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Last Days  作者: おもち
10/17

9 想起 ―フォンドネス―

 ヴィレブロルトは日本国内の某所に設置した隠れ家で、一台のパソコンに向かっていた。

 作戦の開始は目前だ。世界中に散らばる協力者達との連携が不可欠だった。ヴィレブロルトはほとんど一人で、膨大な数の人間や組織との連絡を捌いていた。

「どう?」

 シンイチローがヴィレブロルトの居室に入ってきて尋ねた。左手に鞘に収められた太刀を握っている。右手はだらりと垂れさがり、肘まで捲り上げられたジャージの下では所々赤黒く変色した箇所が腫れたように膨らんでいて、見ているだけで痛々しい。

 歩き方も不自然だ。まるで左足を庇うように、引きずって歩いている。

「……今のところ問題ない。順調だ。……お前は、調子が悪そうだな」

 シンイチローは自嘲気味に微笑んだ。

「大丈夫。作戦までには治るさ」

 シンイチローの異常は、シンイチローの手にした並外れた身体能力の代償だった。 

 人間が本来許されている程度を遥かに凌ぐ力の放出に、シンイチローの肉体は耐えられるようにできてはいなかった。筋肉を酷使する度に、肉体は肉体を激しく損傷し、酷い内出血を起こした。再生能力も人並み以上に持ち合わせていたが、全く追いついていない。血抜きを繰り返しても、体の内部で溢れ続ける血は止め処がなかった。

 力を振るう度に、損壊は大きくなり、再生能力は衰退していく。

 シンイチローは自分の体を破壊しながら戦っていた。限界が来れば、体を全く動かせなくなるだろう。

「やっとだね。俺はこの瞬間を待ち侘びていた」

「…………」

 痛ましい姿で、それでも晴れ晴れとした笑顔を浮かべて話すシンイチローに、ヴィレブロルトは何も言えない。

「この命を、人のため、世のために使える。俺はそれが嬉しくて仕方ない。本当は、ノイネ ヴェルトに使われるままに擦り減らして消えるはずだったこの命を。人よりずっと短くて儚い命だろうけど、それを無駄にしなくていい。壊れ続けるこの体を、誰かの幸福のために使える。俺は幸せだ」

「そうか……」

 憐れむような目で見るヴィレブロルトに、シンイチローは満面の笑みを返す。

「ヴィルのおかげだよ」

 シンイチローが今のシンイチローでいられるのは、ヴィレブロルトのおかげだった。生きていることすら。

 ノイネ ヴェルトにいる当時、シンイチローには名前がなかった。ただ、UH-P001という標識が与えられていただけだった。それはシンイチローが人ではないことを示していた。人には名前が与えられる。実際、シンイチローの遺伝子はヒトのそれとは異なっていた。

 UH-P001は生まれた瞬間から兵器だった。肉体能力を極限まで高められた、殺戮のための兵器であった。当然、ノイネ ヴェルトは組織の命令通りに働くことをUH-P001に期待した。実際に、UH-P001は強靭な肉体を駆使して多くの成果をあげ、研究者達を喜ばせた。

 ただの実験体として、そして道具としてしか扱われなかったUH-P001は、壊れていく自分を見ながら、己の運命に絶望した。

 深い絶望の底にいたUH-P001は、束の間の自由を夢見た。逃げ出せばすぐに殺されることなど分かっていた。それでも、殺されるまでの時間は自分のものだ。自分には何もない。自分の体さえ思い通りにならない。勝手に崩壊していくだけだ。

 UH-P001は脱走した。自暴自棄だった。逃げながら、UH-P001は味わったことのない感覚に興奮した。自分は今、誰の命令にも従っていない。好きな方向へ走ることができるのだ。

 自分を追うノイネ ヴェルトに、そして自分自身の肉体に、UH-P001は体を深く傷つけられながら逃走し、やがて力尽きて倒れた。

 死の淵にいながら、UH-P001は満足だった。むしろ、死ねることが嬉しかった。自分は、死ね、などとは命令されていない。死ぬことは自分の決めた行動の結果だ。ほんのひと時の自由だったが、それで十分だった。

