起. 青海波
綿津見の婿入り
起. 青海波
「兄ちゃん、結婚しねーの?」
16度目の夏を迎えた俺は、漁業組合の事務所で涼む兄貴にそう尋ねた。
兄貴は漁終わりで日誌をつけているところだった。本日の漁はまぁまぁの出来だったようだ。
兄貴は弟からの唐突な話題に驚きながら、手を止め一瞬考え込んで口を開いた。
「…結婚はもうしてるわ」
俺の目はマンガ雑誌に留まっており、ページをめくる音が事務所内に響く。
「それって、綿津見の婿入りの話?」
「まぁな」
太平洋に面する片田舎。
漁と水産加工と、土着信仰の水神”綿津見”を祀る奇祭”綿津見の婿入り”しか見所のない、寂れた町。
人口流出は止められず、手厚い出産支援も虚しく、若者は故郷を後にするばかり。
ますます町内の少子高齢化は進んでいく。
緩やかに、しかし確実に廃れ、死んでいく町の様子を、子供であろうと誰であろうと町の住人であれば肌で感じ取っていた。
兄貴は三十路手前の漁師で、この町の若手の顔役だ。
焼けた浅黒い肌と恵まれた体格、精悍な顔つきと人当たりも評判が良い自慢の兄貴だが、浮ついた話が一つとして聞こえない。
兄貴に告白した女性を何人も聞くし、弟だからと兄貴の好みを聞いてくる女性を何人も知っている。それでも付き合わないのは兄貴がいわゆるゲイだからかと疑ったこともあるが、まだ学生だった頃に何人かの女性と付き合ったことがあるらしい。相当モテたとも。
町興しや若い人材の流出に気を配っている兄貴が、この歳にもなって結婚しない理由は何なのか、それが分からない。
そりゃ、テレビで見るような綺麗な女性が町にいるわけじゃない。だけど兄貴なら既婚者女性を除いて、この町じゃ選り取り見取りなのは言うまでもないと思った。
兄貴から女性の噂が聞こえなくなったのは、あの時からだ。
兄貴が16歳になる夏。
毎年行われる町の伝統祭”綿津見の婿入り”が執り行われた。
海の女神”綿津見”に町の若い男を捧げ、この町と海の繁栄を願う奇祭。
その綿津見伝承を要約するとこうだ。
“荒波と不漁に苦しむ漁師町に、流浪の八百万神の一柱、海の女神の綿津見が訪れた。村の若い漁師に恋をした綿津見は鎮海と豊漁を約束する代わりに、その若い漁師の身を願った。漁師には許嫁がいたが、村の総意で綿津見の婿入りが決まった。漁師は村の為と綿津見に寄り添い、綿津見は約束通り、村に治水と豊漁をもたらした。しかし漁師が年老いて綿津見の関心が無くなると、綿津見は村を去ると民に話した。村はまた鎮海と豊漁の為、村の若い漁師を綿津見へと捧げた”
これがこの町が祀る綿津見伝承。
これには裏話があって、綿津見の最初の婿である若い漁師は一度だけ不貞を働いた。かつての許嫁と共に一夜を過ごしたのだ。それがバレて怒り狂う綿津見を鎮める為に、若い漁師は海に身を投げたとも伝えられている。後に許嫁は子を身籠ったことを知り、その子と婿となった若い漁師の一族の末裔が俺たちで、だから綿津見神社の管理をしているのだと。
この夏に捧げられる”綿津見の婿”に選ばれたのは兄貴だ。
婿に選ばれるのはいつも俺の家や親類で、先代である叔父を先頭に祭列が、綿津見神社へと向かう。
兄貴は古そうな白装束に身を包み、神輿に乗って揺られていた。
俺はまだちっこい小学生で、祭りで売られていたりんご飴を舐めながらそれを眺めていた。
兄貴がどこか遠くへ行ってしまう気がして、怖くてたまらなかったのを今でもよく憶えている。俺は結局泣き出してしまい、一緒に見ていた母親に抱き抱えられて、兄を尻目にその場を後にしたものだ。
今年も”綿津見の婿入り”が執り行われる。
婿はあの夏の年から、兄貴で変わっていない。
婿役が滅多に変わることは無い。先代の叔父の時もそうだった。叔父も16歳の時に婿に選ばれて20年もの間、婿役を務めた。
「ふーん」
遅れて、俺は相槌を打った。
興味があるような無いような、そんな感じで。
「お前も少しは家や漁の手伝いをしろよ。夏休みだからって、ゴロゴロするなよ。宿題は?」
「…お袋か。それに漁の手伝いはしてるだろ」
この町の働き手不足は深刻だ。
町の外の高校に通う身でも、書き入れ時の夏ともなれば漁の手伝いは避けられない。
他の家も同じだ。
週末の朝の手伝いを終えたのだから、口やかましく言わないで欲しいのが本音だ。
ただでさえ母親からは口癖のごとく言われているのだから。
それ以上の小言は勘弁願いたく、俺は漁業組合の事務所を出た。
「うわぁ…」
熱風が体を包む。
海風が吹くため、内陸と違って少しは涼しいはずなのに、今年の夏はまだ暑くなるらしい。
容赦無くギラついた太陽は、きっと夏が本格的に始まる合図なのだろう。夏至は過ぎたはずなのに、一向に日が短くなる気配がない。
今年の夏も、きっといつもと変わらないのだろう。
去年は高校受験でそこそこ忙しく漁の手伝いも免除されていたが、今年は見逃してくれそうには無い。
”綿津見の婿入り”も例年通り。兄貴は白装束に身を包んで、妙な祭列と共に神社へと向かうのだろう。出店のラインナップも、商店街のお祭りセールも、一体いつから変わっていないのだろうか。
変わらないこと尽くめで息が詰まりそうだ。
俺は家に戻ろうと停めてあった自転車に手をかけた。
「…?」
アスファルトがほんの少し、揺れたような気がした。
ただの勘違いかもしれない。念の為スマホを確認するが、地震速報は来ていないようだ。
俺は自転車にまたがって、家へ急いだ。
青海波
広い海がもたらす恩恵を感じさせる柄で、無限に広がる波の文様に未来永劫へと続く幸せへの願いと、人々の平安な暮らしへの願いが込められた縁起の良い柄とされている。