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Last Days  作者: おもち
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5 安息 ―プロミス―

「フローラ」

 ノイネ ヴェルト基地内の廊下を歩いていたフロレンツィアが、背後から声をかけられる。振り返ったフロレンツィアの前には、一人の男が立っていた。フロレンツィア同様に白衣を纏ったその男は、皺の増えてきた顔をくしゃりと歪ませて微笑んでいる。小柄な男だった。あちこちにたるみの目立ってきた貧相な肉付きも相まって、常に縮こまって萎縮しているような印象を与える。白髪混じりの髪はペタリと頭に張り付いているようで、頭皮がチラチラと見えていた。レンズの大きな老眼鏡の下で、小さな二つの目がフロレンツィアを映している。

「フリッツ、しばらくぶりね。また痩せたんじゃないの?」

「うーん、やっぱりそうかい? ちゃんと一日三回食事を摂るようにはしてるんだけどね」

「しっかりしてよ。ノイネ ヴェルトはあなたが倒れちゃ立ち行かないんだから」

「そうかな。随分人員も増えて大きくなったし、僕いなくてももう大丈夫なんじゃないかな」

 嘘だ、とフロレンツィアは思った。この男はそんなことこれっぽちも思っていない。分かっていながら、まるで本心かのように嘘をつく。フロレンツィアはフリッツのそんなところを嫌っていた。

 フリッツ・ハーバーはノイネ ヴェルトの創始者だった。ノイネ ヴェルトの持つ記憶を操作する技術は、フリッツがほぼ一人で完成させた。莫大な資産を持つ名家に生まれたフリッツは、国家等の援助なしに大規模なプロジェクトを進行できた。紛れもない天才だった。巨万の富と神がかり的な頭脳を持って生まれた彼は、一つの理想を実現するために半生を擲った。そして成し遂げたのだ。

 フリッツとフロレンツィアは比較的古くからの付き合いだった。ノイネ ヴェルト創設期からフリッツの思想を理解して協力した数少ない人間の一人がフロレンツィアだった。

「そんなことないわよ。また研究にのめりこんでいるんでしょう。少しは休んだら?」

「はは、いや、そうなんだけど。今やってるプロジェクトが、なかなか上手くいってるんだ。こうも好調だと、休めないんだよ」

「ふーん。ま、心配はしてないけどね。いつものことなんだから」

「手厳しいなあ」

「大丈夫でしょ、あなた、見かけによらず体力はある方だし。そういえば、登山にはもう行かないの?」

「うーん、僕の趣味が登山だって思ってる人が少なくないけど、僕自身はそんなに好きじゃないんだよ。閉じこもってる方が好きさ。登山に行ってたのは、ローレンツに無理やり連れてかれてただけなんだよ」

「あら、そうなの?」

 ローレンツか、とフロレンツィアが内心で溜息をつく。ローレンツも創設期からのメンバーの一人だった。

「ところで、何か用?」

 この男がわざわざ自分に会いに来るなんて滅多にないことだ。

「ああ、いやさ、今回の作戦、大変だったでしょ」

 フリッツの言う今回の作戦とは、エラルド抹殺ミッションのことだ。

「見たよ。君の報告書。今回はイレギュラーが多すぎた。でも、君は流石だね」

「あなたに褒められても嬉しくないわ」

「ははは。きついねえ」

 フリッツの言う通り、今回はイレギュラーだらけだった。そもそも、事がここまで悪化したのは今までアメリカ国内でのノイネ ヴェルトの活動に協力的だった米国が支援を拒否したためだった。こんなことは今までほとんどなかった事だ。

