西化学室
【村田英治の日記】
四月八日(月)
今日、始業式があった。
高校三年生になったものの、これといって何かが変わったという実感が湧かない。大学受験があるが、前からわかっていたことなので驚きもない。とりあえず、古典をもう少しどうにかしなければ。
今年度、俺は文芸部の部長を任された。部長といっても、そんな偉いものではない。文芸部の部員は二人で、三年は俺一人なのだから、俺がなるのは自然なことだ。二年の川田保が副部長についた。これも自然なことだ。
どうせこれといってすることはないだろうと思っていたら、早速仕事を命じられた。明日、新入生向けの部活動紹介が催されるのだという。その中で俺は、新入生に向かって文芸部について説明しなくてはいけないそうだ。
前日から力むほどの大舞台ではないだろうが、言うことぐらいはざっと決めておかなくてはいけない。
四月九日(火)
今日、部活動紹介があった。
高校一年生は、意外にも幼かった。俺もあんなだったのだろうか。あどけなさを色濃く残した彼らの前に立たされて、俺は文芸部について二言三言説明した。一応中身は考えていったのだが、俺は弁舌に長けているわけではなく、加えて文芸部に対するこだわりもなかったため、説明は淡々とした味気ないものになってしまい、一体こんな調子で誰が入ってくれるだろうかと思う。
帰り道、偶然顧問の東山にあった。今年も彼に古典を教わる。東山を見るのは久しぶりだったのだが、風に倒れそうな痩身といい、見ていると心配になるほどの色の白さといい、いつも通りだった。百八十はあろうかという上背を持て余すようにしながら、どうだい、部員は入りそうかい、と尋ねてきた。わかりません、と肩をすくめたら、東山は寂しそうに笑った。最も、彼がそれを本当に寂しいと思っていたかどうかはわからない。彼は大抵の場合寂しそうに笑う。
まあ、部員が入っても入らなくても、俺にはあまり関係のないことだ。
四月十二日(金)
今日、新入部員が来た。
数日前まで一体誰が入ってくれるだろうかと思っていたのに、こうもあっさりと来られると、何だかだまされている様な気分になる。
新入部員は女子生徒で、飾り気のない外見の人だった。部室の場所がわからなくて、随分探したそうだ。入ったばかりの学校で迷子になるのは俺も経験がある。ここまで来るのは大変だったろうと労うと、彼女は小さく頷いていた。
ちなみに、文芸部の部室は今年から西化学室に変わった。理由は知らない。西化学室は、特別教室が集まった校舎の、四階の隅っこの方にある。俺の教室からはかなり遠い。
ざっと説明だけして、今日は解散しようと提案したとき、彼女は俺に言った。
「そういえば、この部の顧問は誰なんですか?」
「東山先生。国語を教えているんだけど、知らない?」
「はい。一年生の担当はされてない先生だと思います」
「そう。じゃあ、帰りがけに寄って挨拶していくといいよ」
職員室の場所は伝えなかったが、昇降口のすぐそばにあるから、迷わなかっただろう。
そう、書き忘れるところだった。彼女の名前は、佐々木夏夜というそうだ。
五月十日(金)
今日、学校で川田保に会った。
川田は文芸部と陸上部を兼部している。当然陸上のほうが忙しいので、文芸部には滅多に顔を見せないが、気にはかけているようだ。先輩どうも、と運動部独特の頭の下げ方をした後、彼は俺に話しかけてきた。
「文芸のほうは、どうですか。部員、入りました?」
「うん、一人。佐々木夏夜っていう子」
「へえ、女子部員ですか。よかったじゃないですか。俺もそのうち行きますね」
「忙しくないようだったら、頼むよ」
「もちろんです。……で、先輩。その子、可愛いですか?」
川田が笑うと、俺はアリスに出てくるチェシャ猫を思い出す。日に焼けた顔からこぼれそうなくらいに、人を煽るような笑顔を作るのだ。俺は少し悩んだあと、
「真面目そうな、大人しい子だったよ」
と答えた。それを聞いた川田は、
「なあんだ。普通っすね」
と言っただけだった。
別に隠したつもりはないのだが、佐々木はなかなか美人だった。普通と言ってしまえば、周りの女子は大層肩身が狭いだろう。ただまあ、可愛いと言うには少し険の強さが目立つかもしれないが、なんというか……。
いや、やめておこう。後輩の女子の品評なんて、趣味が悪い。
そういえば。佐々木はここ数週間で大分文芸部に慣れたようだ。いつも大人しく本を読んでいるか、課題をやっつけている。活動は退屈だろうに、不満を言うこともない。俺とも、冗談めいた話をするようになった。
今日は一緒に本の話をした。彼女は泉鏡花が好きだそうだ。
五月十五日(水)
今日、珍しく部活に川田が来た。
陸上はどうしたのかと聞いたら、サボっちゃいましたと、例のチェシャ猫のような笑顔で言われた。仮にも運動部が、そんなことでいいのだろうか。
