通るもの
私、氷川琴美の部屋は二階にあった。南向きの大きな窓は道路に面していて、ちょうど真向かいの家の門扉の上には夜間に人が通ると灯りが点く、いわゆる人感センサーライトというものがつけられている。
当時、私は受験生でその日も蒸し暑かったので窓を開けて網戸だけにして勉強していた。一段落付いたのでそろそろ寝ようと部屋の灯りを消し、ふと窓の外を覗いてみると前の家のライトがぱっと点いたのが見えた。そっと網戸を開けて目を凝らしてみたが誰も通ってはいない。犬や猫もいない。背中がすうっと冷たくなった気がして急いで窓を閉めた。時計を見ると二時十分。エアコンはあまり好きではないのだが窓を開ける気がしなくて、スイッチに手を伸ばし、ベッドに横になったがなかなか寝付けなかった。冷静になって考えてみると単にセンサーが壊れているだけだったんだろう。それなのに胸に沸いてくる漠然とした不安はなかなか消えはしなかった。
翌日、同じように窓を開けていて気が付くと三時だった。恐る恐る窓を覗くとライトは点いていない。なんとなくほっとして目を逸らそうとした瞬間、灯りが点いた。また何も通ってはいない……と思ったのが、今度は靄のようにうっすらとした影がすうっと通り過ぎたのが見えた。人の大きさではない。犬くらいの背の高さの、でも犬ではない何か。
それから毎日、私は窓を覗いた。時間には関係なく必ずライトは点灯し、通るものの影は日に日に濃くなっていく。そしてそのものの形が少しずつ見えてきた時、私は子供の頃に経験した奇妙な出来事を思い出した。
あの頃、近所に「犬おばさん」という女性がいるという噂があった。年の頃は三十くらい、長い髪はぼさぼさで前髪に隠れていつも目は見えず、黒っぽい服を着て楽しそうに「犬」を散歩させているのだという。だが、その「犬」はほとんどの人には見えない。見えなければそのまま通り過ぎてくれるけれど、もしも「見えて」しまったら身体を食われてしまうというもので、子供であった自分でさえ口裂け女のような単なる都市伝説だと思っていた。
小学三年生の時、その日は掃除当番で、いつもより遅い時間に学校を出た。黄昏時の通学路にはぽつぽつと街灯が点り始め、変な人に会ったら怖いなと思いながら少し早足で歩いていると仄暗い道の向こうから誰かが歩いてくるのが見えた。ハイヒールの軽い足音と共に聞こえてくるのはハアハアという犬の呼吸音。少しほっとした。犬の散歩をしているただの女の人だ。
だが、女性がだんだん近付いてくると、妙なことに気が付いた。伸ばした手の先にリードはなく、犬もいない。
「犬おばさん」だ! そう思ったとたん、足が竦んでしまい走ることも踵を返すことも出来なくなった。でも見えないんだからこのまま待っていれば大丈夫。そう思うと少し落ち着いた。
だが、おばさんは私の目の前で立ち止まった。生暖かい「犬」の息が太ももに纏わりついてくる。
「可愛いでしょう? 撫でてごらんなさい」
その声に抗えない圧力を感じて頭が混乱してしまい、こう答えることしか出来なかった。
「はい」
何もない足元に恐る恐る手を伸ばすと、ごわごわとした毛に触れた。そのまま震える手を動かしていくとこの「犬」には頭というものがないことに気が付いた。でも確かに呼吸はしている。やがて指がぬるりとした硬いものに触れた。先端が尖っている。歯だ。恐ろしく鋭くて大きな歯。
「口に手を入れて御覧なさい」
腕が勝手に口の中に入っていく。やがて指先は舌と思われるものに触れた。どろりとした唾液が指に絡まった瞬間、私は我に帰り、手を引っ込めて尻もちをついた。全身ががたがたと震え始めた。
「あら、よかったわね。この子、今日は機嫌がいいみたい」
おばさんは私の横に立つとじっと顔を見つめ、真っ赤な口にうっすらと笑みを浮かべた。
「ああ……」
やがて彼女は心の奥底から搾り出すような深い溜め息をつき、
「……また会いましょうね」
と呟くとこちらを振り返りもせずに去っていった。
どうやって家に帰ったのかも判らない。私はベッドに潜り込んで震えながら泣いていたそうだ。その後、母は私の話を黙って聞いてくれた。翌日、近くの神社に連れていかれ、お祓いをされた。
私は両親の実の子ではなく、赤ん坊の頃に養子になったらしい。でも両親は実子である兄や姉と同様に育ててくれた。霊感が強かったせいでそれまでたびたび怖い目にあっていたが、母も父もそんな私の体験談をむやみに否定したりはしなかった。
「犬おばさん」の件は学校では誰にも話したことがなかった。その当時、引っ込み思案だった私はそのことで注目を浴びるのが怖かったのだ。
それから数ヵ月後、同じ学校の男の子が学校帰りに行方不明になる事件が起きた。ニュースにもなって私達はしばらく集団登校を強要され、校内には彼は「犬おばさん」の「犬」に食われたんだという噂がしばらくの間、まことしやかに飛び交っていた。結局男の子の行方は判らないままだった。