 今回の作戦、いつも通りに米国が協力していたなら、事態は早々に終結していただろう。

「捕獲した米国の特殊部隊員は?」

「もう尋問が終了したから、ソーマに加工しておいたわ」

「ほお。仕事が早いね。やっぱり、できる女は違うね」

「それは女性差別的発言ね」

「え、そうかな。僕、変なこと言ったかな」

 特殊部隊員は全てを吐いた。どうやら、エラルド側は米国にダミーの情報を流していたようだ。

 情報の内容はこうだ。エラルドはノイネ ヴェルトのトップシークレットを握っている。だから、ノイネ ヴェルトは必死でエラルドを追っているのだ。

 根も葉もない情報だったが、米政府は信じた。そして、ノイネ ヴェルトの協力要請を拒絶し、独自でエラルドを捕獲しようと動いたのだ。その事は、別の大きな意味を持つ。

「まったく、困った国だね。あの国も」

 それは米国が完全にノイネ ヴェルトに対して従順になったわけではなく、未だに反抗勢力が息をしているということだ。

「どうするつもり?」

「はあ……ま、考えておくさ」

 合衆国にいる反抗勢力の根は思ったより深いのかもしれなかった。

「もう一個あったよね。今回のイレギュラー」

「エラルドのソーマ投入ね」

 フロレンツィアは何気なくフリッツから目を逸らした。フリッツがフロレンツィアの顔をじっと見つめる。

「心当たりはないのかい? 敵が何でソーマなんて所持していたのか」

「……あったら、報告しているわ」

 フロレンツィアはヴィレブロルトのことを報告していなかった。

「そっか……」

 フリッツが見透かすような目でフロレンツィアを見つめる。フロレンツィアは無言で応えた。

「ま、信頼してるよ。これからもこの調子でよろしく」

「ええ」

「じゃ、僕は戻るとするかな」

「ちょっと待って」

 去ろうとしていたフリッツが怪訝そうに振り返る。

「頼みたいことがあるのよ」

 フリッツが微笑んだ。顔の皺がぐにゃりと潰れる。

「ふふ、愛しの彼に会いたいんだね」

「その言い方は気に入らないわ。やめて」

「ええー。僕は事実を言っただけなのに」

 ま、いいよとフリッツが言った。その代わり、と続ける。

「いつも通り、護衛をつけてもらわなくちゃね。待ってて。すぐ手配するよ」

「ありがとう。感謝するわ」

「勘違いしてほしくないけど、君を信用してないわけじゃないんだ。でも万が一君が拉致でもされたら、って考えたら心配なんだよ。もしそうなったら、僕のか細い心臓は止まってしまう」

「はいはい。毎度毎度ありがとうございます」

「うーん。信じてないでしょ」

「そんなことはないわ」

「はあ……ま、いいか。いつも通り、ゲートの前で待ってて。ソーマに命令を入力して向かわせるから」

「お願いね」

 それじゃ、と手を振り、フリッツはフロレンツィアと別れた。二人は廊下を反対方向に歩いて行く。

 あ、そういえば、とフリッツが数メートル程離れたフロレンツィアの背中に声をかけた。

「アルテミスの定期報告、お願いね」

 フロレンツィアが少しだけ振り返り、分かったと手を挙げた。

 フリッツと別れた後、歩きながらフロレンツィアは苦笑した。

 アルテミスか……

 フリッツからアルテミスを任されたのは、前例のない手術を施されたアルテミスの様子や振る舞い、その後の成長を観察して記録し、データを得るためだった。

 しかしフロレンツィアは感づいていた。自分にアルテミスを配属したのは、研究データを取るためというよりはむしろ、自分を監視するためだと。

 フロレンツィアはノイネ ヴェルト内の数少ない古参だ。組織の色々な内情を知りすぎている。

 まあ、どうでもいいか。

 小さく呟いて、フロレンツィアはゲートに向かった。



 陽が落ち、東の空から少し欠けた満月が顔を出し始めた頃、冷たい夜の空気を切り裂いて一台の車が住宅街の方向へ走行していた。

 この地では、一足早く秋の終盤を迎えていた。木々はほとんど葉を散らし、寒々しさを際立たせている。下旬からは雪も降りだすだろう。長い冬が今年もまた、この北の大地を覆うのだ。

 後部座席の背もたれに身を預けるフロレンツィアは、ウィンドウ越しに街の様子をぼうっと眺めていた。

 もうすでにコートを纏っている人がちらほら見える。時間帯的に、会社帰りのサラリーマンが多い。商店街へ向かう学生の姿も少なくない。仲睦まじい制服姿のカップルが、手をつないで楽しそうに笑いながら商店街の雑踏に紛れていった。

