いなか、の、かいだん
「――おまえら、あそこに行ったんか!」
おじいちゃんが目を吊り上げる。
あれは小学2年生の夏休み、僕達はこの田んぼと畑と山しかない田舎に連れてこられた。最初のうちこそ自宅近くでは見られない景色に目を奪われ、同じようにして連れてこられたヒロシという名前の子供と一緒に古いゲーム機で遊んでいたが、3日もすれば飽きてしまった。
だから僕達がおじいちゃんの目を盗み、あそこにだけは行ってはいけないと散々言われたあの山に入っていったのは、好奇心旺盛な子供のやることとしては当然だった。
山自体は、何の変哲も無かった。寂れた神社もなければ洞窟なんかもなく、幽霊やモンスターはおろか熊にも狸にも出会わなかったので、僕達はがっかりしておじいちゃんの家に戻った。
夏とはいえ、すっかり暗くなっていた。怒られるだろうなとは覚悟していたが、外からおじいちゃんの家を覗くとおじいちゃんの他にも大人達が何人も押しかけて深刻な空気を漂わせていたので、僕は殺されるのではないかと震え上がった。
難しい顔を寄せ合っていた彼等は、僕達を見るとつかみかからんばかりに駆け寄ってきた。
「どこ行っとったんや、心配したで」
にこりともせずに隣家のおじいちゃんが言った。うん、ちょっとその辺、と僕等は適当に言葉を濁していたのだが、おじいちゃん達は妙にしつこかった。
結局、ちょっとした言葉尻から僕達がどこに行っていたか露見してしまった。そして冒頭の台詞を投げかけられる。いや、投げかけられるなんて生易しいものじゃない。叩きつけられるというのが正確な勢いだった。おかげでまだ幼稚園のヒロシ君はすっかりベソをかいてしまった。
「それで、何か見ぃひんかったか?」
長老と呼ぶのが相応しい、1番年を取っていそうなおじいちゃんが優しく訊ねてきた。しかし目は冷たかった。
「オレンジの人が、山の向こうに沢山いたよ」
ヒロシ君が答えると、おじいちゃん達の顔はさっと青ざめた。
「それで、どうした!」
おじいちゃん達の1人がヒロシ君の肩を強く揺さぶったので、落ち着きはじめたヒロシ君はまた泣き出してしまった。なので僕が代わりに答えた。
「やっほー、って呼びかけたけど、聞こえないみたいだったから帰りました」
「声をかけたんか!」
おじいちゃんが一段と大きな声で叫んだので、僕も泣きたくなった。
ただの登山かキャンプのツアー客だと思ったのだが、そんな、声をかけてはいけないような怖い――あるいはとても偉い――人達だったのか。
「とにかく、岩屋の禰宜に相談せなあかん」
葱に相談だなんて、と僕はおかしくなったのだけど、おじいちゃん達の顔は必死で、笑い出せる雰囲気ではなかった。
そして僕とヒロシ君は軽トラに乗せられて、昼間に行ったのとは別の山に連れて行かれた。そこで僕達は岩屋というのが神社の名前で、禰宜というのが神主さんのことだと知ったのだが、空腹でそれどころではなかった。なにしろ、昼間山道を歩き回った挙句、晩御飯も食べずに連れてこられたのだから。
そんなふらふらの状態で、僕等はそこでまた神主さんから怒られた。
ひとしきり説教された後で神主さんから聞かされた話によると、あの山は神様の山で、オレンジの服を着た人々はその使いらしい。彼等は自分達の縄張りに人が入ってくることを酷く忌み嫌っていて、侵入者を見つけるとどこまでも追い詰めて食い殺してしまうという。
いくら小学生の子供でも現実とフィクションの区別くらいついている。普段なら一笑に付していただろう。けれども神主さん達の顔は真剣で、僕達にそれを許さなかった。僕達は震え上がり、ヒロシ君はまた泣き出してしまった。
神主さんは、僕等を2階にある小さな和室に案内した。畳だけの簡素な部屋だ。1つしかない窓は雨戸で塞がれ、明かりとなるものは天井からコード1本でぶら下がった裸電球だけしかなかった。
