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Last Days  作者: おもち
9/17

8 思い出 ―シャドー―

 ジェイがいつものバーに行くと、既に先客がいて酒を飲んでいた。ローレンツだ。

 その隣に座る。酒を飲みたい気分ではない。炭酸入りのジュースを注文することにした。

「お、ジェイか。どうした、お前から会いに来てくれるなんて珍しい。やっと親孝行に目覚めたか」

「そんなところかな」

 ローレンツはとても愉快そうに笑った。ジェイと話せることが楽しくてしかたないといった様子だ。もうだいぶ酒がまわっているらしい。

「今日帰ってきたの?」

「ああ。今朝方にな。シャドーの訓練のために、オーストラリアに行っていたんだ」

「ふーん」

 ジェイはローレンツがどこに行って、何をしていたか知っていたが、それを悟られると怪しまれると思い、知らないふりをした。

「訓練は順調なの?」

「いや、それがなあ……」

 ローレンツがテーブルにコップを置き、腕を組んで気難しい顔をする。本人は真面目な表情をしているつもりなのだろうが、顔が火を噴いているように真っ赤なので傍から見るとまるで憤怒しているようだ。

「今更になってお前がどれだけ優秀だったのか分かるよ」

「そんな特別優秀じゃないでしょ」

「謙遜するな。お前は間違いなく優等生だよ。お前が初めての教え子で良かった。お前じゃなかったら俺は逃げ出していた」

「そんなにか」

 ジェイが小さく笑った。ローレンツに褒められるとどうしても嫌な気にはならない。

「大変なんだね」

「そうさ。奴らは機転が利かん。命令されないと何にもしないんだ。ソーマじゃないんだから、もっと頭を使えと言っても、奴らには何のことだか分からんらしい」

 しばらく、ジェイはローレンツの愚痴に付き合った。それが愚痴でも、ローレンツの話を聞くことはジェイにとって苦痛にはならなかった。

「なんか、相談でもあるのか」

 愚痴が一段落して、ローレンツはそうジェイに尋ねた。珍しくジェイから声をかけられたから、何か理由があるのだと考えたのだろう。

「うん、実は……」

「あ、分かったぞ。アルちゃんとのことだな」

 ローレンツが話を遮り、ニヤニヤ笑いながらそう言った。

「違うって」

「照れるな」

「違う」

 ジェイが呆れ顔でそう言っても、ローレンツは下品な顔のまま、いやらしい笑みを隠そうとしない。

「実はさ、ヴィレブロルトのことを聞きたいと思ってきたんだ」

 ローレンツの顔が急に真顔に戻った。一気に酔いが覚めたようだった。

「なんだ藪から棒に」

「急に気になっちゃって」

「うーん」

 ローレンツが急に困った表情をした。そんなローレンツを無視して、ジェイは話を続ける。

「ヴィルは、どんな人だったの?」

「それはお前も知っているだろう。ずっとしかめっ面でなかなか口を開かない、無愛想な男さ」

「任務には熱心だった?」

「ああ。あいつはほとんど喋らないが、胸には熱いものを持ってる男だった。誰より熱心だったよ。ノイネ ヴェルトの敵を強く憎んでいた」

「そっか……」

 ローレンツがそう言うなら、間違いないのだろう。それなら……

「それなら、どうしてノイネ ヴェルトを裏切ったの?」

「……」

 ローレンツは言葉を詰まらせた。明らかにこの話題を嫌がっている。

「どうしてそんなことを訊くんだ」

「いや、なんとなく疑問に思って」

「…………」

「嫌なら、話さなくていいよ」

「……あいつには、あいつの事情があったのさ」

 ローレンツは言葉を選ぶように、ポツリと言った。

「そっか」

 そう言いながら、ジェイはローレンツの様子を注意深く窺った。ローレンツは明らかに何か知っていて、隠そうとしている。

 ジェイはもう少し深く探ってやろうと考えた。

「ヴィレブロルトを処刑したのは、ローレンツだったよね。その時のことを知りたい」

 ローレンツは、ニヤリと笑ってジェイの顔を正面から見た。先程までの笑みとは明らかに異なる。その感情が読み取れない。

「お前、尋問下手だな。これは教育し直さないといけないか?」

 それだけ言って、ローレンツはグラスを置き、ご馳走様とママに伝えてその場を去って行った。ジェイの方には一度も振り返らなかった。

 しばらく、ジェイは体を動かすことができなかった。ヒヤリとした。ローレンツの先程の表情に、氷漬けにされた気分だった。

 ジェイは深く息を吐いて、苦笑いを浮かべた。ジェイの問いに対するローレンツの答えは、全てを物語っていた。

 やはり敵わないな。

 ジェイは短く嘆息して、ジュースを一気に飲み干し、バーを去った。



 記憶に残っている限り、ローレンツはジェイの傍に最初からいた。血は繋がっていない。だから、生まれた時から一緒にいたわけではないのだろう。しかしジェイは、ローレンツと出会う前の記憶を持っていなかった。

