり周りも随分暗くなってきていた。
町医者前で年配の人達は降り、代わりに体の弱そうな女の人が乗り込む。チラチラと僕の方を見たが知らない女の人だ。そして、いつも降りている高校前を過ぎバスは駅の方へと向かう。
高校前から二つ目のバス停で十人近い人が乗車してきた。その中に見知った顔があったので顔を隠すように外へ向け、雲の様子を見る。雲はさらに厚くなり渦を巻き出している。
「川神君、ここ空いてる?」
おさげ髪の少女が横に立って聞いてきた。僕は彼女に気付かれてしまったようだ。
「空いてません」
話かけてきたのは、北上結良=クラス委員長だ。休みだっていうのに制服着用の真面目少女。長い髪を三つ編みにしたメガネっ娘でもある。メガネっ娘、来た~なんて言ってる場合じゃない。どこでそんなん買うたんじゃ~っ!て突っ込みたくなる吊り上がったメガネを掛けている。昭和のアニメに出てくるヒステリー小母さんか。
座席はガラガラなのに僕の隣に無理やり座って来た。空いてませんって言ったのに。
僕に好意が有って隣に座ったわけじゃないのは良くわかる。凄い目つきで僕を睨んでいる。
「真夜先輩と教室でイチャイチャするのは止めてよね」
ああやっぱりそのことか。
「別にいちゃついてる訳じゃないけど」
学校内では真夜姉と距離を置こうとしているんだけど。僕の考えを無視して真夜姉は何度も教室に乱入してくる。
「あれを、イチャイチャしてないって言うの。抱き着いたり、アーンしたり」
「あれは真夜姉がやってくる事で、僕はやっていない。無実だ」
正直いって真夜姉の乱入には僕も困っている。
「有罪よ。彼氏だったら何とかしなさいよ」
「なんとか出来るならやってるよ」
真夜姉を突き放さず、暴走だけを止める。そんな技能を僕は持ち合わせてない。
「開き直ったわね。男だったらバシッと言って止めなさいよ。真夜先輩、男子には人気なんだから。イチャイチャしてるとそのうち刺され……ああっ!」
「「「きゃあぁぁあ!」」」
風に煽られたバスが大きく揺れ車内のあちこちで悲鳴が上がる。腰を浮かし捲し立てていた委員長はバランスを崩し通路側へ倒れそうになる。とっさに手を伸ばして委員長を引き戻したが、反動で後ろから委員長を抱きしめる恰好になってしまった。不味いと思っても、バスが揺れ続けるため離すことが出来ない。
「悪天候のためバスを一時停車させます。風でバスが揺れているため、天候が回復するまでお席に座ってお待ちください」
運転手はアナウンスを流しバスを止めるが、揺れはますます強くなっていく。停車したはずなのに揺れがおさまらない。明らかに異常な揺れだ。台風の中でもこんなに揺れないだろう。
そして、空を覆っていた真っ黒な雲がバスを包むように降りてくる。バスの外を雲が渦を巻くように流れていく。やがて、外は完全な闇になった。
「何、何なのこれ……」
いつも強気の委員長も怯えた声を出す。
浮き上がるような感覚の後、バスは小舟の様に揺れる。委員長が体をぶつけないように僕はしっかりと抱きしめ揺れに耐える。
永遠に続くかと思った揺れは唐突に止まった。同時に黒い霧も消え、太陽の光が車内に差し込む。急な明るさの変化で目潰しをくらった格好だけど次第に目が慣れていく。
眩しさに慣れた目に映ったのは地平線まで続く草原と真直ぐに続く道だった。