1(改訂版) 新世界 ―ノイネ ヴェルト―
ジェイは簡素なベットから勢いよく跳ね起きた。
薄手のタンクトップのみで覆われた肌には、傍から見てもわかるほどの脂汗が浮かんでいる。自嘲気味に笑って、ジェイは息を吐いた。もう何度目か本人にも分からない。慣れっこだった。いつからか、少なくとも物心ついた時からずっとジェイは同じ悪夢を見続けている。
目の前でオレンジ色の景色がただ揺れているだけの夢。暖かなその色合いとは裏腹に、その光景はいつもジェイの心にヒヤリとしたものを注いだ。大切な何か、それが何なのかはジェイ本人にも分からない、そんなものを奪っていくオレンジ色の光。それを目にしながら、しかしジェイは体を動かすことができない。そんな夢。ただただ無残に奪われていく宝物を眺めるのみ。
夢の終わり方もいつも同じだった。何か黒くて大きなものが浮かび上がってオレンジ色の光を遮り、その黒いものから甲高い奇妙な音が発せられ、その音に起こされる。今日も例に漏れなかった。
ジェイは畳2畳を縦長に並べたような部屋の中で起き上がり、壁にかけられた時計に目を向けた。指定された時間まで1時間以上はあるが、もう一度寝る気にはならない。身支度を整え、ジェイは部屋を出た。
手持無沙汰だと思えるのは久しかったが、だからといって特にやることもない。そんなジェイが足を運んだのは射撃場だった。一旦事務に寄り、愛用の拳銃とマガジンを受け取ってから向かう。
人の上半身を模した黒い板の上に白い線が書き込まれた的が5つほど、バラバラに設置されたホールのような大部屋。50m程の距離を開けて一つの的の前に立ち、ジェイは使い慣れたその銃をベルトの下から引き抜いた。
SIG SAUER P226
ジェイの昔からの相棒である。
右手だけでグリップを握り、目線の高さまで持ち上げ、右目の先に的の中心を捉える。ハンマーを起こして、そのまま引き金を引いた。乾いた破裂音とと共に、的の中心に穴が空く。続けざまに、ジェイはそのままの体勢で撃ち続ける。
弾が切れる頃には、的の中心を示す円がまるごとなくなっていた。
「お見事」
背中から声をかけられたジェイが、声の主の方に振り向く。
そこにいたのは一人の男だった。暗い青色のジャージを上下に纏っており、手入れされず伸びるがままに伸びた埃のような色の髪はボサボサで、簾のように男の顔に被さっている。無精髭に覆われた頬を歪ませ、男は微笑みを浮かべていた。
まるで浮浪者のような風体の男の、ただ一つの奇矯な点はジェイに向けるその眼睛に力強い光を感じさせることだった。その目は確かに、放浪者のもつ淀んだそれとは異なっていた。
「ただまあ、あまり関心はせん。弾だってタダじゃないんだ。今のお前に動かない的を撃つ訓練は必要ないだろう」
ジェイの顔に薄らと微笑が浮かんだ。
「落ち着くんだよ」
「銃を撃つことがか」
「弾が的に当たることが」
男は笑い出した。楽しそうに、ジェイの目を憚ることなく、声を上げて。
「お前らしいな。まあいい。今、時間あるのか?」
「ああ」
「ちょっと付き合え。全く、お前さんは引っ張りだこでなかなか会えないんだから、たまには老人の話し相手もしろ」
内心で苦笑してしまうジェイ。その言葉に、ジェイは微かな寂しさを感じてしまった。
(老人っていうほど歳もとっていないくせに)
目の前の男、ローレンツはかつて組織の誇る最高のシャドーだった。ジェイはこの男から生きる術を教わった。銃の扱いから、作戦行動に必要な技術から心構えまで。しかし、今は見る影もない。
「この後任務だよ」
「一杯くらい変わらないさ。いいから付き合え」
ローレンツの半ば強引な誘いに、ジェイが折れた。しょうがないと言って笑い、ローレンツの後を追っていつものバーに向かった。
「おばちゃん、いつもの、グラス二つ」
「おばちゃんじゃないよ」
開店もしていないバーに入り、ローレンツはバーのママをわざわざ起こして店を開かせた。ジェイは呆れ半分に笑っている他なかった。
「悪かった。まだまだ若いもんな。綺麗だよママ」
「全く、調子のいい……」
ママは当然非常に不機嫌そうだったが、ローレンツの言うとおりいつものウォッカを用意し始めた。大きな氷の入ったグラスを二つ用意し、赤いラベルの付いたガラス製のボトルから艶を感じさせる液体をドボドボと注ぐと、叩き付けるようにグラスを置いて、さっさと奥に行ってしまった。
そんなママの振る舞いが、ジェイには理解できなかった。嫌がりながらも、ローレンツを無視せずに酒を注ぐのだ。自分で注げと言ってもいいのに。もう少し歳をとったら解ける疑問なのかなと思ってあまり気にはしていないが。
