クロッキーブックと旅する少女-エピソード1 Waiting for your return
[エピソード1の登場人物]
画家・マリー=アンジュ・桜……主人公。クロッキーが得意な少女
ショウタ……………家を探す少年の霊
高枝………………ショウタの帰りを待つ母親の霊
青緑色の茫漠たる海原に綾をなす波頭が、ちぎれ雲で見え隠れする晩夏の斜光で煌めく中、無数の波が潮風に押されながら陸を目指し、音を上げて迫り来る。
それらは渚に手が届くと荒々しさを忘れて滑らかに砂を洗い、自らが打ち上げた貝殻や海草をも洗って、引いては押してを繰り返す。
砂浜に咲く名もない花は潮の香りに包まれ、絶えることのない波の声に耳を澄まして揺れている。
海に向かって胸を張る防砂林の黒松も、風に揉まれて無数の枝を揺らす。
今、その防砂林の外れで、一人の少女が腕を組み、目深に被る麦わら帽を右手で押さえ、水平線を眺めながら佇んでいた。
彼女の名は、画家・マリー=アンジュ・桜。
黒髪のロングヘアが黒松の枝の音に合わせて揺れる。心地よい風に身を委ねる彼女は、ダークブラウンの双眸を輝やかせ、サクラ色の唇に微かな笑みを湛える。
白地にたくさんのヒマワリの3D刺繍を施した半袖のワンピースですらりとした肢体を包む彼女は、黒いリュックサックを今一度背負い直して、波打ち際に向かって歩み始めた。
潮風を全身で受け止めながら、誰もいない砂浜を独り占めしたい。裸足になって足を波に洗われたい。彼女は、脱いだサンダルを両手に持って浜辺を飛び跳ね、透き通る波に足を踏み入れた。
足の甲と踝が陽の光をいっぱいに浴びた海水にザブッと洗われると、浸かった感触が腿と膝まで伝わり、サクラ色の唇から思わず言葉が漏れ出る。
「気持ちいい……」
心地よい水温の海水が何度も行き来すると心まで洗われ、遠くに目をやるとこの打ち寄せる波が何重にもなって押し寄せてくる。
しばらくの間、のたりのたりとうねる海を飽きもせずに眺めていると、遠くから厚い雲が広がってきた。それは陽の光を遮り、空を覆い、波の輝きを奪っていった。
彼女は姿を変える海の水平線に視線を移し、一度右になぞってから左に向かってゆっくりとなぞっていく。すると、左側の視界に砂浜が入ったと同時に、人の姿が見えた。
ずっと砂浜には自分以外に誰もいなかったはずなのに。
それは、10メートルくらい離れたところの波打ち際に立つ少年。彼は、体の正面を彼女の方に向けて、直立不動の姿勢を保つ。
どことなく悲しげな少年は、野球帽を被り、白い丸首のシャツを着て、黒い半ズボンに運動靴を穿いている。背格好と顔のあどけなさから小学生の低学年――いや、幼稚園生かも知れない。
ジッとして動かない少年を見つめていた桜は、あることに気づいた。
(あの子には影がない。ということは、見えているのは私だけ)
彼女は一呼吸を置いて、少年に向かって問いかける。
「海を見に来たの?」
すると、意外にも頷いた。てっきり、否定されると思っていたのだ。
「キレイね、ここの海は」
これにも頷いた。
「いつもここに来るの?」
これには即答せず、躊躇うように頷く。
「おうちは近く?」
一層、悲しい顔になった。
「どこに住んでいるの?」
ゆっくりとうなだれていく。
「……もしかして――違ったらごめんなさい、ま・い・ご?」
砂に目を落としながら、二回頷いた。
やっと悲しい顔の意味がわかった桜は、波から上がってサンダルを履き、後ろに手を回して少年へ近づいた。
「おうちの住所、わかる? 私、旅をしていてここに来るの初めてだけど、スマホがあるから調べてあげる」
と、突然、少年はしゃくり泣きをしながら顔を上げた。
「ひっこしてきたから、わからない」
彼女は屈んで顔を近づける。
「おうちの近くに何か目印になる物、あるかな? コンビニでもお寺でも」
少年はしばらく考えていたが、「おみせがしまっていて……ほかのおみせをさがしにいったら……そこもしまっていて」と悲しそうに答えた。
(そっちに行ったかぁ……。お寺に反応すると思ったけど)
彼女は天を仰ぐ。
「じゃあ、まずは、お店を探そっか?」
少年は眉根を寄せた。
「どこもあいてないよ」
「開いているお店を探すんじゃなくって……。
そうだ。僕、お名前は?」
「ショウタ」
「じゃあ、ショウタ君。最初に行ったお店を探そうよ。おうちはその近くよね?」
