桜の花咲く季節に
カレンダーを上から一枚切り離すと、もう季節が変わってしまった。挿絵は雪景色になり、窓の外の木々もいつの間にか葉を落として、ついに冬が来る。
「早く受験終わらないかなあ」
誰かが呟く声が聞こえる。受験が近くなるにつれて、そんな言葉が飛び交うことも増えた。けれど私はその言葉に共感すると同時にいつも少しの寂しさを感じる。受験はひとつの人生の転機だ。私も皆も、受験で変わってしまうのだ。それが私には寂しくて怖いものだった。私にとって、制服を着て学校へ行く毎日は当たり前に明日もやって来るはずのものだったのに。
「早く大学生になりたい」
変化を恐れる私は、まだまだ未熟なのだろうか。
帰り支度を終え昇降口へと向かう。冬になって陽が落ちるのが早くなったとはいえ、部活も委員会もなくなったことで帰る時間が早くなった私にはまだ空が十分明るいように見えた。
ふと校庭へと目を向ける。部活に励む生徒たちを、心の中だけでそっと応援した。校庭を横切るように歩くのが正門までの一番の近道だけれどそれはできないので、校庭をぐるりと囲むように造られた歩道をゆっくりと歩き出す。勉強をしなければならないと頭ではわかっているものの時間に追われる必要のない私の足はのんびりと動いていて、仕方なくそれに身を任せた。
一人で歩いていると目を向ける場所もない。あてもなく視線をさまよわせていると、前方からジャージを着て走ってくる人の姿が見えた。運動部はよくこの歩道を利用してランニングをしたりしているのでその姿は珍しいものでもないのだが、その人はたった一人で走っていた。着ているジャージも部活のものではなく学校指定のもの。一体何をしているのだろうと眺めていたら、見覚えのある人物だと気が付いた。
「阿久津くん……?」
同じクラスで出席番号が一番最初。人の名前を覚えるのは得意ではないが、やはり一番というのは印象が強いものなのか彼の苗字は記憶に残っていた。しかし話したことはない。それどころか、彼が私のことを知っているかどうかすら怪しい。案の定彼は私の呟きに訝しげに眉を顰めながら振り向いた。
「……誰?」
「あ、私、同じクラスの橋本っていいます……!」
何故名前を知っているのかとあらぬ誤解をされたくはなく、咄嗟にそう口にしていた。彼は一瞬きょとんとしたあと、仏頂面のままではあるが纏う空気を和らげた。私もそれを感じて幾分か落ち着くことができた。しかし再び走り出そうとしない彼に、私が呼び止めたのだと思われているのかもしれないと気付き、慌てて話題を振った。
「えっと……。なに、してたの?」
「ランニング」
「いや、それは見ればわかるけど……。部活、じゃないよね?」
彼は無言で頷く。そして小さく「部活は引退したから、自主練」と続けた。
「え、すごいね……。もしかして、スポーツ推薦とか?」
彼はまた無言で頷く。彼の所属していた部活は知らないけれど、髪型から察するに野球部だろう。そんなにすごい選手だったのなら偶然試合に鉢合わせたときにでも覗いておけば良かったと少し後悔した。
「なんか、良いね。大学に行っても、そうやって何かを変わらずに続けられるのって」
彼はよくわからないといった風に首を傾げる。けれど私はどこか安心していた。自分のように変化を好まない人間が存在していたことに。
「変わるのは、怖いよね」
それは確かに彼に同意を求めた言葉だった。誰にも理解してもらえなかったこの気持ちを、変化を好まない彼ならきっと理解してくれるだろうと思い込んでいた。しかし、彼は違った。
「……けど、変わらなければ何も成長できない」
その言葉は私の胸に深く突き刺さった。同時に、何故か怒りがこみ上げてきた。彼を取り巻く環境は春が来ても大きくは変化しない。今と変わらず野球を軸として回っていく。けれど私は何もかもが変わってしまう。成長などという喜ばしい変化とは無縁の変化を経験しなければならないのだ。
