幼馴染に、私は何も言えない
「由紀のバーカ」
私がヘマする度に幼馴染の彼はいつもそのひとことを言う。言葉とは裏腹に、口元は悪戯っぽく笑っていて、彼の瞳はどこか優しげで、私は彼から目をそらすことができない。昔から変わらない彼の表情に私はいつも目を奪われるのだ。
「由紀、じゃあ俺先に帰るわ。仕事お疲れさま。」
「うん、分かった。じゃあね。」
私は幼馴染の方へ顔を向けることなく、手元の書類を見ながら、彼が生徒会室の扉を閉める音を聞いた。ここ最近、毎日このように一人で生徒会室に残って私は「仕事」を片付ける。彼が生徒会室から出て、一人になったことを確認すると、私は、意味もなく目を通していた書類を机の上に放り出して部屋に置いてあるソファに倒れこんだ。
本当は仕事なんて残っていない。目を通さなければならない書類なんてない。手に持っていたのは昨日既に確認した書類で、内容も我が校の卒業生を呼んだ講演会の日程に関する簡単なものだった。私は仕事が残っているようなふりをしていただけで、こんな下らない演技をしたのは彼と帰る時間をずらしたかったから。幼馴染の彼とその隣に並ぶ彼女の姿を見たくなかったからだった。
私の本当に片付けなければならない「仕事」は彼に対する想いを消していくことなのかもしれない。
幼稚園の頃から高校三年生の今に至るまでずっと傍にいた幼馴染は、この間彼女ができた。色素の薄めな髪をもった色白のとても可愛い子で、ウサギを彷彿とさせる子だった。
「眞鍋雪広君いますか?」ある日突然、私と彼のクラスにやってきた彼女の色白の頬は桃色で、大きな瞳は心なしか潤んでいた。彼に目をやると、学年一かっこいいと評判の、整った顔がほんのりと赤く染まっていて、彼は足早に教室の入り口付近にいる彼女に近づくと小さな声で二言三言話してから、二人でどこかに去って行った。
女子生徒の悲鳴が上がり、男子生徒の羨む声が教室のあちこちから出てきた。教室がざわめく中、私は一人何も音の聞こえない世界にいた。言葉にできない思いがぐるぐると頭の中を巡る。どうして、彼女は誰なの、そんな身勝手な思いが溢れ出て止まらないのが自分でも分かった。意識も薄ぼんやりと霞がかってゆく。
「顔色が悪いよ、大丈夫?」
友人のこの声が私の意識を戻した。そんなにひどい顔をしていたのだろうか。そっと自分の頬に手で触れてみると、ひどく冷たくてひんやりとする。
「大丈夫大丈夫、昨日夜更かししただけだから。」
「…ねえ、由紀。いいの?」
「何が?」とそう笑いながら言うと友人は何も言わずにため息をついて眉を下げた。それからいつも通り、世間話を私にふってきた。
きっと彼女は分かっている。私の想いを分かったうえでこれ以上何も言わないでいてくれるのだろう。そんな彼女の優しさが有りがたく、そして同時に苦しかった。
その日から二人は付き合うこととなったらしい。そう幼馴染本人から伝えられた。「雪、お似合いだよ。おめでとう。」と伝えると彼は顔を少し赤らめて目をそらした。「乙女だねー」と私がからかうと彼はいつものひとことを発した。
「うっせ、由紀のバーカ」
そういう彼はいつものような悪戯っ子みたいな表情を浮かべてはいなくて。照れを隠すためかぶっきらぼうで、それでいて幸せそうだった。初めて見る表情だった。14年間一緒にいたけれど、そんな表情を引き出せるのはあの子だけなのだ。完敗だと思った。
「雪、お幸せにね」そういって私が笑うと彼は優しく微笑んでありがとうと言った。そんな彼が眩しくて涙が出そうだった。
幼い時から勝手に恋心を抱いて、勝手に失恋した。ずっと一緒だと思っていた私の幼馴染。彼は本当に私を幼馴染としてしか見ていなかった。彼女と付き合った後も、それまで通りに接してくる。近すぎず、遠すぎずの幼馴染の距離で。
「もうほんとなんなの。」
生徒会室の天井を睨みながら私は呟いた。雪という彼のあだ名と由紀という私の名前の響きが同じことが嬉しくていつも雪、と呼びかけるたびに嬉しかった。でも、今はそうじゃない。呼びかけるたびに雪のように白い肌のあの子が、二人が並んでいる姿が思い出されてしまう。あの子は、雪を何て呼ぶんだろう。雪はあの子のことを何て呼ぶんだろう。どろっと想いが胸にあふれるのが分かった。消し去ってしまいたいから、彼を見ているのが辛いから、自分が醜くなるのが嫌だから、いっそ離れてしまいたいのに。同級生という関係が、幼馴染という関係がそれすらも許さない。
ソファから体を起こすことができないほどに体が気だるい。頭もひどく痛む。その鋭い痛みが鈍い胸の痛みを和らげていた。起き上がる気力すらも起きなくて、天井を見つめていたが、不意に天井がかすんで見えた。
「ゆきのバーカ」
ふと口から零れ落ちた言葉。その言葉が私の気持ちに気付かない鈍感な幼馴染に向けたものなのか、それとも気持ちを伝えられなかった臆病な私のどちらに向けたものなのか、私には分からなかった。