 薄れゆく意識の中で、UH-P001は誰かが近づいてくるのを感じた。やっと殺される。

 そう思ったが、その男は何故か自分を救った。それが、UH-P001とヴィレブロルトが初めて会った瞬間だった。

 安全な場所まで連れ去られるように運ばれた後、倒れたまま動けないUH-P001はヴィレブロルトに何か欲しいものはあるかと尋ねられた。

 水や、食糧といった答えを期待されていたのだろう。

 しかし、UH-P001が言った言葉は違った。UH-P001自身も驚いている。何故そんなことを言ったのか自分でも分からなかった。

 UH-P001は、名前が欲しいと言ったのだ。

 ヴィレブロルトはしばらく沈黙し、やがて口を開いた。

 分かった。お前の名は……

 その瞬間から、UH-P001はシンイチローになった。

 ヴィレブロルトは名前に加えて、生きる目的もシンイチローに与えた。ヴィレブロルトは、ノイネ ヴェルトを倒せと言ったのだ。ノイネ ヴェルトの存在は人々を不幸にする。だから倒さなくてはならない。

 それは、シンイチローにとって願ってもいないことだった。ただの実験体だった自分が、自分の目的、それも世界中の人々を幸せにする目的のために生きることができるのだから。

 シンイチローは、パソコンを睨んで作業を続けるヴィレブロルトを見つめた。

「ヴィルにとっても、待ちに待った瞬間だよね」

 シンイチローがヴィレブロルトに言う。ヴィレブロルトは自分のことを全くと言っていいほど話さなかったが、それでもシンイチローはヴィレブロルトの胸の中で昏く燃え続ける憎しみの炎を感じていた。その炎に焼かれて、ヴィレブロルトの心は既に死んでいた。心の骸を燃料に、炎はまだ燃え続けている。

「ああ」

 視線を動かすことなく、ヴィレブロルトは短く答えた。 



 ヴィレブロルトが生まれた時、すでに父親はいなかった。母に何故自分の父がいないのか、一度だけ尋ねたことがあったが、母は何も答えてくれなかった。しかし、ヴィレブロルトは父がいないことを不満に思ったことはなかった。その分、母が人一倍愛情を注いでくれていたからだ。 

 母は優しく、そして厳しかった。母はヴィレブロルトの母親役をこなしながら、父親役も担った。

 やんちゃ坊主だった幼いヴィレブロルトは、仲の良い仲間たちと徒党を組んで至る所でいたずらをした。隣に住む、よく犬を連れて散歩しているおじさんをからかったり、池のある私有地に忍び込んで釣りをしたりして遊んだ。喧嘩も何度もした。一度、警察の厄介になったこともあった。母はヴィレブロルトが問題を起こす度、ヴィレブロルトを連れて頭を下げて回り、帰ってから息子の頬を強く張って叱った。

 学校でも、ヴィレブロルトは札付きの問題児だった。頻繁に問題を起こし、その度に学校は仕事中のヴィレブロルトの母を呼びつけ、親子共々叱った。しかし母は、教師にヴィレブロルトを中傷されると、必ずヴィレブロルトの味方をして庇った。そんな母が、ヴィレブロルトは大好きだった。

 何か良いことをすると、母はヴィレブロルトの頭を優しく撫でた。ヴィレブロルトは母に撫でてもらうことが好きだった。学校のテスト前はそれなりに勉強をした。成績が良ければ、また撫でてもらえる。

 ヴィレブロルトを叱るとき、母はよくヴィレブロルトにこう言った。

 自分がされて嫌なことを人にしてはいけない。自分がされたいことを人にしてあげなさい。それは回り回って、必ず自分に返ってくる。嫌なことをすれば嫌なことをされ、親切にすれば困ったとき、きっとその親切は返ってくる。