「最近どうなんだ」
ローレンツは一口グラスを煽ってからおもむろに口を開いた。アルコールのツンとした匂いが辺りに漂う。
「最近って?」
訊かれていることは分かっていたが、ジェイはわざとはぐらかす。
「アルちゃんとだよ。上手くいってるのか」
「任務の話?」
「メンドクサイ奴だな」
ローレンツは一つ嘆息し、椅子の小さな背もたれに体重を預けた。もう一度ウォッカを口に含み、グラスをちびちびと舐めるジェイに向き直る。
「その調子だと、全然ダメみたいだな」
「…………」
ジェイは沈黙を選んだ。黙ってウォッカを舐め続ける。
「苦手なのか」
「知ってるくせに」
「早く慣れろ。慣れたらこれ以上美味いもんはないぞ。他の酒が全く飲めなくなる」
楽しげに語り、ローレンツは恭しくグラスを持ち上げてまた傾けた。
ウォッカをロックでグイグイ飲むのが至高だとはジェイには全く思えなかったが、いつものことなのでわざわざ口を開くことはなかった。
「そんなことより、俺はお前とアルちゃんが心配だぞ。全く、若いんだからもっとガツガツいけよ」
「……余計なお世話」
ジェイは呟くように、しかし有無を言わせない力を込めて言った。
ローレンツが言うのはアルとジェイの関係だ。かつて、ジェイはアルを本気で愛していた。何度も唇を重ね、躰を交えた。
「疲れちゃったんだよ」
自身を嘲るように微笑み、ジェイは言った。その目には後悔と、諦めが映っている。
「若輩のくせに何生意気言ってんだ」
ローレンツが叱るようにぴしゃりと言い放つ。そんなローレンツを半ば聞き流しながら、ジェイはもう遠くなってしまった日々に思いを馳せた。
毎日、アルを見るたびに動悸がした。彼女の仕草一つ一つに目を引かれ、その横顔に、肌理細やかな肌に、シャンプーの匂いに酔った。作戦中もアルのことばかり考え、ミーティング中もアルのことしか見ていなかった。そのくせ、アルに目を向けられると目を背けてしまうのだ。
アルに気持ちを訴えたとき、強引に唇を奪ったとき、押し倒して身を重ねたとき。常に新鮮なほど気持ちが昂った。それをアルは拒絶しなかった。
最初はそれに安らぎを覚えた。しかし次第にその気持ちは擦り減っていき、いつしか虚しさだけを残して消えてしまった。
アルは拒絶しなかった。そして、求めることもしなかった。アルはジェイの気持ちに応えることをしなかった。アルには感情がない。脳の感情を生み出す機関が手術で切除されている。その事実を、ただの知識以上のものとしてジェイが認識するまでに、そう時間は要さなかった。
「いいか、俺がお前くらいの時にはそりゃあ遊んだもんだ。色んな女と寝たさ。面白い女もやたらやらしい女もいた。初心な女もいたよ。股間を撫でられることすら初めてで、顔真っ赤にして俯きながら体を震わせて、あそこビショビショにしてたっけな。可愛い奴だったよ。しばらくしてたまたま再会したら見事に糞ビッチに成り下がってたけど。まあ、そんな風にフラフラしてるのも悪くはなかったが、そのうち俺は虚しくなっちまったよ。お前は経験が浅いから分からないかもしれんが、心に決めた一人だけの女を愛せるってのは幸せなことなんだ」
「はいはい」
「全然分かってない。分かってないなあ、お前は。人生の大先輩の言葉なんだから、しっかり聞かないと損だぞ。……今思えば、俺は愛情ってやつに飢えてたのかもしれないなあ。だからやたらおっぱいのでかい女ばっかりに目が行ってたのかもなあ。分かるか? おっぱいってのは愛の塊みたいなもんなんだよ」
「分かった分かった」
ローレンツはしばらく自分の抱いてきた女の話に夢中になった。いつものことだった。ローレンツはあまり酒に強い方ではなかった。少し酒が入っただけで酔い、下品な自慢話を永遠語った。ジェイは内心呆れかえり、毎度適当に相槌を打つだけだったが、物心ついたころから組織に身を置き、外の世界と接点の乏しかったジェイにとって、ローレンツの話はどれだけ下らない内容であっても、つまらなくはなかった。
「幸せにしてやれよ。あの娘を。お前以外にそれができるやつはいないんだから」
ポツリとローレンツが言った。ジェイはチラリとローレンツの表情を伺ったが、そこに込められているものが何か読み取ることはできなかった。
「分かったよ」
半分投げやりにそう返し、ジェイは時間だと言って席を立った。グラスの中身は半分以上残っている。
そうかと短く返し、ローレンツは自分で先程のウォッカのボトルを手に取って氷だけになった自分のグラスに注いだ。ジェイの方には振り返らない。