佐々木が川田と会うのは初めてで、二人とも自己紹介なんかをしていた。途中、川田がこっちに寄ってきて、
「先輩。何で嘘ついたんです。美人じゃないですか、あの子」
と不満そうに言った。俺は苦笑いでごまかした。それから、三人で文集の話をした。
「文集に載せる原稿っていつまでに書けばいいんですか?」
と尋ねる佐々木に、川田が先輩面をして答えていた。
「七月の初めくらいまでかな……ですよね、部長?」
文化祭は九月の頭。その頃には刷り始めていないといけないだろう。
「うん。そんなもんだね。佐々木は何を書くの?」
佐々木は、基本的に本なら何でも好きなようで、SFや、ミステリ、恋愛ものを読んでいることもあったし、この間なんかは何を思ったのか「大鏡」を読んでいた。授業で使うのだろうか。自分が書く話には、普段が読んでいる本が影響するものだが、あれだけ幅が広いとどうなるのか全くわからない。
「まだ考えていません。村田先輩は?」
「俺か?俺もまだ」
そこで川田が口を挟んできた。
「先輩はハードボイルドでしょ?俺、あれ好きですよ。」
「私も文集で読みました。面白かったです」
確かに、去年そんな話を書いたが、あまり思い出したい内容ではない。そもそも、半分以上おふざけで書いたのに。
「あれ、佐々木さん去年の文集読んだの?」
「はい。村田先輩に見せてもらいました。川田先輩のも読みましたよ」
「うわぁ、本当?やだなぁ、照れるなぁ」
川田が去年書いたのは、読んでいるほうが恥ずかしくなるような恋愛ものだった。見かけによらず、ああいうのが得意らしい。ちなみに、出来は良かった。
今年は、どうしようか。そうだな。スパイものなんて、いいかもしれない。
六月五日(水)
先週、中間テストが終わった。思っていたより大分疲れてしまった。テスト終了に伴って、部活動が解禁になり、それで今日は久しぶりに文芸部があった。
今日も川田が来た。また陸上をサボったのかと訊くと、川田はうんざりした顔をしながら、窓の外――どしゃぶりの雨に濡れているグラウンド――を指差した。もうすぐ大会なんですよ、と口を尖らせていたが、天気が悪いのは俺のせいじゃない。というか、この間ばっちり晴れた日にサボっておいて今さら何を言う。
下らない話をしていたところに、東山が部室に顔を出した。入ってくるなり、
「あれ、全員揃っているね。一体どうしたの」
などと言っていた。先生はどうしたんですか、と訊いたら、たまたまとても暇だったと言われた。
それから東山は、堂々とテストの採点を始めてしまった。採点していたのは俺のクラスだったらしくて、村田、この点数は一体何なんだい、とからかわれた。古典は頑張ったつもりだったのに。
帰り際、採点を終えた東山に呼び止められた。他の二人は先に帰っていた。
「村田、この間の活動のとき、ドアをちゃんと閉めたかな?」
前回の活動というと、五月十五日のことだ。珍しく川田が来たくらいで、特に変わったことは何もなかった。鍵はいつも通りちゃんと閉めた。
「はい。閉めました」
そう答えると、東山は軽く顔をしかめた。しばらくそのまま何か考え込んでいるようだったが、やがてため息をついて言った。
「実は、その日にね、この部屋のドアが開きっぱなしだったんだったそうだよ。僕、当番の先生に怒られちゃってね。……まあ、君が閉めたって言うんなら閉めたんだろう。……当番の先生には、僕から言っておくよ。じゃあ、今日もしっかり戸締り頼むね」
そして、どういうことか詳しく尋ねようとする前に追い出されてしまった。
鍵は確かに俺が閉めたのだ。そばで、川田も佐々木も見ていたはずだ。それがどうして開いていたのか。
俺にはわからない。考えるのは苦手だ。
六月六日(木)
今日、職員室に呼び出された。
昼休みのことだった。弁当を食っていたところ、担任に職員室に連れて行かれ、後藤先生の机の前に立たされた。
後藤先生は、今年赴任してきたばかりの女の教師で、化学を担当している。これでもかというほど化粧を施した顔に、哀れむような笑顔を浮かべていた。なぜ呼び出されたのかわからず、戸惑っていたところ、とんでもないことを言われた。
「村田君。文芸部は、一体どういう部室の使い方をしているのかな」
俺はぽかんと口を開けて、おそらく大分間抜けな顔をしていたと思う。
「……何の話ですか?」
「あのね。間違いでやってしまったのなら、先生に正直に話してくれればいいのよ。それを、どうして黙っていたりしたの」
全く会話が噛み合っていなかった。俺は多少の苛立ちを交えて、こう言った。
「あの、本当に何のことだかわからないんですけど。文芸部が何をしたっていうんです?」
後藤先生は、とたんに子供をあやすような表情を作った。しょうがない子ね、とでも言いたげな、妙に甘い口調で話を続けた。