ショウタは、迷いながらも頷いた。
桜は、少年を連れて近くの商店街を歩いた。木造で小規模店舗のどの店も、一様にシャッターを下ろしている。一軒一軒見て回ったが、ショウタは首を横に振るばかりだ。道行く人はほとんどなく、車もまばらにしか通らない。
駐在所の前を通りかかったが、中でパイプチェアにもたれる巡査と目を合わせただけで通り過ぎた。声を掛けても無駄である。なにせ、巡査には少年が見えないのだから。
彼女は商店街を抜けると住宅街に足を踏み入れ、スマホを使って今いる周辺の店舗を検索した。すると、一軒ヒットしたので、ホッとする。
(ここね、おそらく)
それは、S商店と表示されていた。画面を拡大してみると、その近くに同じ名前のS寺があることに気づいた。
(先にどっちへ行こうかしら……)
彼女が考えあぐねていると、背中から少年が声をかけてきた。
「おねえちゃん。ぼくをどこへつれていくの?」
彼女はギョッとして振り返った。
ショウタの警戒する顔に、桜はどぎまぎして答える。
「ここかなぁってお店が見つかったから、そこへ行こうかと思って」
すると、ショウタは今度は顔が曇った。
「このみち、しらない。こわい」
桜は「大丈夫。お姉ちゃんがついているから」と優しく声をかける。
納得したショウタを連れてS商店へ行ってみると、古びた木造の雑貨屋だった。
「ここ?」
「うん。でも、ぼく、このおみせで、かったことないよ」
「買っていなくてもいいの! ここね!?」
「うん。でも、ここからどういくか、おぼえていないよ」
「大丈夫!」
桜は背負っていた黒いリュックを降ろし、中からクロッキーブックとコンテを取り出した。
「それ、なに?」
首をかしげるショウタに向かって、ブックを開いた彼女は笑顔で答える。
「お姉ちゃんの商売道具」
「しょうばいって、おみせひらいているの?」
「まだ売れる絵は描けないけどね」
そう言いながらも、彼女は紙の上に恐ろしい速さでコンテを走らせた。
たちまちのうちに、ショウタの上半身姿の似顔絵ができあがる。
「なにするの?」
「これがないと、ちょっと説明に困るから――」
そう言い残して、彼女は店内に飛び込んだ。
「すみませーん!」
反応がないので二度呼びかけると、奥の障子戸が開いてエプロン姿で眼鏡をかけた老婆が出てきた。桜は老婆に似顔絵を見せながら尋ねる。
「この子、ショウタって言うんですけど、この子の家を知りませんか?」
眼鏡を上げたり下げたりしていた老婆は「知らんね。ショウタって名前も」と残念な答えを返した。
肩を落として店を出てきた桜の気持ちを察したのか、ショウタも悲しげな顔で見つめる。しかし、彼女は彼を安心させるためすぐに笑顔になり、リュックを背負って今度は近くにあるS寺へと向かった。
境内に入ろうとしないショウタを置いて、桜はS寺の住職に会い、似顔絵を見せた。
「この子、ショウタって言うんですけど、近くに住んでいたらしいんですが、ご存じないですか?」
「……見たことないねぇ」
「最近亡くなった方に――」
「……いないねぇ」
再び肩を落とす彼女がショウタの所へ戻ると、彼は半ばあきらめ顔になっていた。
「おねえちゃん、ありがとう。もういいよ。ぼく、あるいてさがすよ」
「ここまで来たら最後まで探すわよ。それに、みんなはショウタ君を助けられないし。出来るのは、私だけだし」
「ほんと? さがしてくれるの?」
「もちろんよ。ところで、おうちの近くに自動販売機とかなかった? 郵便ポストとか。あと、こわーい犬がいるおうちとか」
「じどうはんばいき? じゅーすとか、うっているきかい?」
「そうそう」
「あるよ」
「そこそこ! 行ってみよう!」
桜がS寺に戻って住職から自動販売機の場所を聞くと、そう遠くない場所であることが判明した。それは、公園の隣にある建築事務所の前にあった。彼女のスマホを頼りに二人がそこへたどり着くと、ショウタはこの周辺は見覚えがあるとのことだった。
「この近く?」
「うん。むこう」
今度は、ショウタに導かれ、彼女が後を付いて歩いていった。
すると、建築事務所から見て右へ5軒目に、今にも傾きそうな木造の平屋がある。その前でショウタが立ち止まった。