「成長だけが変化じゃない。私は、変わることなんて望めない」
「……そうか」
彼はそれ以上何も言わずにまた走り始めた。私には、訳もなく流れそうになる涙を堪えながら遠ざかる背中を見つめることしかできなかった。
悩んでいても時間は進む。机の上に広げたはいいものの、一向にはかどらない参考書を見つめて溜め息を吐く。私は何のために勉強するのか。受験のため、そして大学へ合格するためなのか。それはつまり、自分が望んではいない変化のために勉強しているのではないのか。しかしそれなら何故、私はあのとき泣きそうになったのだろうか。
また考え込んでしまいそうになるのを止めるため、気を紛らわそうと少し散歩することにした。すっかり暗くなった空を見て、自分も一年前はこのぐらいになるまで部活をしていたのだと思い出す。もう遠い昔のように思えるその事実が懐かしく感じるとともに、少しだけ寂しくなった。
風は冷たいが歩く速度は緩くする。もう少しだけこの寒さを感じていたい。そんなことを考えていたら足元にボールが転がってきた。拾い上げるとそれは野球ボールだとわかり、こちらへ走ってくる人影にも気付いた。まさかとは思ったが、その人物はついさっき私にきつい言葉を残していった彼だった。
「こんな時間まで練習?」
ボールを手渡しながら言うと彼は頷いた。何も言葉を返されなかったからか、自分の言い方が少し厳しいものになってしまったことに罪悪感を覚える。彼は何も悪いことなど言っていなかったのだから。
「……ごめん。少し、言い方悪かった」
「いや、いい」
彼との間に沈黙が流れる。ボールはもう戻ってきたのだから練習を再開すればいいのに、彼は何も言わずにそのまま立っていた。
「……あの、もう戻っても大丈夫だよ?」
「放っておけない」
「え?」
「あんた、泣きそうな顔してる」
その言葉に思わず息を呑んだ。私の不安も迷いも全て、見抜かれたような気がした。
「……そんなこと、ない」
「何がそんなに怖い」
「……だって、変わってしまったら、私には何も残らなくなっちゃう。全部、なくなっちゃう」
制服を着て学校へ行く日々も馬鹿みたいに騒げる友達も、消えてしまう。
「私はそうやって色々なものを失って成長してきた。そうやって変化を経験してきた。失わないものを持ってる阿久津くんにはきっとわからないよ」
「失うものも失わないものも、誰もが持ってる」
彼は相変わらず抑揚のない声で言う。けれど今はその声音が妙に頼もしく思えた。
「成長は避け切れない。けど、思い出は変わらない」
変化を望まずとも人は変わらなければならない。嫌でも年をとり成長していく。それに気付いていたからこそ、今を思い出にすることが悲しかった。
「わかってる……。だけど、それでも、寂しいものは寂しいよ」
「寂しい成長だけが変化か?」
「え?」
「“成長だけが変化じゃない”。そう言ったのはあんただ」
私はまた成長して楽しみを見つけることができるだろうか。不思議と今は恐怖を感じない。
「……そういう意味で言ったんじゃなかったんだけどな」
「そうなのか?」
「もう、それでいいよ」
真新しいスーツに身を包み、靴のせいで少しだけ高くなった目線に胸が躍る。制服をもう着ることができなくなるという事実にあのときはひたすら涙を流したけれど、このスーツもなかなかの着心地だとのんきに考えている自分に思わず笑いが零れてしまった。
季節は春。私はまたひとつ、変化を遂げる。
はじめまして。こちらのサイトでは初投稿になります、咲村雛乃と申します。
小説は以前から書いておりますがまだまだ未熟な部分もあるため、誤字脱字、日本語として誤っている部分等ありましたら教えていただきたいです。
こちらの小説は、自分の卒業記念として残しておきたく書き上げました。私と同じく卒業された方にも、それに当てはまらない方にも楽しんで頂けたら幸いです。読んで頂きありがとうございました。