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綿津見の婿入り  作者: 真攻 魚京
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転. 波瀾

転. 波瀾




立っていられなかった。

そこにあったはずの地面が一瞬で消えて、弾けたようだ。

真っ直ぐに立っているはずなのに、何かに頭を掴まれて引き摺り回されているように視界が定まらない。

何かが落ちる音、異常を知らせるサイレン、悲鳴が泣き声が、大気を埋め尽くす。

テントは崩れ、建物の壁に道路のアスファルトに亀裂が走った。


揺れが収まると、辺りに互いの無事を確認する声で溢れる。

何もかもが異常で、普段の形を保っていられた物は見当たらなかった。


「け、怪我した人や動けない人はいますか!?救護所は商店街近くの臨時駐車場です。避難場所は綿津見小学校のー」

「テントに下敷きになっている人がおるぞ!誰か手を貸しー」

「だ、誰か、う、うちの息子ー」

「通りを左に出て、坂を上がると避難場所の綿津見小ー」


近くの先輩漁師が声を荒げる。緊急時のマニュアル通りだが、不安で声が震えてる。

唇が急速に乾き、肺がおかしくなったように酸素を取り込まない。呼吸が浅くなって、まるで高地にいるようだった。


ーマズい、この地震の震度なら津波が発生してもおかしくない

ー商店街付近は海抜0mだから、高台にある小学校に逃げないと

ーみんなもきっと津波を想定して高台に避難するはず

ー兄貴や叔父さんも避難誘導しているから、俺も手伝いに


論理もなく記憶と憶測の断片も拾って繋ぎ合わせて、ようやく思考が戻る。

鮮明になった視界を頼りに、声をあげようとした矢先。

祭列に備えるために割れた人垣の真ん中から、白装束が駆けていった。

間違いない、兄貴だ。


「兄貴っ!」


俺の声が届いたのか、兄貴は俺を一瞥して何かを呟いた。

声は聞こえずとも口の形から反射的に理解できる。

「逃げろ」と兄貴は言っていた。

理解が追いつく一瞬で、兄貴は綿津見神社へと駆けていった。


「どこ行くんだよ!兄貴っ!!」


綿津見神社の本殿は神社としては名ばかりで社もなく、石造りの鳥居と天然の洞窟があるのみ。しかも満潮時には海水の下に完全に沈む。そんなところで津波に襲われたら、生還の余地は無いに等しい。

町内放送で津波発生の可能性が流れ、パニックに陥りそうになる観光客を祭り関係者を筆頭に地元民が誘導している。沿岸部の町民は、津波発生時にどこに逃げればいいのかは大体頭に入っているのだ。

俺は誘導の手伝いか兄貴の後を追うかで迷って、気付いたら地面を蹴っていた。


祭列の行進の最終地である綿津見神社で待ち構えていた大勢の観光客が逃げ、倒れた出店や踏みつけられたお面、砂のかかったりんご飴などが散乱していた。兄貴の姿を探すが見当たらない。

俺は石鳥居の前で息を整える。

目の前の離れ小島は、綿津見の婿しか立ち入りを許されていない神域。

村の漁師衆が築いた橋が地震の影響で傾いていた。朱色に染められた欄干が途中で折れて、中の木が見える様は痛々しい。その下の激しいはずの潮流は鳴りを潜め、岩礁に打ち付ける白波すら立たない。

考えてはダメだ。がたつく橋の安全確認をする暇も覚悟を決める時も惜しい。

俺は思考を置いてけぼりのまま、助走をつけて橋を駆け抜けた。



波が異様に引いている。

その光景に思わず息を呑んだ。

腐っても漁師の息子だ、潮の周期は間違えない。

干潮じゃない、間違いなく津波が来る。

津波が来たら間違いなく始めに届くであろう海へと向かう岩礁の先に、白装束を纏った兄貴は立っていた。


「兄貴っ!何してんだよ、早く逃げないと!!」


兄貴は俺に背中を向けたまま、動かない。

その姿はまるで、祭列が辿り着いた果て、祭りの最終局面。

海の女神”綿津見”と若い漁師の結納の儀ー”綿津見への婿入り”のようだ。


「祭りなんて、もうそれどころじゃないだろ!逃げないと津波に巻き込まれー」


兄貴の周りの潮溜まりが跳ねた。

それは水が間欠泉のように空に昇り、滝を逆再生させたかのようだった。

潮溜まりの柱から水色の魚が飛び出して、宙を滑るように泳いだ。水色ではなく、水の色、もっと正確に言うなら海の色。その魚が兄貴の周りを跳ねながら泳ぎ、兄貴がそれを操っているかのようにさえ見えた。

俺は声を失った。

超常の現象に目撃したとは言え、このままここにいれば命が危ない。知識と直感と生存本能から導き出された答えが、逃げろと訴えかけてくる。


「…あ、兄貴、逃げないと。よく分かんない変な魚が放っておいて」

「…次はお前なのか。これが見えるってことは」

「おかしな事言うなよ…」


いつも明るいはず兄貴の声音が、温度を失ったように冷めている。顔つきも見たことないがないくらいに、哀しみに溢れているように思えた。魚を操っているように見えることも合わさって、長年共に過ごしたはずの兄貴が急に遠く感じる。このまま遠くへ離れて、消えてしまうような、今生の別れみたいな錯覚を覚える。そんなはずはないのに。

兄貴の周りを泳いでいた魚が弾かれたように互いの体をぶつけるように重ねて、水塊が形を歪ませる。

それは海の色をした女性のようだった。

俺はそれを知らないはずなのに、その名前を口にしていた。


「綿津見…」


それは海の色をした半透明で、向こう側が透けて見えた。

それは愛しそうに兄貴を見て、兄貴の頬に手が触れる。

「…弟の、次代の婿の無事を、畏み畏み願い給う」


兄貴が絞り出した言葉は古臭いものだったが、意味は分かる。

勝手に遠くに感じていた兄貴は、やはり優しいままだった。

兄貴が不意に一歩を踏み出した。兄貴が立っていた場所は岩礁の先で、その先に脚を押し返すものはない。兄貴の体が視界から急に消え、海に落ちていく。まるで身を投げたようだった。


「兄貴!」


海色の半透明が、兄貴の跡を追う。

俺が岩礁の先に立って下を覗くと、不自然に白波立ち渦が巻いていた。

漁師の中でも泳ぎが達者な兄貴が浮かんで来ない。

飛び込もうとして不意に前を向くと、高波が見えた。思考が停止して、声をあげる前に身じろぎしただけで、波は一瞬のうちに距離を詰めていた。


万物を引っ掻き削る、死地に招く掌のような高波が力を失ったように崩れた。

岩礁の先が雨に打たれたように、波から落ちてきた水が跳ねる。

その次の第二波、第三波も嘘のように起こらなかった。


暫く立ち尽くした俺の側の潮溜まりから、水色の魚が跳ねた。





波瀾

大波が荒れるように、静かな状態が破れ、乱れていること。大きなもめ事。

(連なり寄せる)大小の波。

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