 そんな母の苦労の甲斐あって、問題児ヴィレブロルトはひねくれずに、真っ直ぐに育っていった。10歳を迎える頃には、ヴィレブロルトはやんちゃではあったが街の小さい子供たちに好かれる、面倒見の良いお兄ちゃんに成長していた。

 ヴィレブロルトの母は料理が上手だった。母は昔、料理学校に通っていたのだった。休日にヴィレブロルトの家へ遊びに来た仲間たちは、母の出す料理を口々に美味しい美味しいと言って食べた。ヴィレブロルトが仲間を家へ誘うのは、そんな母を自慢したかったからでもあった。

 母の作るものの中で、ヴィレブロルトが一番好きだったのは手作りの葡萄ジュースだった。ジュースの入ったコップを倒してしまった日には、大泣きしてしまうほどだった。母の実家は大きな葡萄畑を所有する農家だった。毎年大量に送られてくる葡萄を使い、母は自分の飲むワインと一緒に葡萄ジュースも作った。小さい時、ヴィレブロルトは一度だけワインを飲ませてもらったことがあったが、苦くて、葡萄ジュースの方が絶対に美味しいと思った。そう母に伝えると、母はヴィルにもいつかこの美味しさが分かる日が来ると言って笑った。

 毎年、春になるとヴィレブロルトは母と一緒にチューリップ畑へピクニックに行った。風車の回る広大な丘一面に様々な色のチューリップが咲き誇っている。そんな風景がヴィレブロルトのお気に入りだった。

 夏には母と二人で地中海にバカンスに行き、秋には母の実家に帰って採れたての葡萄をお腹を壊すまで食べた。

 雪が降る季節になると、母は寒がりなヴィレブロルトを家から半ば強引に連れ出し、一緒になって遊んだ。ヴィレブロルトは雪がしんしんと舞う中、母と一緒に雪合戦をし、かまくらを作り、たまにスキーへも行った。

 そんな母の様子が変わりだしたのは、ヴィレブロルトの声変りが始まった頃だった。日に日に低く、男性らしい声で話すようになるヴィレブロルトを、母はどこか怯えたような目で見つめた。

 ヴィレブロルトは母に避けられている自分を感じ始めた。母が仕事から帰ってくる時間が遅くなり、休日もヴィレブロルトを家に残して自分の友人と遊ぶ日が増えた。

 ヴィレブロルトが成長するにつれて、母の異変はより顕著になっていった。

 自分の学校での成績が悪いのが原因だと、ヴィレブロルトは考えた。ヴィレブロルトは友達と過ごす時間を削り、家に籠って勉強をするようになった。それでも、母の様子が変わることはなかった。

 母の飲むワインの量が日に日に増えていった。酔いつぶれた母は、言葉にならない奇怪な声で何事か呻き、叫んだ。一度、ヴィレブロルトは母に何の理由もなくワインの瓶で殴られたことがあった。その事を母は憶えていなかったが、ヴィレブロルトは母が酒を飲みだすと、自分の部屋に閉じこもって母の呻き声が聞こえないように耳を塞ぐようになった。

 優しかった母は、いつの間にかどこかへ行ってしまった。

 ある日、高校から帰ったヴィレブロルトは、居間の床に注射器が落ちているのを見つけた。何故自分の家に注射器なんて落ちているのか分からない。その夜、日が変わってから帰ってきた母にヴィレブロルトは注射器のことを尋ねた。もしかしたら、母は病気なのかもしれない。

 注射器を見せられた母は、顔を蒼白にして、毟り取るようにヴィレブロルトの手から注射器を奪い取った。どうしたのか、と必死になって問うヴィレブロルトを無視して、母は自分の部屋へ向かう。

 いつもなら母に強硬な態度をとらないヴィレブロルトも、今回は必死だった。母は何か重い病に侵されているのではないか。いや、そうに違いない。だから母の様子がずっとおかしいのだ。

