1806年 失われた月曜日
少年は走っていた。弟の手を引きながら、路地を逃げていた。後ろからは追っ手の声が迫ってくる。
「―――ッくそ」
少年は自分より小さな弟の体を背に乗せると、両手を地面につけて犬のように四つ足で走った。塀を飛び越え、街灯もない暗い道を、行く当てもなくひたすらに走った。
通りからは獣の唸り声と悲鳴が響いている。馬車には沢山の死体が積まれ、警官が今夜中に自分達をそこに積み上げるであろうことは容易に想像できた。
逃げなくては
自分の背に揺られる小さな弟は状況を理解できないまま泣きじゃくっている。せめてこの子だけでも、逃がしてやらなくてはいけない。
これ以上逃げ回るのは不可能だった。少年の足は長く路地を走ったせいで血だらけになっている。口から舌を垂らしながら短く息をし、少年はレンガ造りの塀を乗り越えた。
「にいさん、ぼくたちどうなるの?」
「大丈夫、何も心配いらない」
目に涙を浮かべる弟に答えながら、少年は金の指輪を彼に握らせる。強く、強く。
「ヴィア、兄さんの言うことをよく聞いて。絶対にここから動かないで、声を出さないで。それからこの指輪を絶対に手離さないで。兄さんと約束」
「うん」
弟がこっくりと頷いたのを見届けると、少年はもう一度塀の上へ飛び乗り、その向こうへ消えていった。
弟は兄に言われた通りに木の影で丸くなって震えていた。指輪を強く握りしめて、祈るように大きな両目を瞑っていた。
「誰か、そこにいるの?」
不意に聞こえた声にびくりと両耳を立て、彼はそっと辺りを見回した。石造りの家の裏口から、初老の女が顔を覗かせている。どうやらここは人の家の庭らしかった。
彼女は木の幹に隠れる小さな子供を見つけると驚いた顔をして近づいた。彼は小さな唸り声をあげて抵抗の意を示すと、白い牙を剥き出した。
「そこにいちゃ駄目よ、こっちにおいで。見つかったら、あなたも殺されてしまうわ」
彼女は慌てた様子で彼の体を抱き寄せると、家の中へ入っていった。