 名前を与えたのはローレンツだった。ジェイには最初名前がなかった。ジェイについて分かっていることは、ジェイが日本人ということだけだった。そのため、最初ジェイは基地内でジャップと呼ばれていた。ジェイは気にしていなかったが、ローレンツは憤慨した。ジャップとは蔑称である。そんなものが名前など、到底認められない。そう言って、ローレンツはジェイと呼ぶことにした。それは、ジェイにとって唯一のアイデンティティである、自分が日本人だということを、ジェイが忘れないようにと願われて付けられたものだった。

 小さな頃から、ジェイはシャドーになるための英才教育を受けた。友達はいなかった。しかし寂しいと思ったことはあまりなかった。ローレンツをはじめ、シャドーたちが自分の相手をしてくれたからだ。娯楽が少なく、任務の性質上心を擦り減らしがちなシャドーたちにとって、ジェイの存在は一種のオアシスだった。仲間が死んだとき、自分たちの代わりにジェイが泣いてくれた。

 シャドーたちは小さなジェイと話をし、からかい、遊び相手になり、喧嘩をした。

 ジェイを囲んで卑猥な自慢話をしあい、話を理解できずボケッとしているジェイを笑ったり、ジェイに酒を飲ませてフラフラにして騒いだりすることで、シャドーたちは自らの心の傷を癒した。

 ジェイは物心ついた頃から血生臭い世界に身を置いていた。昨日仲良く話していた相手がいなくなってしまうことを、五体満足だった男が片足を失って帰ってくることを、酷い怪我を負って血塗れになり、呻いている人々を、ジェイは幼い頃から受け入れた。

 教育役はローレンツだったが、いつも一緒にいられるわけではなかった。ローレンツにも任務がある。次に会える日までの課題が与えられ、ジェイはその課題を必死でこなした。楽しみは少ない。課題をこなす以外に、ジェイが時間を潰せる手段は多くなかった。

 言語や数学、社会科や科学といった基礎的な勉強から、銃器をはじめとする武器の構造、原理、扱い方に至るまでジェイは学び、吸収していった。暇になったときは本を読んだ。本だけが、ジェイが普通の人間の営みを知る唯一の手段だった。

 厳しい訓練が続いた。小さな頃はまず基礎体力を重視され、ジェイは毎日立ち上がれなくなるまで走り、腕が動かなくなるまでトレーニングをした。その甲斐あって、八歳程度になる頃にはもう人並みに銃を撃てるようになった。

 シャドーとしての心構えについても小さな時から叩き込まれた。ローレンツはジェイによくこう言って聞かせた。

 第一に、与えられた任務をこなすこと。

 第二に、生還すること。

 特にローレンツは、生きて帰ることの重要性を繰り返し、何度も何度も言い聞かせた。

 任務の達成が第一だが、死なないことも同じくらい重要だ。シャドーはノイネ ヴェルトの貴重な駒なのだ。簡単に死なれては困る。どんなに状況が悪化しても、決して生き延びることを諦めるな。

 シャドーは拉致されても問題がないように、重要な機密を与えられなかった。シャドーたちは、自分たちのいるノイネ ヴェルトの基地が具体的にどこにあるのかすら知らなかった。だからこそ、生き延びることに専念できる。

 ローレンツはジェイに、自らの経験もよく語った。ローレンツはノイネ ヴェルトに所属する前、旅行が趣味だった。シャドーになってからもよく登山にいく。

 自分の行った世界中に散らばる旅行先の話を、ローレンツは事あるごとにジェイに話して聞かせた。ジェイはローレンツのそんな話を聞くことが一番の楽しみだった。エメラルドグリーンの海、形を変えつづける砂漠、溶岩が流れ続ける火山、堅牢な山脈、厳かな城、美しい教会、地平線まで続く花畑、鬱蒼と茂ったジャングル、曲がりくねった大河。ローレンツは自分の見た景色、そこで食べたもの、美味しかったもの、味わったことのないような珍味、ついでにそこで出会った女について言葉巧みに話し、ジェイの心を躍らせた。