 母の変化の理由が知りたい。それ以上に、母が心配だ。

 ヴィレブロルトは部屋に逃げようとする母に必死に縋り、肩を掴んで振り向かせた。

 母は、叫び声をあげた。それは悲鳴に近かった。まるで悪漢に襲われでもしたかのように、母は絶叫してヴィレブロルトの手を振りほどき、部屋に駆け込んでドアを勢いよく閉め、鍵をかけた。それは明確な拒絶の意思表示だった。

 ヴィレブロルトは呆然となったまま、しばらく動けなかった。

 その日から、ヴィレブロルトは時たま家の中で注射器を見つけるようになったが、もう母にそのことを尋ねることはしなかった。母はどうしても話したくないのだ。どんな病かは分からないが、入院しなければならないほど酷い病気ではないのだろう。だから、きっと大丈夫だ。辛抱強く待っていれば、母の病気はきっと治る。そうしたら、母はまた昔のような優しい母に戻ってくれる。その時、何があったのか話してくれるに違いない。

 ヴィレブロルトは心の中で半ば強引にそう納得した。事態は良い方向に向かうと信じた。

 しばらく、注射器が見つかること以外に変わった出来事が起きることはなかった。

 事態が急変したのは、それから一ヶ月が過ぎようとする頃だった。もうすぐ春だというのに、猛烈に雪が降った日だった。

 隣に住んでいるおじさんが飼っていた犬が、惨殺されて見つかった。犬は何者かによって刃物で刺殺されたようだった。遺体は原型を留めないほど損壊していた。何度も何度も刃物で刺され、体中を抉られたのだ。辺り一面に飛び散った血や肉片、内臓が、降り積もる雪で隠されていく。

 おじさんは、ヴィレブロルトを犯人だと決めつけた。昔、散々悪戯をされたからだ。おじさんは怒り狂い、ヴィレブロルトに向かって殴りかかって、警官たちに羽交い絞めにされた。

 悪魔だ。お前は人の皮を被った悪魔だ。愛犬を返せ。殺してやる。地獄に落ちろ。

 おじさんは叫び続けた。

 捜索は続いたが、結局犯人は見つからなかった。ヴィレブロルトにはアリバイがあったが、おじさんは最後までヴィレブロルトを犯人だと決めつけたまま、引っ越してしまった。

 ヴィレブロルトは、犬を殺した犯人を知っていた。母だ。

 その日ヴィレブロルトが帰宅したとき、台所に肉片のこびりついた血まみれの包丁が置かれていたのだ。ヴィレブロルトはその包丁を警官に見つからないように隠し、捨てたのだった。母も疑われたが、ヴィレブロルトは上手く機転を利かせて母を庇った。

 もうヴィレブロルトには、母の隠している注射器の正体が分かっていた。きっとあれは麻薬だ。母は、薬物の依存症に陥っているのだ。

 そのことが分かっても、ヴィレブロルトにはどうしたらいいのか分からなかった。母はヴィレブロルトの言葉に耳を貸さない。警察に報告すれば、母は逮捕されるだろう。そうなったら、自分はどうやって生きていけばいいのだろうか。

 ヴィレブロルトの脳裏に浮かんでいたのは、ヴィレブロルトの持つ最も古い記憶だった。

 幼い頃、やっと立って歩くことができるようになった頃の記憶。小さいヴィレブロルトは家で昼寝をしていた。目を覚まし、母の姿を探すが見当たらない。その時の孤独感や恐怖は、ヴィレブロルトの脳に焼き付いて離れなかった。自分は母に見捨てられたのではないか。そしたら、自分は何もできない。ご飯も作れない。お腹をすかせて死んでいく自分を想像して、ヴィレブロルトは泣き続けた。母はすぐに帰ってきた。ただ、近所のスーパーで買い物をしていただけだった。それでも、母が帰るまでの時間はその頃のヴィレブロルトにとって、永遠とも思える長さだった。

 母のいない生活など考えられない。ヴィレブロルトは結局、母のことを隠し続けた。

 庭に咲いたチューリップが、枯れ始めた頃だった。チューリップに水をやるのはヴィレブロルトの仕事だった。学校から帰ってきたヴィレブロルトはまず庭のチューリップの様子を確認して、それから家へ入った。