「昨日、文芸部が西化学室を使った後ね、西化学室に置いてある備品がいくつか壊れていたの。ビーカーとか、フラスコとかね。……本当に覚えがないっていうの?」
あまりに急で、俺はしばらく口が利けなかった。ようやく、部室の物が壊れていて、それが文芸部のせいだと思われていることに気がついた。
「……普通に活動していただけです。備品にはまったく触っていませんし、壊してもいません」
すると、後藤先生はため息をついた。ちょうど、聞き分けの悪い子供に母親がするように。
「村田君。あなたがしらを切る理由が私にはわからないわ。あのね、あなたはああいうものが学校にあるのは当たり前のことだと思っているかもしれないけれどね、全部お金を払って買っているものなのよ。買いなおすのにも、お金がかかるの」
「そんなことは知ってます。どうして俺たちがやったことにされるのか、それがわかりません」
「別にね、先生も文芸部を疑いたくて疑っているわけじゃないのよ。ただね、あなたたち以外に考えられないの。六限に高一が授業で使ったときにはなんともなかったのに、それが、放課後あなたたちに使わせて、今朝になったらあんなことになっていて」
後藤先生は、ねずみを弄ぶ猫を彷彿とさせる笑顔で話を進めた。彼女が話すあいだ中、俺は腹が立って仕方がなかった。つい、そんなこと知るか、と叫びそうになったところに、後ろから声がかかった。東山だった。
「後藤先生。文芸部が何か」
「ああ、東山先生。ちょうど良かった。昨日の放課後、文芸部に西化学室を使わせましたか?」
「昨日というと、水曜日ですか。僕は見ていませんでしたけど、活動日ですから、いつも通り使っていたはずですよ。何かあったんですか」
「西化学室の備品が壊されていたんです。昨日の六限まではなんともなかったので、文芸部の人が何か知っているかと思って、村田君にお話を聞いているんですよ」
「そういうことでしたら、先に顧問の僕に言ってもらえませんか、後藤先生。村田も困っていますし」
東山が強い口調で話すのを、俺は初めて聞いた気がした。
「私もそうしたかったんですが、東山先生は普段部活に行かれていないでしょう?だったら、現場にいた生徒に直接聞いたほうが早いかと思いまして」
「現場ですか……。後藤先生、本当に文芸部の生徒が犯人だとおっしゃるんですか?」
「申し訳ありませんけど、状況が状況ですから」
「掃除中に担当の生徒が間違えて壊したということはないんですか?」
「ありません。確かに、昨日の放課後に壊れたんです」
「村田。昨日、鍵はちゃんと閉めたのかな」
急に水を向けられ、戸惑いながらも俺は答えた。
「はい。確かに閉めました。佐々木も一緒にいましたから、聞けばわかると思います」
「閉めたですって?」
後藤先生が、今にも立ち上がりそうな勢いで俺に食いかかってきた。
「閉めました。絶対に閉めました」
「私が今朝化学室に行ったときには、鍵は開いていましたよ」
「どういうことです?」
いぶかしげな顔で問いただしたのは、東山だった。
「じゃあ、今日、西化学室で物が壊れているのを発見した時点で、部屋の鍵は開いていたってことですか」
「開いていました」
東山の問いに、後藤先生が言下に答える。東山もそれにあわせて早口で続けた。
「それなら、何も文芸部の生徒じゃなくても、誰かがこっそり後から入って、壊したってこともありえませんか?」
「そうでしょうか?鍵を借りられる生徒は限られています。いえ、別に、文芸部のせいだ、と言っているわけじゃありませんよ。ただねえ、状況が状況なので……」
俺は二人の話を黙って聞いていた。もちろん、自分の無実を主張したい気持ちも、東山の援護にまわりたい気持ちもあったが、あのときの俺に一体何が出来ただろう。
俺には、何も出来なかった。
六月七日(金)
今日、文芸部があった。
佐々木に、昨日あったことを話した。彼女は驚いて目をみはっていたが、しばらくすると、水曜日の六限でこの教室を使ったのは自分のクラスだから、物が壊れていなかったのは間違いない、と言った。
「確かに、私たちが壊したと考えるのが自然でしょうけど……その、後藤先生って、嫌ですね」
俺はこのとき、思わずはっとした。いつも優しい喋り方をする佐々木が、低い声で、吐き捨てるような調子でそう呟いたので。それに気づいたらしく、恥ずかしそうに頭を下げて、
「すみません。先輩の方が嫌な思いしましたよね。急に呼び出されて、何もしていないのに責められるなんて」
何も謝ることじゃないと言ってやったが、彼女はなおも申し訳なさそうにしていた。
俺は考えるのは苦手だ。だが、今回のことを少し整理してみたいと思う。佐々木にそう言うと、彼女は、私も手伝いますと言ってくれた。
部室の机に向かい合って座った。佐々木が気を利かせて、ルーズリーフと筆箱を出して、メモをとった。