記憶がはっきりと戻ってきた。もしかしたらあの影は……。そんなはずはない、だが私はこの夜以来、窓のシャッターを閉めて二度と開けることはなかった。夜の外出もめったにしなくなった。その影が本来の姿を見せるのが怖かったのだ。
その後、希望の大学に合格し、実家を出て一人暮らしを始めた。それでもセンサーライトのついている家の前は通りたくなかったので、帰りが夜になった時はずいぶん遠回りをしながらアパートまで歩いていた。それでも時々夢を見た。「犬おばさん」の夢だ。私はあの時のように「犬」の前に立っている。おばさんは何故か「犬」を指差していた。私を見ておばさんが何か喋っているのだが、いったい何を言ってるのかさっぱり判らない。そのうち彼女の姿がドロドロに溶けて消えてしまい、「犬」だけが残る。そういう時は全身にびっしょりと汗をかいて目を覚ます。
この話をサークルの飲み会の席でしてしまったのは酒の勢いだったのか。田中という少しマッチョな先輩と、友人の佐和子が面白がって、私を家まで送ってくれることになったのだ。
八月の半ば、駅を出ていつもとは違う道を歩く。時刻は二時を過ぎていたが昼間の熱気の名残りが肌に纏わりついてくる。この道は近道だがセンサーライトがいくつもあるので夜間は通ったことがなかった。ぱっと目の前のライトが点くたびにびくつく私を二人は興味深そうに眺めていた。
「ほら、あたしらに反応してるだけじゃない。大丈夫よ、琴美」
少し足をふらつかせながら佐和子が振り返った。
「佐和子の言うとおり。怖くなんかないって。っていうか、その『犬おばさん』が出てきてくれたら面白れえんだけどなあ」
「ちょっと止めてよ、先輩!」
田中先輩はにやにやしながら、きょろきょろと周りを見回している。
その時だ。二十メートルくらい先にある左側の家のセンサーライトがぱっと点いた。辺りには誰一人通っていない。
佐和子が悲鳴を上げた。田中先輩でさえ、びくりと身体を震わせた。
「ねえ、引き返そうよ」
私は二人にそう言ったのだが、まず田中先輩が、次に佐和子がゆっくりとライトに近付いていく。まるで引き寄せられていくように。
やがて、光の輪の中に真っ黒な「もの」がいるのが見えた。聞き覚えのある呼吸音がハアハアと響いている。
「なあんだ、ただの犬じゃねえか! 『犬おばさん』なんかいないし」
「ほんとだ、可愛いじゃない」
ちょっと待って。二人には「あれ」が犬に見えるの? 違う、違う違う違う、近付いちゃいけない!
なのに、喉の奥から声は出てこず、手は動かせず、私はただ自動人形のようにぎくしゃくと二人の後をついていくしかなかった。
田中先輩が「犬」の傍に座り込んで手を伸ばしたとたん、そいつの背中にある丸くて牙がびっしりと生えた口がぐにゃりと伸びて彼の身体を吸い込んだ。骨の折れ曲がる気味の悪い音が鈍く聞こえてきた。
悲鳴を上げることもなく、ありえない角度に折れ曲がった先輩の身体はおぞましい咀嚼音とともに「犬」の中に消えてしまった。
「可愛いじゃない!」
佐和子は田中先輩が食われるのをじっと見ながら穏やかに微笑んでいた。
「可愛いじゃない、可愛いじゃない」と呟きながら。
そしてまるで子猫を抱き上げるような様子で、「犬」の口に両手を突っ込んだ。がぶりと口が縮まり、彼女の身体が真っ赤に染まった不気味なオブジェに変わる。血まみれの顔にうっすらと笑みを浮かべたまま、ゆっくりゆっくりと飲みこまれていく。
「可愛いじゃない、可愛いじゃない、かわ」
やがて顎が砕ける音と共に壊れたレコードのように同じ言葉を繰り返す佐和子の声はぷつりと途絶えた。
「犬」がこっちを見ている。
目などついてないけれどそれは判った。
二人を飲み込んだ口から舌が伸びて、うねうねと動いている。まるで尻尾を振っているようだ。
逃げ出したいのに足の動きは止まらない。
私も食われてしまうのか。両目から涙が溢れ出してくる。悲しい、怖い、悲しい、怖い。それなのに私の右腕は「犬」に向かってのろのろと伸ばされていく。
掌に激痛が走った。
私は……今、あたしは「犬」の前に立っている。
楕円形の「犬」の首の辺りから直接鎖が生えていて、その鎖のもう一方の先端はあたしの掌に食い込んでいる。
不思議と恐怖は感じなかった。耳の奥に「彼女」の声が聞こえてくる。何故か懐かしいその響き。
そうだったのね。お前は、だからそんなにあたしに会いたかったのね。
じゃあ、行きましょうか。
なかなか「見える人」はいないけど、それまでは我慢してね。
今度はあたしがずっとお前を散歩させてあげるから。美味しそうな人間を見つけてあげるから。
お母さんの代わりに……ね?
<END>