 母が珍しくヴィレブロルトより先に帰宅していた。椅子に座ったまま、ぼうっと窓の外を眺めている。

 誰かが家へ入ってきたことに気が付き、母が振り返る。

 母を正面から見たヴィレブロルトは、少しギョッとしてしまった。母の表情が、まるで魂でも抜かれたかのように呆けた顔だったからだ。

 母は立ち上がり、台所へ向かった。すぐに帰ってくる。その手には、包丁が握られていた。

 突然奇声を上げ、母が包丁を振りかぶってヴィレブロルトに襲いかかった。ヴィレブロルトは間一髪で躱した。

 逃げようとするヴィレブロルトを、母が追った。包丁で切りつける。その腕をヴィレブロルトは必死で押さえた。揉みあいになり、ヴィレブロルトは母の持つ包丁を弾き飛ばした。

 包丁を失った母が、ヴィレブロルトの首を絞めた。ヴィレブロルトを押し倒し、馬乗りになってギリギリと絞めつける。その表情は夢中で、殺気に漲っていた。

 呼吸ができない。頭に血が回らなくなり、意識がぼやけていく。

 もがくヴィレブロルトは廊下に落ちていた何かを必死で掴み、母に叩き付けた。

 ヴィレブロルトが掴んだのは、母が先程落とした包丁だった。

 包丁の刃は母の喉を右から貫通した。

 神経が切断され、首を絞める母の手から力が抜ける。母の躯がヴィレブロルトの上にどさりと崩れ落ちた。首の傷口からどくどくと血が溢れ続ける。

 血はヴィレブロルトの顔を真っ赤に染め上げ、目を、鼻を、口を、覆った。

 温かな血液が、冷えて固まっていく。

 近所からの通報を受けた警察が到着するまで、ヴィレブロルトは母の血でできた水たまりに体を浸らせたまま。身じろぎ一つしなかった。


 母を亡くしてから、ヴィレブロルトはエリザの家へ養子として貰われた。活発だったヴィレブロルトはいなくなり、無口で、無愛想な顔を崩さない、陰鬱な青年となったヴィレブロルトの姿があった。

 エリザの家族はそんなヴィレブロルトにどう接していいのか分からず、ひたすら腫物を扱うように付き合った。

 ヴィレブロルトは母が死んだ後になって、何故自分に父がいなかったのか知った。父は母と同じように、薬物に手を出していたのだ。重度の依存症になった父は、ある日母に襲いかかった。殺されそうになった母は、必死の抵抗の末、思いもかけずに父を殺してしまったのだ。正当防衛が認められて母が罪に問われることはなかったが、襲われた恐怖と父を殺した罪悪感が母の心に遺り、苛んだ。

 声変りをしたヴィレブロルトの声が、母にとっては父のもののように聞こえたのだろう。そして、成長するにつれてヴィレブロルトの容姿は父に似ていった。

 母が父にそうしたように、母は息子の手で殺された。母は、父と同じ道を辿ったのだ。

 ヴィレブロルトの心は、既に潰れかけていた。かつてヴィレブロルトの胸には母から受けた愛情が詰まっていた。それをすべて失ったのだ。心を空虚が満たしていた。空っぽの心は何かの拍子で容易く崩壊してしまうだろう。

 そのまま生き続けていれば、ヴィレブロルトはきっと薬に手を付けていたに違いない。父と母がそうだったように。

 そんなヴィレブロルトを救ったのは、ヴィレブロルトの恋人だった。恋人の名はリリーといった。

 リリーと出会ったのは、ヴィレブロルトが大学生の時だった。二人は同じ飲食店でバイトをしていた。リリーもまた、家族を失っていた。といっても、父は生きていた。リリーの父は家族との無理心中をはかり、リリーを殺そうとしたのだった。結果的に、リリーの母は殺されたが、リリーは逃げ延びた。母がリリーを逃がしてくれたのだ。