「まず……佐々木には言ってなかったけど、備品が壊れる前にも、変なことがあったんだ。五月十五日、水曜日。川田が来てた日だな。帰るとき、俺は鍵を閉めた。でもその後に、誰かがドアを開けた。東山が、当番の先生に怒られたらしい。その三週間後。テスト明けの六月五日に備品が壊れた。多分、俺たちが帰った後に。この日も、俺が鍵を閉めた」
真っ白なルーズリーフに、佐々木の綺麗な字が並んでいった。俺は佐々木の手が追い付くのを待ってから続けた。
「五月十五日のことは、今回のこととも関係があるのかもしれない。どっちにも共通していることは、閉めたはずのドアが開いていたということ。そして、閉まっているドアを開けるのには、鍵が必要だ。つまり、犯人、と呼んでいいならだけど。犯人は、西化学室の鍵を持っていたということになる。……ここまではいいかな」
佐々木は、手を止めて、俺に訪ねてきた。
「でも、それなら犯人は誰でもいいってことになりませんか。職員室から鍵を借りるだけなら、この学校の人ならみんな出来ます。例えば、授業で使ったときに忘れ物をしてしまったから、取りに行きたいとか言って」
俺は首を振った。
「佐々木は、入学してすぐだから、知らないんだろう。うちの学校では、特別教室の鍵を借りるときは、教師の許可が必要だ。許可をもらうためには、そのルーズリーフくらいの大きさの一覧表みたいなのがあって、そこに、借りた日時と、自分の学年、クラス、名前を、書かなきゃいけない。記録が残るんだ」
佐々木はシャーペンを握りしめたまま言った。
「つまり、鍵を借りた、証拠が残るんですね」
「だから、犯人が職員室から鍵を正当な方法で持ち出すことはほとんど出来ない。無断で持ち出すことや、名前や日時をごまかすことも無理だろう」
「だとしたら……犯人はどうやって鍵を?」
ルーズリーフに、大きく、「鍵」という文字が書かれた。佐々木は、「鍵」の文字の周りをぐるぐるとシャーペンで囲い始めた。
「まあ、いったんそこは置いておこう。一か所にこだわってもしょうがない」
佐々木は、そうですねと頷いた。俺は咳払いをして話し続けた。
「よし。仮に、犯人が鍵を借りることができたとしよう。部室のドアが開いていたのも、備品が壊れていたのも俺たちの活動日、具体的には水曜日の放課後のことだ。それはいいよな。じゃあ、俺たちが帰った後、こっそり侵入することは可能だろうか?」
佐々木のメモに視線を落としながら思った。そういえば、どちらの水曜日も、珍しく川田が来ていた日だったなと。佐々木は、俺の戸惑いには気づかず、こう答えた。
「多少無理はありますけど、できなくはないと思います。私たちは、いつも六時くらいに帰りますよね。学校は七時まで開いてます。私たちが帰るまで、校内のどこかに隠れていればいいんです。隠れる場所はどこでも構いませんね。そうすると……」
そうすると。結局問題になるのは、鍵はどうしたかということだけなのだ。
「なんだか、頭が痛くなってきたな」
俺は佐々木に笑いかけた。佐々木の顔が、夕日に染まって、赤くなっていた。彼女もまた、困ったように笑っていた。
しばらくして、俺はふと思いついて言った。
「そもそも、犯人は何のためにこんなことをするんだろうな」
「何のために?」
「だって、そうだろう。鍵を開けたり、文芸部に疑いが向くように物を壊したり、何がしたいのかさっぱりわからない。……もしかしたら、鍵がどうこより、何でこんなことをするのかってことのほうが、大切なんじゃないかもな」
備品が壊れるのは、学校や俺たちにとっては確かにとても迷惑なことだが、犯人にとっては、どうだろう。リスクを冒してまでするような利益が得られるのだろうか。佐々木も首をかしげて考えていたが、結局わからなかったようだった。
……とにかく。今は早く眠りたい。眠って、全てただの悪い夢だったのだと思いたい。
だけど、あの後藤先生の顔がちらついて、今はまだ眠れそうにない。
六月八日(土)
昨日、佐々木と話している間に思ったこと。
鍵が開いていた日、備品が壊れていた日。どちらも、川田が来ていた日に起きている。
川田は陸上部と兼部していて、当然陸上のほうが忙しい。それなのに、一度は陸上をサボってまで文芸部に来た。
これはおかしくはないだろうか。
六月九日(日)
今まで俺は、備品が壊されたのは俺たちが帰った後、水曜日の放課後のことだと思っていた。
でも考えてみれば、そのタイミングでなくても構わない。要するに、人目に付かなければいつでも良いのだ。
水曜日の放課後以外に備品を壊せるときがあるとしたら、それは木曜日の朝だ。それも、なるべく早いほうがいい。
早朝に、職員室から西化学室の鍵を持ち出す。生徒には難しい作業だ。
でも、例えば教師の誰かなら?
