七、真偽の果て
背後から突き出された鈍い槍の穂先を身を捻って躱す。
そしてそのまま、横に見えた槍の柄を引き掴むなり、蘭はくるりと身を翻し、背後で槍を握っていた兵がよろめいたその無防備な背に、手にしていた短刀を突き刺した。
不意の攻撃に何もできず、地面に沈む男を見向きもせず、更に走る。蘭の後ろには、更に幾人もの男達が、槍や長巻、太刀を手に蘭を追って走っているのが、見えた。
何故、追われているのだろう? 追いすがってきた男の一人を、先程と同じように身を躱してから地面に叩き込みながら、考える。だが幾ら考えても理由が分からない。蘭は正直途方に暮れていた。
既に、致命傷まではいかないが、幾つかの傷を身体に受けている。それでも走れるのは不死身の能力故なのだが、幾ら能力が有っても、こう次々と襲われては身が持たない。好い加減殺された方が楽になって良いのではないだろうか。蘭の脳裏にその思考が過った、次の瞬間。
「こっちへ」
道に植えられた木の上の方から、声が聞こえて来る。その声に誘われるまま、蘭は道を外れ、林の方へと足を踏み入れた。勿論、武器を持った男達も蘭を追って林に入って来る。
「草の方へ跳んで」
木も草も少ない開けた場所で、言われるままに飛び上がり、近くの木の枝を掴んでから指定された場所へ降りる。蘭の足が草を踏んだのと男達が悲鳴を上げたのが、ほぼ同時だった。振り向くと、先程まで地面が剝き出しだった場所に、ぽっかりと穴が空いている。意外と深い穴の中に、蘭を追ってきた男達が皆落ちて呻いていた。
「中々上手くいくもんだね」
蘭に指示した声と同じ声に、目だけで声の方を見る。地味な陣羽織を身に付けた、ほっそりとした総髪の男が、蘭の二、三歩先で笑っていた。
「でも、おそらく追っ手はまだまだ来るだろうね」
男の言葉に、頷く。昨日も、一昨日も、蘭は追われた。明日も、追われるだろう。
「こっちへおいで。休める場所がある」
男の言葉に、従うべきかどうか一瞬迷う。だが、「流れに乗れ」が巫女の命令だった。だから。蘭は今度は男の方を向き、男を仔細に眺めた。
若い、冷たい感じのする人だ。それが、男に対する第一印象。ほっそりとしているから、女性にも見えなくもない。陣羽織の下には当世風の軽い鎧を身に着けている。どこかの金持ち大名のぼんぼんなのだろう。蘭はそう、見当をつけた。
「俺の名は文里大学。仕えるべき主君を探して浪々の身さ」
蘭の観察する態度に警戒を感じ取ったのだろう。男はにこりと笑って名を告げた。
名乗られたのなら、名乗り返さなければ。
「狼蘭」
「ろう……? 異国の者か?」
男の問いに、蘭はこくんと頷いた。
「異国の話、聞きたい」
男の瞳が、急に輝く。害は、無いかもしれない。付いて行っても大丈夫だろう。……何かあっても、困るのは、後始末に奔走する大上屋の暦だけだ。蘭は一人こくんと頷くと、林の中を歩き始めた男の後を付いて行った。
林から山を一つ越え、夕方頃、小さな荒れ寺に辿り着く。
「誰も居ないようだ」
扉を無理矢理こじ開けた大学が、そう言って蘭を見る。
「今夜はここに泊まるか」
そっと、大学の後ろから荒れ寺を覗く。少し狭いが、床も壁も屋根もしっかりしていそうだ。だが、問題は。……部屋が一室しか無いこと。そのことが、大学が近くに生えている山菜で作った意外と美味しい夜食に舌鼓を打つときも、大学に問われるまま大陸のことを話すときも、蘭の脳裏を離れなかった。
蘭の能力は、蘭が処女を失うと同時に失効する。それが、蘭の能力の『限界』。大学のことは信用しているが、彼は男だ。蘭は子供ではない。男と同じ部屋に寝て、起こるかもしれないことについて、蘭は熟知していた。だから。いよいよ寝る段になると、蘭は人形の入った背負い箱と共に部屋の端に行き、箱を盾にして小さく横になった。
「おいおい」
呆れた声が、響く。だがこればかりは、仕方がない。今、『能力』を失うわけにはいかないのだから。
次の日。蘭と大学は早朝に荒れ寺を出た。
「眠ってないだろ」
山道で足下がふらつく蘭に、大学が笑う。理由が理由だから、仕方がない。蘭が黙ったまま歩いていると、大学が不意に声を荒げた。
「俺が人形を奪うと思っているのか? 奪うなら、昨夜のうちに奪っている」
大学の言葉に、はっとする。そう言えば、昨夜の自分は、人形のことなど考えてもいなかった。いつもなら、人形のことだけが、気に掛かるのに。ずっと、命を狙われ続けたからだろうか? 蘭の思考は、しかしそこで途切れた。
不意に、大学が蘭の腕を掴み、自分の方へと引き寄せる。あっと思う間もなく、大学の唇が蘭の唇に重なった。
だめ。力を振り絞って、もがく。だが、背中の木箱ごと、大学に全身を縛られるように抱き締められ、身動きすら取れない。このまま『能力』を失ってしまうのか……! 蘭は思わず目を閉じた。
だが。
「やっぱり、女の子なんだね」
その言葉と共に、蘭の身体が自由になる。蘭の目と鼻の先では、大学が悪戯をした後の子供のように笑っていた。
「俺も、女の子だよ」
そう言いながら大学は蘭の手を取り、自分の胸を蘭に触れさせた。確かに、泉水姫より小さいが、鎧の下に胸が……ある!