 リリーは心に同じ傷を抱える者として、ヴィレブロルトの良き理解者となった。二人はある年のクリスマスに付き合いだし、すぐに燃えるような恋に落ちていった。

 二人は寄り添いあい、互いの傷痕を舐めるように癒しあった。リリーはヴィレブロルトに、ヴィレブロルトはリリーに救われた。

 リリーと過ごしていく中で、ヴィレブロルトは以前の明るさを徐々に取り戻していった。笑みを浮かべる回数が、リリーと会う度に増えていった。

 ヴィレブロルトの胸にぽっかりと空いた穴が少しずつ塞がっていき、それにつれてヴィレブロルトは、今まで心の奥底に仕舞い込んでいた母の死に向き合えるようになった。

 母が辛い思いをして、死んでしまうことになった原因は、麻薬だ。そして、それを売る麻薬組織なのだ。

 ヴィレブロルトは麻薬組織を取り締まるため、警官になろうと考えた。麻薬組織を叩き潰せば、二度と母のような被害者を生み出さずに済む。

 警官になるために必死で勉強し、ヴィレブロルトは大学卒業と同時に念願の警察に就職した。

 麻薬に限らず、あらゆる犯罪を厳しく取り締まろう。そして、救うことのできる全ての人を救うのだ。

 若きヴィレブロルトは理想に燃えていた。母の死は忘れたい悲しみの記憶から、生きていくための活力に変わった。

 就職と同時に、ヴィレブロルトはリリーと結婚した。リリーは仕事に打ち込むヴィレブロルトを支え、寄り添い、深く愛した。

 結婚してからすぐに、二人の間には娘が生まれた。二人は娘をレナと名付けた。

 ヴィレブロルトは生まれた子供を見て、感動のあまり泣いてしまった。自分が、親になったのだ。母を失った後、初めて流す涙だった。リリーは優しく微笑み、そんなヴィレブロルトを包み込むように抱いた。

 仕事に精を出しながら、ヴィレブロルトは出来る限りの時間を家族と過ごそうとした。母が昔自分にそうしてくれたように、ありったけの愛情を注いであげようと思ったのだ。そして、心に誓った。娘には、絶対に自分のような不幸な目にあわせない。

 レナはすくすくと成長した。幼い頃のヴィレブロルトのように、レナはやんちゃで活発な子に育った。時々信じられないようないたずらをしでかす。ヴィレブロルトは遠い昔の自分を見ているようで笑ってしまいそうだったが、心を鬼にして叱った。

 穏やかな日々が続いた。危ないことを平然とやってのける小さなレナに、時々ヒヤッとさせられたが、それ以外にヴィレブロルトの心にさざ波を立てるものはなかった。こんな日常が、いつまでも続くのだと思っていた。

 レナが生まれたから、三度目に迎えたクリスマスの日だった。

 ここしばらく、ヴィレブロルトは街に漂う不穏な空気を感じていた。最近、繁華街の裏で麻薬の売買が活発になっている。大きな組織がこの街に手を伸ばし始めたのだ。

 単なる麻薬の取引だけに留まらず、別の犯罪も増えていた。薬物依存症となった彼らは中毒症状から抜け出すため、身の丈を超える金を借りてでも新たな薬を手に入れようとした。麻薬商人や闇金融は彼らの弱い心に付け込んで借金を繰り返させ、膨らんだ負債を返すように強く脅し、圧迫した。多額の借金にまみれた人々は金を返すため、そして新しい薬を手に入れるため犯罪に走った。そんな人間たちが起こす強盗やひったくりが増え、殺人も起きていた。

 その日、ヴィレブロルトは勤務を終えた後、商店街でケーキを買って自宅へ向かっていた。雪で覆われた木々は色とりどりの電飾に飾られて、街全体が光り輝いているようだった。ある人は浮かれ騒ぎ、またある人は敬虔なキリスト教徒として教会で祈り、救世主の誕生を祝った。

 帰宅したヴィレブロルトは、家にリリーがいないことを不審に思った。レナが目尻りに涙を浮かべてヴィレブロルトを迎えた。聞けば、切れてしまった調味料を買いに行くと言って家を出たきり、いつまで経っても帰ってこないという。

