四、日溜まりの追憶
屋敷の中は冬だが、日の当たる縁側は既に春の気配を秘めていた。
「ふわわっ」
これで何度目の欠伸だろう。縁側に座って針を動かしながら、蘭は欠伸を噛み殺すように唇を閉じた。
海に面した商業の街である境の一角。衣と、海外の貴重品を扱う大上屋の屋敷の、広々とした中庭に面した縁側に座り、蘭は大上屋の主人暦に頼まれた縫い物をしていた。
寒いより温かい方が動き易くて良いのだが、温かいと眠くなってしまうのが玉に傷だ。縫い物を膝に置き、今度は大きく背伸びをする。そして蘭は、眠気を覚ますようにぐるりと辺りを見回した。締まり屋の暦にしては珍しく、大上屋の中庭には、蘭が分かるだけでも様々な種類の木が整然と植わっている。今は隅にある梅の木が、小さな花を誇らしげに咲かせていた。
「春だねぇ」
その梅の木を見ながら、もう一度欠伸を噛み殺す。
だが、蘭の意識はいつの間にか、夢の中へ入っていた。
「彼の国へ行け」
この命令を、『谷』の最高権力者の一人である『巫女』から聞いたのは、何時の事だっただろうか?
五百年以上の昔、自らの『能力』の故に故郷を追われ、大陸を放浪した末に、七人兄妹が狼に導かれて大陸の西端に見つけた小さな安住の地、『狼谷』。灰色の瞳を持つこの七人兄妹を先祖に持つ『谷』の一族は誰でも、必ず一つ以上の『能力』を持って生まれて来る、ある意味特殊な一族であった。
蘭の能力は『不死身』と『不老不死』。そして巫女の能力は『予言』。
だから、蘭への命令も『予言』の一つなのだろう。蘭は了承し、蘭自身の為に作成された、巫女を模した操り人形を背に、『狼谷』からこの島国へ、海を渡った。そして巫女の命じるまま、人形を舞わし、出会う人々を拒絶せず、『流れ』に身を任せつつの旅を続けている。
巫女を模した人形は、谷の細工師が作ったもの。手が小さく不器用な蘭でも直すことができるように、絡繰り部分は単純に、そして見た目は美しく作られている。人形を舞わす時に口ずさむ唄も、谷で即興唄の上手な人に教わった。
巫女の命令に「何故?」と返すことは、蘭には禁止されている。
蘭の『不死身』と『不老不死』の能力は、巫女と『谷』を守る為の能力。蘭が能力に目覚める前から、そう規定されていた。
だが。今回の命令に関しては、「何故?」を口にしたくなる。『予言』の能力を持つ者を、この国で見つける為だろうか? 『予言』の能力を持って生まれて来る者は、一族の中でも多くはない。五百年の間に世界中に散らばってしまった一族の中から探さなければ、『谷』を守る『巫女』がいなくなってしまう可能性は確かにあるし、五百年の間には実際、『巫女』がいないという危機に曝されたことも何度かある。だから、この推測が、一番妥当な理由だろう。蘭はそう、心に折り合いをつけていた。
「また、寝てますね」
皮肉に満ちた暦の声に、はっと目を覚ます。
縁側に寝転がった蘭の、頭のすぐ先に、暦の白い足袋があった。
「全く」
蘭の膝の上に放置された縫いかけの小袖を手に取り、暦が大仰に溜め息をつく。
「今年の花見の時に娘に着せようと思っているのに、これでは来年の花見の時に着せることになりそうですね」
それでも良いと思うけど。そう言いかけた言葉を、飲み込む。不老不死の蘭には約束されている『来年』は、暦や暦の娘には約束されていないかもしれないのだ。
だから。
「努力します」
縫いかけの小袖を蘭の膝元に返し、踵を返した暦の背中に、蘭はそっと、頭を下げた。