そうだとすれば、そんなに難しい話ではない。
六月十二日(水)
もう疲れた。
六月十三日(木)
もう疲れた。
一体誰だ?誰がなんのためにこんなことする?
……俺はどうしたらいい。
六月十四日(金)
少し動揺してしまった。きちんと書くことにしよう。
十二日、水曜日のことだ。職員室から鍵を借りて部室に向かう途中、廊下で偶然佐々木と会った。そして、二人で部室を開け、西化学室の惨状を目の当たりにした。ビーカーが砕け散り、試験管は何本も床に転がっていた。椅子は倒され、壁の掲示物はボロボロに。俺たちはすぐに東山を呼びに行き、そして部室の片づけをした。
今回の犯行はイレギュラーだ。今までは、俺たちが帰った後に部室が荒らされていたが、一昨日は、俺たちが部室を開ける前に、犯人はすでに犯行を終えていた。これで、文芸部の疑わしさはぐっと高くなったのではないだろうか。何せ、犯行時間が限られている。清掃終了から、俺たちが部室を開けた時間までどれくらいの間があるだろう。自作自演だと言われても仕方がないような気がする。
金曜日の部活では、顧問を含め全員が集まった。最初に口火を切ったのは東山だった。
「今日の職員会議で、僕たちのことが話し合われた。……正直、文芸部が一連のことをやっていないと言い切ることは難しい。後藤先生じゃないけど、 “状況が状況”だからね。それに、困ったことに、後藤先生は、どうも文芸部を廃部にしたいらしい」
「廃部?廃部ですか、先生?」
そう叫んだのは川田だった。陸上を抜けてきたらしく、ユニフォーム姿で、額には汗が浮かんでいた。
「でも、そうはならないと思う。廃部は重すぎる罰だと言ってくれる先生が多かったからね。でも、このまま同じようなことが続くようだと、どうなるかわからない。とにかく、ケリをつけなきゃいけない」
「ケリ、ですか」
俺は思わず呟いた。一体どんな方法があるだろうか。一番良い方法は、本当に今回の件をやった人、より分かりやすく言うなら真犯人を見つけ、先生の所に連れていくことだろう。
そうじゃなければ、俺たちが決してやっていないという確固たる証拠を挙げること。……だが、そのどれも上手くいくとは思えない。
「……だめかもしれませんね」
このとき、俺は生まれて初めて、自分には何も出来ないのだとしみじみ思った。
今までが大した人生じゃなかったとは言わない。ハプニングも、不愉快な事件に巻き込まれたこともあった。だけど、そのどれも、今回ほど俺に無力感を味あわせはしなかった。そんな思いが、俺に知らずその言葉を吐かせたのだろう。
俺は、一度は川田を疑った。そして、職員も――具体的には、後藤先生を――疑った。結果的には、そのどちらも正しくはなかった。この二人に、十二日水曜日の犯行は出来ない。彼らにはアリバイがあった。川田は、教室から陸上部の部室まで、ずっと友人と行動していて、後藤先生の姿は、職員室にいた何人もの職員が見ていた。……最も、これは後からわかったことだったが。
俺は大した考えもなく、何もやっていない人たちを疑い、心の中で蔑んだ。そこに何の意味があっただろう。俺が何もしなかった間に、物事はどんどん悪い方向へと進んで行って、取り返しがつきそうにない。俺は、それを黙って見ていただけ。
本当に、どこまで馬鹿なんだ。
もともと、俺は文芸部へのこだわりなんてない。軽い気持ちで入部して、流れで部長になっただけだ。この部活がどうなろうと知ったことじゃない。俺は、俺自身のことで精一杯だ。
そんなことを思っていたとき、激しい声がした。佐々木だった。
「どうしてそんなこと言うんですか」
「佐々木」
佐々木が、俺を見ていた。あの大きな黒い眼で。
「これからだって、まだ間に合います。だめだって、決めつけるには早すぎます。……先輩が諦めてしまったら、私たちはどうしたらいいんですか?」
佐々木はどんな気持ちで、俺にそう言ったのだろう。普段の彼女らしくもない強い口調に、川田も、東山も呆気にとられたような顔をしていた。そして多分、俺も。東山が俺に向かって言った。
「佐々木の言う通りだ。村田。君は部長だ。みんな君を頼ってる。僕もそうだ。君が諦めないと約束してくれないなら、僕はこの部の顧問を降りよう。いいね?」
……俺は、頷いた。
六月十六日(日)
俺は、文芸部にこだわりなんてない。どうなっても構わない。それは前にも書いた通りだ。
でも。もし、俺が頑張ろうと思うことで、東山や、川田や、そして、佐々木が、頑張ることができるのなら。
こだわるのも、大して悪いことではないのではないだろうか。
六月十八日(火)
今日、再び職員室に呼び出された。
呼び出したのは、またもや後藤先生だった。ただし、今回呼ばれたのは俺だけではなく、文芸部全員。東山も含め、後藤先生の机の前にずらりと並んでいる様は、少し異様だったかもしれない。
「東山先生、それに、文芸部の皆さん。今回の件なんですが、部活動担当の大島先生と話し合って、皆さんが今後どうするか決めましたから。お伝えしますね」
後藤先生は今日も化粧を塗りたくった顔で、作り笑いを浮かべていた。ただ、その笑顔が前回に比べると少しばかり悔しそうに見えたのは、俺の気のせいだろうか?