「軍略には自信があるけど、女の子だから誰も雇ってくれない」
だから各地を放浪している。自嘲に似た声で、大学はそう、蘭に告げた。
「でも」
大学の言葉に、反発を覚える。だから蘭は、強い口調で言った。
「女でも、戦っている人はいる」
自分と領土を守る為に戦った泉水姫、夫の横で出しゃばるように働いていた関所役人の妻、「戦を無くしたい」と願った九十九という名の少女。蘭がこの国で出会った女達は皆、運命に逆らうにしろ、運命を受け入れるにしろ、精一杯、生きていた。だから大学も、諦めないで欲しい。蘭は心からそう、願った。
「そう、だね」
蘭の言葉に、大学が頷く。
「分かった」
大学の頷きに、蘭はほっと息を吐いた。
だが。
草を蹴る足音に、はっと息を呑む。大学と話している間に、蘭を殺そうとする者達が来てしまったのだ。蘭は思わず唇を噛んだ。
「来たね」
一方、大学の方は、彼らが来ることを予想していたかのように平然と、腰の太刀を抜いて構えた。
「少し足場は悪いけど、狭いから敵も一人ずつしか来ない。俺の背中側に居ろ」
命令口調の大学に、こくんと頷き、蘭も腰の短刀を抜いた。
大学の言葉通り、山の急斜面を横切る狭い道なので、武器を構えた男達は大学の側と蘭の側、一人ずつしか攻撃して来ない。その攻撃を冷静に受け止め、下しながら、蘭は大学の前進に歩調を合わせて後退した。背中合わせで戦うのは、初めてだが、こんなに心持ちが楽になるとは。蘭は正直驚いていた。
と。不意に、横からの槍が蘭の脇腹を貫く。いつの間にか広い道に出ていたのだ。自分の迂闊さに呆れる前に、蘭は脇腹に刺さった槍の柄を掴むと、蘭に傷を付けてにやりと笑う男の額に短刀を刺した。
「蘭」
体勢を崩し尻餅をつきかけた蘭の右腕を、大学が掴む。
「大丈夫か?」
追っ手の人数が少なくなったから、油断していた。謝る大学に、蘭は首を横に振った。このくらいの傷なら、気力ですぐに治る。
だが。
体勢を崩した時に肩から外れたらしい、蘭の背にあった筈の木箱が地面に落ちる。落ちた木箱を、追っ手の一人が掴んだのが、確かに見えた。しかし次の瞬間、木箱を掴んだ男の手が、木箱から離れる。次に木箱を掴んだのは、男を一太刀で葬り去った大学だった。
大学が、蘭を見る。そして。
「貰っておくよ」
くるりと蘭に背を向けた大学に、蘭の動きは一瞬、止まった。
その蘭の目の前で、大学が体勢を崩す。轟音に気付いたのは、その少し後だった。
「大学!」
蘭自身も撃たれたが、一瞬で気力を取り戻す。
木の影にいた三人の鉄砲隊に、蘭は何も考えずに襲い掛かった。
全てが終わった時に、立っていたのは、蘭一人。
「大学!」
敵が居ないことを確認する暇も無く、蘭は荒く息を吐く大学を木陰へと引き摺っていった。そして何とか、撃たれた傷から流れる血を止めようと努力する。しかし大学の傷は、蘭には治せない所にまで達していた。
「何故、助けようとする? 俺は、あんたを裏切ったんだぞ」
苦しげに身を攀じる大学に、頭を横に振る。先に大学に助けて貰ったのは、蘭の方だ。その蘭の態度に、大学はふっと息を吐くと、微かな声で蘭が狙われている理由を告げた。
「新都の領主が、予言をするというあんたの人形に興味を持っている」
だから、たくさんの追っ手が蘭を狙っているのだ。大学はそう、蘭に告げた。大学自身も、あわよくば人形を奪い、新都の領主に捧げ、その対価として軍師の身分を望もうと企んでいた、と。
「それが、この様だから、自業自得さ」
大学の言葉に、蘭は再び頭を振った。
しかしながら。……人形が、予言をする? 何故そのような噂が立ったのかが、分からない。
「あんた、予言したんだろ、『都が火に包まれる』って」
戸惑う蘭に、大学は、かつて湊屋が蘭に告げたのと同じことを口にする。
おそらく、人形を舞わす時に蘭が口ずさむ唄の中に、何か予言めいた言葉が出て来るのだろう。混乱の中、蘭はようやくそれだけ理解した。
話すことを話してすっきりしたのか、大学はその後すぐ、息を引き取った。
その大学の、血の気の無い身体をそっと抱き上げ、蘭は微かに血の味がする冷たい唇に自分の唇を重ねた。