 ローレンツの話を聞きながら、ジェイはまるで自分がそこに行ってきたかのような錯覚を楽しんだ。自分はあまり遠くへは行けないが、ローレンツの話を聞き、世界中の景色を写真で眺めるだけでジェイは満足だった。

 ある日、空の色を知っているか、とローレンツはジェイに尋ねた。ジェイは馬鹿にするなと言わんばかりに青だと答えた。訓練のために外出することはある。ジェイも空ぐらいなら見飽きるほど何度も見たことがあった。

 ローレンツは笑い、どんな青かと訊いた。ジェイは少し考えを巡らせた。空がどんな青だったかなど、意識して見たことがない。記憶を辿り、白っぽい青だと答えた。空は薄い水色だ。

 ジェイの答えを聞いたローレンツは首を振り、それは本物の空ではないと言った。ジェイが見たことがあるのは、空気の汚い場所で見た空だ。本当の空は暗く、濃い青なのだ。段々と黒くなっていく様子が分かり、だから昔の人々は、昼間にも空の上に宇宙があることを知ることができた。

 今はもうどこも空気が汚れてしまって、普段暮らしている場所からは空の本当の色を知ることはできないが、山に登ればまだ見ることができると、ローレンツは言った。その青を見るために、ローレンツは山に登るのだ。

 いつか、一緒に山に登ろうとローレンツはジェイに言った。ジェイは大きく頷いた。山じゃなくてもいい。ローレンツとなら、どんな場所でも行ってみたかった。

 ジェイはすくすくと成長し、十五歳を迎える頃にはもう立派な兵となっていた。殴り合いの喧嘩をしても、もう他のシャドーにも負けないほどだった。

 ローレンツは仕上げと称して、自分に同行して任務にあたるようジェイに言った。

 ジェイの最初の任務は、当時北朝鮮で活動していた一人の革命家を暗殺することだった。

 長く続いた北朝鮮の独裁は、急速に弱体化へ向かっていた。貧しい人々の不満は破裂寸前まで膨らみ、人民軍内部でも対立や反乱がおきて、すでに政権は市民を抑えつける力を失っていた。政権内部でも第一書記の側近だった高官が離反して処刑された後、終わらない粛清が続いていた。もはや崩壊は時間の問題だった。

 そんな北朝鮮内部の混乱のなか、一人の革命闘士が立ち上がった。彼は人々をまとめ、希望を与えた。独裁政権を倒せば、貧しく、統治の厳しい生活から抜け出せると叫び、不満を持つ市民たちから熱烈な支持を得た。

 韓国の活動家はこの動きを全力でバックアップし、北朝鮮内部では難しい、革命のための広告を大量に刷り、北朝鮮内にばら撒いた。結果、革命の動きは北朝鮮全土に広がり、革命家は全国規模で支持を集め、着々と勢力を大きくした。

 慌てたのは、北朝鮮の近隣諸国だった。韓国、日本は表面上革命を支持したが、内心では不安だらけだった。

 革命は北朝鮮国民にとっては希望だったが、近隣諸国にとっては悪夢だった。

 北朝鮮の革命には二つの問題がある。一つは核兵器関連技術の拡散であり、もう一つは大量に溢れるであろう難民だった。片や地球規模の安全保障上の危機であり、片や東アジア諸国の経済上の危機だった。中国にとってはさらに、革命が成功してしまうこと自体が問題だ。

 どの東アジア諸国も、北朝鮮の管理された崩壊を望んだ。革命による崩壊など、あってはならないことだ。

 しかし、どの国も行動を起こせなかった。日本と韓国にとっては、革命を阻止すれば国内、そして世界の世論から強烈なバッシングを受けることになる。中国にも難しい。ますます経済の鈍化が進み、中国は国内の安定で手一杯だった。下手に朝鮮半島に手を出せば、朝鮮戦争がまた始まる。中国にそんな余裕はなかった。

 鬱々とした状況下で、解決策として提案されたのがノイネ ヴェルトに協力を依頼することだった。

 日本に本部を移したばかりのノイネ ヴェルトは、その提案を受け入れた。管理された崩壊はノイネ ヴェルトの思想にもマッチする上、日本の願いを聞いてやることはこれから日本に根をはる組織にとって大きなプラスになると判断したからだった。