そこは正面に横開きの玄関があり、古い雑貨屋のように見える。だが、看板はなく、ガラス窓に内側から模造紙が貼られていて中が見えない。模造紙の日焼け具合から、かなり月日が経っているように思える。
「もしかして、この家!?」
ついにゴールにたどり着いた嬉しさを隠せない桜は、少し興奮気味に尋ねる。だが、ショウタは不思議そうな顔をして前方を見つめたままだ。
「おねえちゃん。ここに、いえがあるの?」
「えっ? 何言っているの? あるじゃない、おうちが」
「いえなんて、ないよ。あきちだよ」
「えっ!? これが見えないの!?」
「どこに、いえなんてあるの」
「そんな……」
「ぼくがかえってこないから、おかあさんが、いえごとひっこしたんだよ」
ガックリとうなだれるショウタを見て、桜まで意気消沈してしまった。
二人は公園のベンチに座り、ずっと地面を見ていた。ショウタの揺れる足が視界の右に映る桜は、ふと彼の方を向いた。
「ねえ。本当に見えなかったの?」
「……うん」
「この公園は? その周りのお家は?」
チラッと顔を上げた彼は、「みえるよ」と言い、「でも、あれはあきちだよ」と視線を地面に落とす。
(あの家だけ見えていない。なぜだぁ……、考えろぉ……)
彼女はうんうん唸って考えていると、突然、頭の中で何かがひらめいた。
「そうだ!」
はたと膝を打って立ち上がった彼女は、渋る彼を促して、もう一度二人であの家の前に立った。
そうして、彼女は引き戸の手を掛けるところに手を伸ばす。
「やっぱり、これだ」
「これって?」
「そっか。見えないんだね。お札よ」
「おふだ?」
「見ててごらん。お家が見えてくるわよ」
そう言って、彼女は手を伸ばした先にある茶色に変色したお札をベリベリと剥がした。
「うわぁ!」
「ね? 見えたでしょう?」
「うんうん」
目を輝かせるショウタを満足げに見つめる桜は、取っ手に手を掛けて横に引こうとしたが、開かなかった。
「お札を剥がしたくらいじゃ、さすがに無理かぁ……」
すると、ショウタが右の方へ歩いて行き、建物の右壁の方を指差した。
「そこに、ぎゅうにゅうのはこがあるでしょう? かぎは、そのなか」
確かに建物の右横に青い牛乳入れの箱があり、蓋を開けて中に手を入れると錆びた鍵が出てきた。
彼女は辺りを窺い、誰もいないことを確認すると、素速く鍵を開けて引き戸を開けた。すると、中に溜まっていて外気に熱せられた空気が、ほこりっぽい臭いとともにモワッと漏れ出てくる。
中はがらんとした空間で、一番奥に障子戸があった。おそらく、手前に棚があって、日用品でも売っていたのだろうか。
(あの障子戸が少し開いている)
彼女は、前方の障子戸をジッと見つめた。すると、そこから誰か出てきそうな気配を感じとった。
(もしかして……)
だが、彼女はそれに気づかないふりをし、ショウタの方へ振り向く。
「さあ、お家に入れるわよ」
「……でも」
「あっ、お母さんがいないか」
「ううん。おかあさんが、おこっているから、こわい」
彼女は、震える彼の視線の先を追った。すると、障子戸の前にいつの間にか女性が立っているのが見えた。黒髪が乱れ、色白で面長な頬はこけ、灰色の和服を着ている。
(やっぱりね。気配を感じたとおり)
桜はショウタの方を振り返らず、女性を見つめたまま彼に問いかける。
「お母さんのお名前は?」
「たかえ」
「じゃあ、ちょっと話をしてくるから待っていて」
「でも……」
怯える様子の彼を置いて、彼女は「失礼します」と言いながら建物の中に入った。
「どちら様ですか?」
その女性がか細い声で問いかける。
「私、桜と言います。もしかして、ショウタ君のお母様のたかえさんでいらっしゃいますか?」
「ええ。高枝は私です。そこにショウタがいるのですか?」
「はい。怒られるからって、中に入ってこないのですが」
「とんでもない。怒ってなんかいないとお伝えください。今か今かと、首を長くして帰りを待っていたのですから」
桜はショウタのところに戻って「お母さんは怒っていないって。一緒に来る?」と手を差し伸べる。彼はしばらく迷っていたが、ゆっくり頷いて歩み始めた。彼女は、その後を付いていく。
「ショウタ。会いたかったよ」
高枝が笑った。しかし、ショウタはうつむいたままだ。
「おかあさん、ごめんなさい。おつかい、たのまれたのに、かえなくて」
「いいんだよ」
「とおくまで、さがしにいったんだよ」
「そうかい、そうかい」