「後藤先生、繰り返すようなんですが、俺たちは何もやってないんですよ。俺が部長として、ちゃんとしてなかっただけです。怒るんなら、俺だけでいいでしょう?」
俺の言葉に、うるさそうに頷いて、後藤先生は答えた。
「ええ、そうですね。ですから、」
ここで後藤先生は盛大に溜息をついた。机に乗っていたプリントが吹き飛んだくらいだ。川田が懸命に笑いをこらえていた。
「……ですから。東山先生。これから、きちんと部活動に行かれるようにしてください」
そのとき、俺がどんな気持ちだったかは、上手く言えない。例えるなら、不意打ちで誕生日を祝われたような感じだろうか。
「え、東山先生……廃部じゃないんですか?」
東山に尋ねると、彼は飄々として頷いた。
「うん。そうだよ」
「活動停止とかでもないんですか?」
「そうだよ。これからは、僕がちゃんと見ていて、君らをきっちり監督する。鍵の開け閉めも僕がやろう。……ということで、先生たちの間で話がついたんだ。」
「つ、つまり?」
「命拾いしたってことだよ、村田」
東山はほほ笑んだ。いつもの寂しそうな笑い方ではなかった。なんというか、得意げな笑顔だった。
「で、でも、壊れた備品とか、そういうのはどうするんですか。まだ、解決してませんよね?」
その問いには、後藤先生が答えてくれた。
「実を言いますと、先日、西化学室の備品を壊したという生徒が名乗りを上げたんです。名前は伏せますが、一年生の男子生徒です。彼によれば、軽い気持ちでやってしまったのだけれど、知らない間に大事になって、自分以外の人にも迷惑がかかっていると知り、慌てて私のところに来たそうです。壊れた備品に関しては、彼が弁償し、さらに、毎週西化学室の掃除をすることになりました。もちろん、文芸部さんの都合に合わせて、活動日以外の日にするそうですよ。……ですから、皆さんは特に何もしなくて結構です」
俺は、それまで間抜け面をさらしていたが、ようやく元の表情に戻って言った。
「じゃあ、結局俺たちは?」
「いつもと変わらないよ。僕がいるくらいだ」
後ろのほうで、川田が、チェシャ猫のように笑った。
「へえ……。にぎやかになりますね」
やっぱり気のせいじゃない。後藤先生は、悔しそうな顔をしていた。
六月二十一日(金)
今日の放課後、文芸部で佐々木からこんな話を聞かされた。
犯人の一年生の男子生徒君は、西化学室の合鍵をつくることに成功し、放課後こっそりしのびこんでいたらしい。犯行は、俺たちの活動が終わった後。同じフロアのトイレに隠れておいて、俺たちが帰ったのを見計らって侵入していたとか。
最後の犯行は、よりスリルを味わうためにやったらしい。清掃が終わってから、俺たちが現れるまでには十五分の間があったそうだ。
「それから、動機ですけど。最初は、誰かに自分の存在を主張するつもりで。それがだんだん、人に見つからずに悪いことをするスリルを楽しむものに変わったらしいです」
佐々木は、そう話を締めくくった。
こうして、すべては終わった。東山の文芸部常駐には、大して意味がなくなってしまったが、後藤先生が、何でも良いから処分らしいものを下したがったらしい。
東山といえば。彼が部活に来るようになってから、文芸部は活気づいていった。彼自身、部活に来るのが好きになったらしく、俺たちよりも楽しんでいるように見えるくらいだ。今日も東山は、部室の片隅で佐々木と雑談していた。とても幸せそうに、俺には見えた。
だが、正確にいえば、まだすべてが終わったわけではない。
日記には書かなかったが、東山が俺だけにこっそり教えてくれた話がある。
西化学室では、備品が壊されただけではなく、薬品金庫から、薬品が盗まれたらしい。それも、かなり危険な毒薬だ。
「それ、本当ですか?」
その話を聞かされたとき、俺は思わず叫んでしまった。周りには俺と東山以外誰もいなかった。
「何なんです、その薬品って」
東山は、声を潜めて教えてくれた。
「硫酸だ。知ってるかい?」
知らないわけがない。俺は口をあんぐりとあけてしまった。学校の実験で硫酸を扱うときには、必ず手袋と変なゴーグルをかけさせられたものだ。そんな危険な薬品が、盗まれた?