 任務を知らされたローレンツは、パートナーとしてジェイを連れていくと言い出した。管理者であるエリザは強く反対したが、ヴィレブロルトはすぐさま了承した。結局、エリザが折れた。

 ジェイは激しく緊張した。初めての任務が世界規模の、責任の重い任務だったからだ。

 最初ジェイは嫌がったが、ローレンツには逆らえない。渋々任務を引き受けることにした。

 北朝鮮には、中国の国境から侵入することとなった。中国に向かうための飛行機に搭乗する前、ローレンツはラーメン屋にジェイを連れて行った。

「寄り道なんてしていいの?」

「まだ飛行機の時間まで三時間もあるだろう」

 ローレンツは何でもないようにそう言って、ラーメンを二杯注文した。合わせ味噌二つ。バター乗せで。

「合わせ味噌ってなんだ」

「知らん。日本の食いもんだ。赤味噌と白味噌っていうのを混ぜたものらしい」

 ジェイはふーんと言って納得した。よく分からないが、味にうるさいローレンツが頼んだのだ。美味しいのだろう。

 しばらく待つと、ラーメンが二人の前に置かれた。二人同時に割り箸を割り、麺をズルズルとすする。

「いいか、バターはすぐには溶かさないんだぞ」

「え、何だその決まり。好きに食ったらいけないの?」

「ダメだ。こういうのは、味の変化を楽しむものなんだ」

「面倒だなあ」

 そう言いつつ、ジェイはローレンツの言うとおりにしてみた。確かに、味が変化する。一杯で二度楽しめるわけだ。

「どうだ。言う通りにして良かっただろう」

 得意げに言うローレンツに対して、ジェイはまあまあと答えた。素直に認めるのが何だか悔しかったからだ。

「なんだ? 反抗期か?」

 ローレンツは笑った。

 行きの飛行機の中で、ジェイは作戦について考えていた。

 革命家は、北朝鮮の人々にとって希望だ。どんな事情があっても、それを奪うことが許されるのだろうか。

 ヴィレブロルトから聞かされた話を思い出した。世界は複雑だ。

 思い切って、ジェイはローレンツに尋ねてみた。これはしても良いことなのか。

「そんなことは帰ってから考えろ。今は任務に集中しろ。じゃないと、死ぬぞ」

 ローレンツの答えはそれだけだった。

 任務が終わってから考えたのでは意味がないと思ったが、一理あると思った。自分の使命は任務をこなすことだ。そういった難しい判断は、それ専門の人々が考えるのだ。自分には、その人達を信じる他ない。ローレンツ達もそうやって任務をこなしているのだろう。だから、後で考える他ない。

 中国に着き、北朝鮮に入る。

 北朝鮮は高地が多い。移動中、ローレンツは上を見ろと言った。

「おお……」

 見上げたジェイは、一瞬言葉を失った。ローレンツの言った通りだった。空は暗い青だった。日の沈むような時間でなくとも、空は見たことがないほど濃い。

 ジェイは途端に、自分が小さく思えた。自分には、あまりにも知らないことが多すぎる。

 作戦ポイントに到着した。狙撃用の銃を取りだし、準備を進める。

「お前が撃て」

 ローレンツはジェイに狙撃をするように言った。

 失敗することが許されない、大変な指令だった。

 これは最終試験なのだ、とジェイは悟った。訓練は終わり、本物のシャドーとなる時が来たのだ。シャドーは常に失敗を許されない。失敗するかもしれないといって逃げていては、いつまで経ってもジェイはシャドーになれない。

 ジェイは頷いた。

 狙撃銃を構え、スコープでターゲットを捉える。

 人々の希望が今、自分の持つ銃口の先にいる。

 ジェイは短く息を吐いて覚悟を決め、引き金を引いた。


 その後、事態は滞りなく、計画通りに運んだ。

 北朝鮮は韓国が管理することとなり、朝鮮民族は悲願の統一を果たした。核技術は国連安保理常任理事国である各国と協定を結んだ中国が、厳しい管理と監視の中回収した。難民も、ほとんど溢れなかった。穏やかな崩壊だったからだ。

 シャドーとなったジェイは帰ってから、今回の任務について考えてみた。しかし、結論は出ない。当然だ。ジェイには理想がなかった。それはヴィレブロルトの言う、救いたい人がいないことを意味する。理想を持たないジェイがいくら考えたところで、結論など出せるはずもなかった。

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