ジェイは、そのまま顔を合わせることなくローレンツと別れた。ちらりとローレンツの方を見たとき、ジェイにはその背中がえらく小さく見えた。
「来たわね」
ジェイが部屋に入ると、モニターの前の回転イスに腰掛けた女性が顔だけこちらを向いてそう言った。
モニタリングルームD
静止衛星からあらゆる地点を監視し、現地で任務を執行する駒に指示を出す者が配属される執務室の一つ。監視する対象には目標や付近の動きだけでなく、担当するシャドー自体も含まれる。
ノイネ ヴェルトに配属している駒、シャドーと呼ばれる特殊兵は常に少数のチームを作って任務にあたる。この部屋の主、フロレンツィア・クヴァンツの下には、アルとジェイの二人のシャドーが配属している。
6畳ほどの小さな部屋の奥に配置された広いデスクの上に、いくつものディスプレイが乱雑に置かれ、壁には大きなスクリーンがある。部屋の両脇には人間の胸像が所狭しと置かれていた。胸像といっても、石灰でできているわけではない。生の人間である。頭部と肺、心臓だけ残して腹から下と両腕が切り取られた人間の胸像。頭から突き出した金属の棒からコードが伸びており、他の胸像の頭や機械に繋がれている。この機関内では人間の脳がコンピュータとして使われていた。
デスクの上には、ディスプレイを退けたちょっとしたスペースにアルが上半身だけを横たわらせ、何やらフロレンツィアに頭をいじられている。
ジェイがフロレンツィアの背後からそっと覗くと、フローラはアルの耳に竹ひごのような細い棒を突き入れ、ゴソゴソ弄っていた。
「痛い?」
「いえ」
「あ……こっちのほうに……」
耳かきだ。随分前からだが、フロレンツィアはアルの耳かきにハマっている。アルが自分ではやらないからやってあげているというが、ジェイの目にはただの趣味にしか見えなかった。
ぼそぼそと何か呟きながら耳かき棒を動かすフロレンツィア。時たまピクリとアルの身が震える。
「フローラ、いつ終わる?」
「もうすぐ」
「はあ……」
ジェイの呆れたような声にてきとうに返したフロレンツィアが耳かきを続ける。ジェイは書類の積んである棚に寄りかかり、胸像から伸びるコードをいじって時間を潰し始めた。
「あ、結構大きい……」
「……」
アルは無言で、フロレンツィアになされるがままだ。
「う……千切れそ……」
「……」
「お、取れた取れた。ふふ……」
「……」
「うーん、もう見当たらないな……」
「……」
「んー……ない……」
「……」
「ふー」
「……」
フロレンツィアがアルの耳に息を吹きかけ、アルが身をピクピクと震わせると、やっとアルを解放した。アルは机から身を起こし、何事もなかったようにフロレンツィアの脇に立つ。ジェイはコードを弄りながら、顔だけをフロレンツィアに向けた。
回転イスを150°程回し、二人の前に体を向けるフロレンツィア。胸元をはだけたシャツに短いタイトスカート、網柄のガーターストッキングという挑発的な服装の上に白衣を羽織っている。足を組み、一つのキーボードを手に取って指を走らせると、正面のスクリーンに一人の男の画像が映った。白人の中年男性だ。画像の下に名前が書いてある。エラルド・ベルトイア。
「今回のターゲットよ」
フロレンツィアが短く言ってふっと笑う。
「アルテミス、ジェイの両名には世界の安全のためこの男を殺害してもらいます。どこで手術をしたんだか、既にMP処理を施されているのが明らかになってるわ」
短く溜息をつくフロレンツィア。記憶除去阻止技術、MPの流出はノイネ ヴェルトの大きな懸案の一つになっていた。
「最新の情報では居場所はここ、ジョージア州のアトランタ郊外。ただ、ここに留まる可能性は低いから場所はまた報告するわ。とりあえず、アメリカ東海岸の方に渡って頂戴」
自分の声を黙って聞く二人をちらりと見て、フロレンツィアが続ける。
「厄介なのは向こうの支部がミスをした結果ターゲットの警戒感が最高に高まっていること。こちらの手を知っているCIAの他にエラルドの持つ兵が護衛している。エラルドの周り半径3km圏内にいる人間は全て把握されるわ。おみごとね」
そこまで言って、フロレンツィアはデスク左手に置いてある紙コップを手に取って緑色の液体を喉に流し込んだ。静寂が部屋を覆う。コップから口を離し、再び口を開く。
「一番障害になるのがエラルドの私設軍隊よ。こちらの戦力はまだ完全には読み切れていない。気を付けて」
空になった紙コップをゴミ箱に投げ入れ、フロレンツィアは二人に笑いかけた。
「データはさっきデバイスに送っておいたわ。作戦は明後日。健闘を祈るわね」
「「了解」」
アルとジェイは短く答えた。