「薬品金庫の鍵は、実は大して丈夫じゃないんだ。開けようと思えば簡単に開けられる。このことは他の部員には絶対に言わないように。村田にだけ、言ったんだからね。僕も、他の先生にばれたら怒られちゃうから」
わかりました、と頷いたが、思い出すだけでもぞっとする。その名乗り出た男子生徒は、きちんと硫酸を返してくれただろうか?
七月十七日(水)
体の震えが止まらない。背中を冷や汗がつたっていく。今日あったことは、本当にあったことなのだろうか?
最初から書こう。今日も、いつもどおり文芸部があった。
文芸部は今、文集の作成を進めている。全員小説を完成させ、今は製本の段階だ。川田は去年と同じく甘ったるいロマンスを、俺は予定通りスパイものを用意した。佐々木の小説は伝奇小説だった。それで「大鏡」を読んでいたのだろうか。
最近帰りが遅くなるので、俺は佐々木をバス停まで送っていくのが習慣になっている。佐々木が使っているバス停は学校から少し離れたところ、丁度俺の家まで帰る道の途中にある。今日も俺は自転車を押しながら、佐々木はその隣を歩きながら、二人で帰っていた。
いつもと同じ、何も変わらない放課後のように。
俺は、佐々木に礼を言った。俺が弱音を吐いたとき、佐々木が激励してくれなかったら、俺だけでなく、みんながやる気をなくしていただろう、と。彼女は照れ臭そうに笑っていた。
「あのときは、生意気言ってすみませんでした。でも、先輩が諦めちゃったら、だめだと思ったから……つい」
「ありがとう。佐々木も、入部したばかりの部活でこんな目に遭って大変だったろう」
「そんな。先輩ほどじゃありません」
「いや……とにかく、一段落ついて安心した。そういえば、あの一年の男子、まだ掃除しているんだろ?」
「はい。卒業までずっとするつもりみたいです」
俺は笑った。それは殊勝なことだと思って。笑って、気分の良くなった俺は、つい、佐々木にこんなことを言った。
「でも、そいつ、硫酸はちゃんと返したのか?まだ持ってたりしてな」
「持ってるかもしれませんね。硫酸は便利ですから」
俺は立ち止まった。
蒸し暑い夕暮れだった。実際、俺は汗が止まらなくて困っていたのだ。なのに、その瞬間汗がひいた。全身が冷たくなり、体の中の臓器が一気に氷水につかったような感覚に襲われた。
「先輩?」
佐々木が、俺を見ていた。あのときと同じように、あの大きな黒い眼で。
「いや、何でもないよ」
俺は笑った。上手く笑えていただろうか。ちょうどバス停に着いていた。俺は佐々木に別れを言い、彼女も俺に手を振った。いや、正確に言えば、彼女が手を振っていたかどうかはわからない。じゃあねといった瞬間、俺は彼女の顔も見ずに自転車で走り出していたから。
五月から六月にかけて、西化学室では奇妙な事件が起きた。閉めたはずの鍵が開き、備品がいくつも壊された。薬品金庫からは毒薬が盗まれた。硫酸が盗まれたのだ。そしてそれは、東山が俺だけに教えてくれたこと。他の生徒には伏せられている話だ。
なのに、なのになぜ、佐々木は硫酸が盗まれたことを知っていたのだろう。
東山は俺にしか話していないと言った。彼がそう言ったのだから本当にそうなのだろう。なのに、佐々木はなんということもなく、俺の問いかけに冗談で返した。本当なら、佐々木は俺の発言に驚かなくてはいけなかったのだ。硫酸を持ってるって、何の話ですか、どういうことですか、先輩?と言わなければいけなかったのだ。
なのに、彼女はそう言わなかった。
今は真夜中。俺は自分の部屋に一人きり。町は死んだように静まり返っている。虫の鳴く声だけが聞こえる、ただひたすらに暑い夏の夜だ。
それなのに、なぜだろう。俺は、さっきから体の震えが止まらない。
【佐々木夏夜の述懐】
女の子なら誰でも、秘密の場所を持っていると思う。友達とやりとりした手紙や、親に内緒で買ったお化粧品、好きな男の子からもらったプレゼントを閉まっておく場所だ。
私も、その秘密の場所を持っている。
最近、そこに新しい秘密が増えた。それは、手の平に収まるほどの小さな茶色い小瓶。瓶は液体で満たされている。私はまだその液体を使ったことはない。
西化学室で起きた一連の事件の犯人は私だ。鍵を開け、備品を壊し、硫酸を盗んだ。どれも、思っていたより簡単な作業だった。何せ、文芸部の部員は三人だけ。川田先輩はほとんど来ないので、実質、村田先輩と私の二人で活動していることになる。村田先輩が席をはずしたときに、西化学室の鍵の型を取った。合鍵は四月中に完成した。