「君達は、今晩この部屋に泊まってもらう。明日わしが起こしに来るまで、絶対に出たらいかん。雨戸も開けたらあかん。大きな声では――いや、いっそ一言も喋らん方がええ。『あれ』はもしかしたら君等のよう知っとる人の声を出すかもしれんが、絶対に返事したらあかんで」
おじいちゃん達がおにぎりの載った皿とおまる、布団、扇風機を部屋に運び込み、すぐに出ていった。残された僕達はおにぎりに飛びついた。空腹が満たされると一気に疲れが押し寄せてきて、すぐに眠りに落ちた。
夢も見なかった。
暑苦しさと、大きな音で目を覚ます。なに、と訊ねようとして、声を出してはいけないことを思い出した。危ないところだった。
半袖の裾が引っ張られる。ヒロシ君も起きていたのだった。今にも泣き出しそうな顔で僕を見つめている。僕は彼の小さな手を掴んだ。
何かが言い争っているような声がしていた。何かが倒れる音も。おじいちゃん達が僕等を守るために『奴等』と戦ってくれているのだと思った。『奴等』の叫び声が聞こえる。人間の言葉のように聞こえるが、上手く聞き取れない。
僕は耳を澄ませた。
そして跳ね起きた。
僕の名を呼ぶ母の声が聞こえたからだ。
ヒロシ君の手を振り払い、僕は泣き叫びながら襖を突き破る勢いで部屋を飛び出していた。『奴等』は人間の声を真似る、という神主さんの言葉はもちろん覚えていたが、理屈じゃなかった。急勾配の階段を、転げ落ちるように駆け下りる。
その先には、僕と同じく涙で顔をグシャグシャにした母の姿があった。
そして、おじいちゃん達が手錠をかけられて座り込んでいた。
「――なんで、こんなことしたんや」
お巡りさんが、おじいちゃん達に訊いた。僕達をこの村に連れてきた知らないおじいちゃんは、すがるような目を向けた。
どうやら、僕とヒロシ君は誘拐されていたらしい。誘拐なんてテレビの中のことで自分には降りかかってこないだろうと信じていたし、なにより誘拐犯というのは誘拐した子供を縄で縛ってその目の前で親に電話をかけるもの、という思い込みがあったので、その時の僕はまったく気付かなかったのだ。
こうした知らない間に危険と隣り合わせの状況にあったエピソードは他にもあるが、振り返るたび、その状況よりもむしろ幼い頃の自分の脳天気さに恐怖を覚える。
「その子を連れていかんとってくれ。その子らがおらんと、この村は廃村になってまう」
「せや、家が絶えてしまう。どうしたらええんや」
「おまえが責任持って、墓守してくれるっちゅうんか」
口々におじいちゃん達が叫ぶのを、ふざけなや、とお巡りさんが怒鳴って黙らせた。
「1人や2人誘拐してきて、どうにかなるもんでもないやろが。まだ人が入ってきたときには余所者じゃ、しきたりを守らんじゃゆうて追い出しにかかったくせに、今更ムシがよすぎるわ。だいたいこんな、山ァ2つ3つ越えな学校も病院もないような土地でどう育てていくつもりや」
「そんな大袈裟な。子供なんて元気なもんやし、病院なんか行かんでも寝かせとったら大抵治るもんやろ。学校なんか行かんでもウチらが畑仕事教えるさかい、それで食っていったらええ」
「せや、だから坊主、ああ奥さんもどうでっか、旦那さんと一緒に此処に住みはったら――」
母さんが無言で僕の手を引いていったので、その後のことは知らない。
その後、二十歳を過ぎて車の免許をとったついでに、僕は記憶を頼りにあの場所に行ってみようと考えた。
しかし結論から言うと目当ての場所に辿り着くことは出来なかった。
ネット上、果ては本屋や図書館で地図とにらめっこしてみたが、辛うじて記憶と合致しそうなのは80年も前に廃村になった村しかなかった。