 嫌な予感がヴィレブロルトの頭をよぎった。

 ヴィレブロルトはレナにいい子で待つようにと言い聞かせて家を飛び出し、リリーの姿を探した。

 リリーのよく行く店、そこまでの道のりを隈なく探したが妻の姿は見当たらない。

 ヴィレブロルトは警察に連絡し、自身も街中を探し回った。

 やがて、ヴィレブロルトは商店街の裏の細い路地に倒れている人影を見つけた。雪で半分埋まっていて、ヴィレブロルトが発見できたのは奇跡だった。

 倒れている女性の体を抱き起す。

 ヴィレブロルトは最初、その女性を知らない人間だと思った。顔を含め全身が痣だらけで、血の気の全くない肌は青白く、透けているようだ。

 死体は苦悶の表情のまま、氷像のように固く凍りついている。

 商店街で煌めく赤や黄色の電球の光が薄暗い路地に差し込み、ヴィレブロルトと氷より冷たい死体を照らした。

 ヴィレブロルトは死体の付けていた指輪を見て、初めてその女性がリリーだと気付いた。あまりに変色が激しく、生前の面影は全くと言っていいほどなかった。


 リリーを殺した犯人は程なくして見つかった。犯人は麻薬を売り捌くとあるマフィアの一員だった。その男は、借金を抱えたまま返さない薬物依存症の人々を追い、恐喝して金を巻き上げる役割を負った人物だった。

 男が追っていたのはリリーではなかった。リリーが殺されたのは勘違いからだった。

 リリーはリンチに遭い、体中を何度も何度も殴られ、蹴られ、雪の上で気絶し、そのまま凍死したのだった。

 ヴィレブロルトは運命の悪戯を感じた。男が追っていたのはヴィレブロルトの母だったのだ。男が誤ってリリーを襲ったのは母とリリーの顔がよく似ていたからだった。ヴィレブロルトは気が付いていなかったが、リリーの顔は若いときの母の顔そっくりだった。

 ヴィレブロルトは再びかけがえのないものを失った。心の傷を塞いでいた瘡蓋がはがれ、傷はより深く、大きくなり、もう修復は不可能だった。

 再びヴィレブロルトは寡黙になった。常に顔を強張らせ、その目は世の中を全てを憎むように鈍く光り続けた。

 それでもなお、ヴィレブロルトには己を支えるものが残っていた。

 レナだ。

 もう、レナだけがヴィレブロルトにとっての光だった。真っ暗な暗闇の中で歩むべき方向を示してくれる、たった一つの星光。

 ヴィレブロルトは考えた。麻薬組織は、この世界から根絶されなくてはならない。しかし、一国の警官にそんなことは不可能だ。

 どうしようもなくても、ヴィレブロルトは諦めきれなかった。諦めたら、いつかレナすら自分から奪われてしまう気がしたからだ。

 思い悩み続けるヴィレブロルトは、ある時それを可能にしてくれるかもしれない存在と出会った。フリッツ、そしてノイネ ヴェルトだ。

 ヴィレブロルトはノイネ ヴェルトに縋りついた。世界中の記憶を操る、強力な技術力を持つノイネ ヴェルトなら、この世界から麻薬組織を絶滅させることができるかもしれない。

 フリッツは、そんなヴィレブロルトをノイネ ヴェルトの初期メンバーの一人として迎えた。そして、約束した。もしヴィレブロルトが命を投げ捨てる覚悟でノイネ ヴェルトに尽くしてくれるなら、きっと麻薬組織を殲滅して見せよう。

 ヴィレブロルトは喜んでノイネ ヴェルトに人生を捧げた。厳しい訓練をこなしてシャドーとなり、ノイネ ヴェルトの敵を滅ぼしていった。

 命を投げ捨てる覚悟といっても、ヴィレブロルトは死ぬ気など毛頭なかった。レナをこれ以上悲しい目に遭わせたくなかったからだ。自分が死んでもノイネ ヴェルトは麻薬組織を粉砕できるだろうが、レナの父は自分しかいない。