実を言うと、最初は備品を壊すつもりはなかった。しかし、閉めたドアを開けておくだけでは、私が望んでいたような効果は得られなかった。そこで、やむを得ず備品を壊していった。後藤先生には大変申し訳ないことをしたけれど、あの学校の実験器具はどれも古びているように私には見えた。新品を買う良いきっかけになってくれれば良いなと思う。
備品が壊れ、ようやく事態が動き出した。後藤先生の疑いの目は、望み通り私たちに向いた。文芸部をより疑わしくするために、清掃と文芸部の活動の合間に西化学室を壊したこともあった。
村田先輩が弱音を吐いたときには、少し慌ててしまった。東山先生は村田先輩を信頼している。彼がやる気を失ってしまえば、東山先生も私たちのために動いてくれなくなる。それでは困るのだ。村田先輩を叱責することで、危機は免れた。文芸部は廃部にはならず、顧問の常駐という形でおさまった。
犯人役を引き受けてくれた男子生徒とは、偶然知り合った。彼は、個人的な用事で硫酸を手に入れたがっていたが、上手く行かず、困っていた。そこで私は彼に取引を持ちかけた。あなたが望むだけの硫酸をあげる。だから代わりに、私の罪を被ってちょうだい。説得には時間がかかったが、最後には彼も引き受けてくれた。
彼は、硫酸のことは上手くごまかしたらしい。私が硫酸を盗んだのは、一回目に備品を壊したときのことだった。薬品金庫の合鍵は作っていなかったけれど、あの程度の古い錠なら、細いピンがあれば何とでもなる。毒薬の管理がこんなことで良いのかと苦笑いしながら、私は硫酸を盗んだ。
そうして、私の望みは叶った。すべては思い通りになった。もう誰も西化学室と、文芸部で起きたことを気にしたりしない。幕は下りた。
……あのとき、村田先輩の前で失敗するまでは。
硫酸の件が生徒に伏せられることは予想していた。だが、東山先生がそれを村田先輩に話していたとは思いもよらなかった。思い出すだけでも、悔しさで顔がゆがむ。村田先輩は、私が犯人だと気づいてしまっただろう。どうにかして、彼の口を閉じなくてはいけない。彼に私が犯人だと広められるのはとても困る。もっと困るのは、私がこんなことをした動機を知られること。
西化学室で起きた事件。文芸部は責任を問われ、後藤先生は私たちに廃部を迫った。でも、それは重過ぎる罰。だから代わりに、顧問の常駐が決まったのだ。
そう、すべてはこのために。
東山先生が、私のそばにいるために。そのために、私はすべてを行った。
初めて文芸部に来た日。村田先輩は、帰りがけに職員室の東山先生のところによるように言った。私は軽い気持ちで足を運び、そして、東山先生の虜になった。
あの風に倒れそうな細い体も、あの哀しそうな笑顔も、あの優しい声も。何一つ、私の心を捉えて離さないものはなかった。この人と話したい。この人のそばにいたい。だけど、残念ながら東山先生は文芸部にはあまり来てくれない。私の学年の担当でもないから、授業などで関わることもない。無理やりに用事を作って訪ねることも出来ただろう。でも、それでは不自然だ。一度近づいたら彼を手に入れる自信があっただけに、私は焦った。他の女子生徒が動き出す前に、行動を起こさなくてはいけない。
だから私は、東山先生が私のそばにいなくてはいけない理由を作り出そうと決めた。
不安がなかったとは言わない。文芸部に下される罰が、顧問の常駐以外のものになってしまったら。文芸部が、本当に廃部になってしまったら。でも、それは杞憂に終わった。東山先生は、毎回かかさず文芸部に来る。そして、彼の視線の先にいるのは私だ。部活にいるときの彼が幸せそうなのは、決して、文集の作成が順調に進んでいるからではない。私はそれを知っている。
彼は私のもの。もう、誰にも渡さない。
ところで、硫酸の話にはちょっとした続きがある。男子生徒に手に入れた硫酸の瓶を渡すと、彼は自分が望んでいた量より多いと言った。今さら返すわけにもいかなかったので、彼は自分の分は小さな瓶に分けて、私にくれた。お互いに証拠を持つことで、「口封じ」したわけだ。だから今、私は硫酸を持っている。
……村田先輩が、私に、男子生徒は硫酸を返したのかと尋ねてきたとき、私は冗談で、きっと返していない、なぜなら、「硫酸は便利」だから、と言った。でも、それはあながち嘘でもない。硫酸は便利だ。
特に、邪魔な人間の口を閉じるのには。
了