 繁華街を離れてしばらく走ると、フロレンツィアを乗せた車は目的地へ到着した。コインパーキングに車を停め、二人のソーマとともにフロレンツィアは車を降りる。

 この辺りの空気は澄んでいる。夜空に瞬く明るい星がいくつか、何気なく頭上を見上げたフロレンツィアの目に映った。

 周辺は一軒家が多い。そのうちの一軒に向け、フロレンツィア達が歩いていく。

「ここまででいいわ」

 フロレンツィアが自分の後ろを歩く二人に言う。二人は頷くことはしなかったが、伝わってはいるようでその足を止めた。

 家の門に設置されているインターホンを押すフロレンツィア。数秒ほどして、男の声が応えた。

「はい」

「私よ」

「はーい」

 インターホンが切れ、戸のカギが開く音が聞こえた。フロレンツィアは門を通り、扉を開けてその家屋に入った。

「おかえり」

「ただいま。ユーリ」

 壮年の男が玄関でフロレンツィアを出迎えた。にこやかに笑っている。その笑顔に、フロレンツィアもまた溌剌とした笑顔で応えた。

 二人は抱き合い、口づけを交わした。ユーリの手がフロレンツィアの髪を優しく撫でる。しばらくの間互いの唇を唇で愛撫しあい、名残惜しそうに離れた。

「ほら、上がって上がって。寒かったでしょ。晩御飯の用意、できてるよ。それとも、先にお風呂の方がいい?」

「ありがとう。先にご飯を頂くわ。おなか減っちゃって」

「了解」

 ユーリはまた優しげに笑い、台所の方へ歩いて行った。フロレンツィアは靴を脱ぎ、しばらくぶりの自分の居室に荷物を置いた。

 部屋を見渡す。数ヶ月この部屋を空けていたが、埃一つ落ちていない。ユーリが掃除してくれていたのだろう。

 居間に行くと、テーブルの上に豪勢な料理が並んでいた。パプリカと鶏肉のトマト煮、焦げ目が食欲をそそるグラタン、白身魚のソテー、サーモンの乗ったサラダ……

「どうしたの、これ」

「久しぶりだからさ。気合い入っちゃって」

 喜びに、フロレンツィアの頬が緩む。その表情を見られるのがなんだか気恥ずかしく、フロレンツィアは俯いて顔を隠した。そんなフロレンツィアを、怪訝そうにユーリが覗く。

「どうしたの?」

「ううん。何でもない。いただきましょう」

 二人が席に着き、食事を始める。ユーリが他愛もない話をして、フロレンツィアが笑う。

「今日こっちに戻ってきたの?」

「ええ」

「寒くてびっくりしたでしょ」

 フロレンツィアはユーリに、日本の国外で仕事をしていると嘘をついていた。

「お仕事、順調なの?」

「うーん、どうかしら。良くも悪くも、いつも通りといったところね」

「そっか。やっぱり忙しいんだね。いつまでこっちにいられるの?」

「ごめんなさい。明日の朝には……」

「……うん。そっか……」

 押し黙ってしまうユーリ。ぎこちない空気が二人の間に漂った。フロレンツィアは、胸を締め付けられるような感覚を覚える。

 ユーリはノイネ ヴェルトとはまったく縁のない一般人だ。当然、フロレンツィアはノイネ ヴェルトのことを話せていなかった。

「ごめんなさい」

 もう一度謝るフロレンツィアに、寂しそうにユーリが笑いかける。

「ううん。気にしないで。仕事頑張ってるフローラ、綺麗で、大好きだから」

「……ありがとう」

「今日は何で日本に帰ってきたの?」

「もちろん、ユーリに会いたかったからよ。っていうのはちょっぴり嘘。日本に来る用事があったから」

「なんだ、やっぱり仕事か。妬いちゃうなあ」

 ユーリが微笑む。その顔には、もういつもの明るさが戻っていた。

「でも、帰ってこれる時間は貰えたんだね」

「駄々こねたのよ。人使いの荒いとこなんだから。一日くらい自由にしろって」

「ええ、フローラが?」

「そうよ?」

 可笑しそうにユーリが笑った。

「今度フローラの仕事の話、聞きたいなあ」

「だーめ。守秘義務の厳しいとこって、言ったでしょ」

「国際警察のエリート職員だもんね。カッコいいよなあ」

「……そんな大したもんじゃないわ」

 ユーリの料理はどれも暖かで、満たされるような美味しさがある。それは高級レストランのような美味しさではなく、大切な人のために作られた家庭料理の、代わりのない温もりだった。

「もうすぐ、仕事が一段落するの」

「うん」

「それが一息ついたら、一緒に暮らせるようになると思う」

「本当?」

 ユーリが目を輝かせて、身を乗り出す。

「ええ。もうちょっとかかるかもしれないけど。そうしたら……」

「……うん」

 二人は、随分昔に婚約を済ませていた。しかし、フロレンツィアは自分の置かれた境遇を鑑み、結婚には一歩踏み出せないままでいた。

 ユーリがフロレンツィアの手を握る。

「待ってるから。ずっと……」

 フロレンツィアは、ゆっくりと頷いて、微笑んだ。


 その夜、二人は長く離れ離れになっていた体を重ねた。

 【検閲により削除】

 ユーリが眠りについた後、フロレンツィアは寝室に差し込む青白い月明かりの中で、ユーリの寝息を聞きながらこれからのことを考えていた。

 自分の望みはただ一つだ。

 ユーリとの、何に怯えることもない平凡な家庭を築く。

 そのためには、現状を捻じ曲げる必要があった。ノイネ ヴェルトは、フリッツは、自分を自由にはしないだろう。それなら……

 それなら、自分が世界の王になろう。自分が世界の頂点に立てば、その時こそ、ユーリと自分は全ての軛から解き放たれるに違いない。

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