 幸せにしてあげようと誓ったのに、ヴィレブロルトは娘の母親を死なせてしまった。ノイネ ヴェルトに所属して、ヴィレブロルトも娘に顔を見せられない日々が続いた。

 レナの世話はエリザの両親に任せていたが、淋しい思いさせてしまっているだろう。レナの元に帰るたび、レナは心から喜んで自分を迎えてくれた。そのことが、より一層ヴィレブロルトを後ろめたくさせた。

 今更になってヴィレブロルトは思った。理想なんてものより、自分は娘の方をもっと大切にすべきだったのだ。

 ヴィレブロルトはローレンツと共に最強のシャドーとなった。もう自分の理想を阻む障害はないとヴィレブロルトは思った。ヴィレブロルトにとって唯一不満だったのは、ノイネ ヴェルトが麻薬組織の撲滅より、その創設理念である世界からの戦争や紛争の除去を優先したことだけだった。それでも、ノイネ ヴェルトは自分の理想に力を貸してくれた。このまま続けば、本当に世界から麻薬組織がいなくなるとヴィレブロルトは確信を持った。

 その日の作戦は、かつてないほどの困難を極めた。敵は凄腕のハッカーだった。自分の管理者であるエリザから連絡が送られてくるが、それが本当にエリザから送られたものか分からない。

 デバイスに表示される敵の位置が刻々と変わる。その移動速度は、明らかに人間に可能な速さを超えていた。自分たちは敵に弄ばれているのだ。

 ローレンツと分かれて作戦に当たった。指示された敵の拠点に攻め込むが、掴まされたのは空っぽの倉庫。そんな無駄骨を何度も繰り返させられた。

 ふと、ヴィレブロルトはローレンツの居場所が気になった。デバイスで確認したヴィレブロルトは、自分の目を疑った。

 ローレンツのいる場所を示す点は、レナの住んでいる家と重なっていた。

 ありえない。これは敵の罠だ。自分は騙されているのだ。そう思いながらも、居ても立ってもいられなくなったヴィレブロルトは命令を無視して、レナの元へ向かった。

 ローレンツにはレナのことを少し話していたが、その顔写真も住んでいる場所も知らせたことはなかった。だから、ローレンツがレナの家にいる理由は敵に欺かれているということの他ない。

 それでも、ヴィレブロルトは長年の相棒であるローレンツを信頼していた。ローレンツなら万が一にでもレナを傷つけることはない。仮に敵に攻め込まれても、小さな少女であるレナを守ってくれるだろう。

 ヴィレブロルトが家に到着した。相変わらずローレンツの居場所は変わらない。もしかしたら、ローレンツの居場所すら偽の情報なのかもしれない。

 家の扉を開ける。ヴィレブロルトはすぐに異常に気付いた。血の臭いがする。ここはそんな臭いとは無縁のはずだ。

 廊下で、エリザの両親が事切れて倒れていた。自分もお世話になった相手だ。自分の苦しみを可能な限り理解してくれ、レナの世話を引き受けてくれた二人だった。

 家の壁は穴だらけだった。激しい銃撃戦がここで行われたのだろう。

 ヴィレブロルトは必死でレナの姿を探し回った。レナがいなくなったら、自分はもうどこへ向かえばいいのか分からない。何も見えない暗闇の中に取り残されて、今度こそ独りになってしまう。

 胸に広がる恐怖を必死で抑え、ヴィレブロルトは娘の名前を叫びながら家中を探し回った。レナはきっと隠れていて、自分の呼び声に応えてヴィレブロルトの胸に飛び込んできてくれると信じた。

 寝室で、レナは倒れていた。頭を撃ち抜かれ、天使のように可愛らしいその顔が血と頭蓋骨の中身で跡形もなくグシャグシャになっていた。

 傍で、右手に拳銃を握ったローレンツが、何の感情も読み取れない無表情のまま立ちつくしていた。

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