「そしたら、みちがわからなくなって。こえをかけても、だれもみてくれなくて」
「心細かっただろうねぇ」
「そしたら、このおねえちゃんにあって、おうちにかえってこれたんだ」
桜は、クロッキーブックとコンテを取り出して、二人の再会の場面を素速く描く。
すると、高枝が桜の方に振り返った。
「桜さん。本当にありがとうございました。これで、親子水入らずに話が出来ます」
「いいえ。どういたしまして」
「今まで、その扉に結界が出来ていて、私はここから外に出ることが出来ませんでした。結界を解除してくれたのですね。それにもお礼を言わせてください」
「いえいえ。鍵を教えてくれたのはショウタ君です。それがなければ、私でも無理でした」
高枝は桜に向かって深々と頭を垂れ、それからショウタに向かって顔を近づけた。
「さあ、ショウタ。お母さんと行きましょう」
「どこへ?」
「遠いところです」
「おねえちゃんと、おわかれになるの?」
「ええ。ここでお別れです」
「さびしいな……。でも、がまんする。ずっと、ひとりで、がまんしてきたもん」
「偉いわね」
「さようなら、おねえちゃん」
桜は、笑顔で手を振った。
「うん。さようなら」
すると、二人の姿がかき消すように見えなくなった。
桜は建物の引き戸を閉めて、鍵を牛乳箱へ戻した。
と、その時、背後から「そこで何をしておる?」と声を掛けられた。
振り向くと、桜を不審そうに見つめる老婆がいた。皺が深くて色黒く、腰も曲がって杖をついている。
「あっ、な、何でもありません。あの、その、牛乳箱が珍しくて、つい」
狼狽する桜だが、老婆はそれに怪しむことなく、柔和な顔に戻った。
「そうかい。若いもんには珍しいかもの」
「え、ええ……。おばあさんはご近所にお住まいですか?」
「すぐ近くよ」
この辺に住んでいる老婆なら何か知っているかもと、桜は身を乗り出した。
「ちょっと伺いますが、ここは空き家ですか?」
「そう。……ちと、かわいそうな話があっての」
「どんな話でしょうか?」
すると、老婆は遠くを見るような目で語り始めた。
半年前にここにショウタと一緒に引っ越してきた高枝は、雑貨店を始めた。ところが、彼女は病気で伏せがちで、あるとき発作が起こり、病院に担ぎ込まれてそこで亡くなった。一方、同じ頃、ショウタはその家からかなり離れたところで交通事故に遭って亡くなった。
その後、時々この家に女の幽霊が出るという噂が広まっていた。
話はここまでだったが、桜は老婆が語っていない出来事をショウタの証言も加味して推理してみた。
高枝はショウタに買い物へ行かせたが、彼が戻ってくる前に発作で亡くなった。ところが、死んだ後も心配で彼女の霊があの家でショウタの帰りを待っていた。
それが幽霊騒ぎにつながって、誰かが扉にお札を貼った。これで高枝の霊は外に出ることが出来なくなった。やっと家にたどり着いたショウタも、お札のせいで家が見なかった。
(これで話がつながった……)
「その画用紙みたいのは何かの?」
推理に夢中だった桜は、老婆の声で我に返った。
「ああ、これですか? クロッキーブックです」
「横文字はわからん」
「画用紙みたいな物です」
「絵描きさんかい? どれ、見せてくれんかの?」
「大した絵は描いていませんよ」
「いや、さっき、この家の中で絵を描いておったろう?」
桜は、老婆の言葉に背筋が寒くなった。
「えっ!? 見ていらしたのですか!?」
「扉が開いておったからの。さ、さ、見せておくれ」
桜はクロッキーブックを開き、老婆に二人の再会の場面を見せた。すると、じっと見ていた老婆の目に涙が溢れて、頬を伝って流れ落ちていった。
「お前さんには、あの家の中で、これが見えたのかの?」
「はい」
「そうかい……。見えたのかい……」
「…………」
老婆がゆっくりと顔を上げた。
「……お前さんに頼みたいことがある。来てはもらえぬかの?」
「どちらですか?」
「この先の旅館じゃ。ほれ、見えるじゃろ?」
「ああ、あそこは私が今泊まっている旅館です」
「それはちょうどよい。ちょっと話をしながら行こうかの」
「はい」
二人は、人通りのない歩道をゆっくりと歩み始めた。
最後までお読みいただきましてありがとうございます。
元々、長編物として考えていたのですが、独立したエピソードに分割し、短編として公開します。