二、月夜想
目を開くと、ほんの目と鼻の先に天井らしい木目が見えた。
「ここ、は……」
戸惑いつつも動かした腕はすぐに、壁に打ち当たる。どうやら蘭は、人一人がやっと入るだけの狭い空間に寝かされているらしい。その理由は思い出せないが、とにかくここは狭苦しい。出られるのならさっさと出てしまいたい。そう思いつつ天井を押すと、天井は簡単に開いた。
驚きつつもゆっくりと、上半身を起こす。暗い空間に、微かに土の香が漂っている。遥か上の方に開けられている小さな格子戸からの月の光が、ガラクタに見える様々な物を微かに映し出していた。おそらく、母屋の周りに設えられた倉だろう。周りの様子から、蘭はそう見当をつけた。
その月の光の下、自分が先程まで横たわっていた場所を見て、思わずぎょっとなる。これは、……白木の『棺』、だ。
少しずつ、起こったことを思い出す。
それは、もうそろそろ宿を探した方が良さげな頃合いのこと。小銭を稼ぐ為に街道の辻で赤綾の着物を羽織った操り人形を舞わせた後の片付けをしていた蘭は、少しうらぶれた感じだがそれでも気品のある初老の、戦士らしい身のこなしをした男性から声を掛けられ、その男性の招待に応じる形で、街外れにある小さな屋敷に草鞋を脱いだ。だが。人形の入った木箱を背中から下ろすや否や、二人の屈強な若者に両腕を捕られる。思わぬ乱暴に必死で抵抗した蘭だったが、大柄な若者二人に身体を押さえられては小柄な蘭では対抗しようがない。あっという間に屋敷の中庭に引き出された。そこで待っていたのは、白刃を構えた、蘭を屋敷に招待した初老の男。
振り翳された刃に、身を捻る。腹から下は押さえつけられていなかったので避ける自信は有ったのだが、蘭の予想に反し、白刃は蘭の腹を縦一文字に切り裂いた。
駆け巡る痛みに、思わず叫ぶ。
「済まない」
だが。痛みに気を失う前に見た、血刀を下げた男の、悲しげに目を伏せた表情に、理不尽な行為に対する蘭の怒りは何故か静まった。
それに。男が、自身が殺した少女をきちんと葬ろうとしていることは、蘭が今座っている棺だけからでも想像できる。腹を割かれた後に息の根を止める為に刺されたらしく、喉の辺りも微かに疼くが、『不死身』の能力者である蘭の被害はそれだけ(?)で済んでいる。問題は、……謹厳に見えたあの初老の男が、何故、蘭の腹を割いたのだろうか? だが蘭は、そのことについてはすぐに考えるのを止めた。考えたところで、他人の気持ちは分からない。それよりも、人形のことが心配だ。この倉には、置かれていない。もう一度辺りを見回し、そのことを確かめる。と、すると、人形の入った背負い箱はまだ屋敷内に有るのだろう。蘭はするりと棺から脱出すると、隙間は有るが外から鍵が掛かっている引き戸を蹴り上げた。
錆び付いた鍵が壊れる音が、夜に響く。これから人形を取り戻す為に屋敷に侵入するというのに、自分は隠密行動に向いていない。内心苦笑しつつ、蘭はすぐ側に建つ屋敷の方を見た。幸い、先程蘭が立てた音は誰にも気付かれなかったらしく、屋敷の方から人が出て来る気配は無い。
倉の周りをぐるりと見回す。招待された時も、戦士の身分である筈の男の家にしては狭い玄関だと思ったのだが、こうして改めて見回すと、屋敷が狭く、小さいところで荒れていることがよく分かる。少しだけ見える中庭の端には取りきれていない雑草が伸び、塀ではなく柵で囲まれた屋敷の、柵自体も所々崩れている。
とりあえず、中庭の端の方から屋敷に忍び込むか。そう考えた蘭は、精一杯の忍び足で中庭に歩を進めた。
常に袴を着用している所為か、着せられている小袖の着流しの裾が足にまとわりついて歩き難いように感じる。小袖自体も、きつく着付けられている所為かどことなく身動きが取り難い。そんなことを考えながら歩いていた所為か、中庭を囲むように設えられた廊下に人が佇んでいることを、蘭は中庭に入り込むまで気付かなかった。
「あ」
一瞬だけ、息が止まる。隠れなければ。だが蘭は、その場に足を止めたまま動かなかった。正確には動けなかったというべきか。
月明かりに照らされた中庭を廊下から見詰めているのは、蘭の見た目年齢と同じくらいの、髪の長い少女。真っ直ぐな黒髪に縁取られたその横顔の、何処か憂いを秘めた表情に、蘭は思わず、見とれた。
と。
蘭の視線に気付いたのか、少女がふと、蘭の方に向く。見つかった。蘭がその場所から逃れる算段をするより早く、少女は不意に胸を押さえ、その場に踞るように頽れた。
その少女の身体が中庭に倒れる前に何とか、少女の身体を支える。軽い少女の身体を横抱きにしたまま、蘭は開いていた襖の向こうへ少女の身体を運び、その部屋に敷かれていた布団の上に少女の身体を横たえた。
そっと、少女の口許と胸に耳を近づける。……気を失っている、だけのようだ。蘭はほっと胸を撫で下ろした。
改めて、部屋の中を見回す。この部屋の前に佇んでいたのだから、この部屋はおそらく少女のものなのだろうと予想されるのだが、調度類は、何故か布団のみ。そのことを不思議に思うより先に、部屋の隅に見慣れた箱を見つけ、蘭ははっと息を吐くと同時にその箱の方へとにじり寄った。
そっと蓋を開け、中身を確かめる。……人形も、無事だ。
「その人形を探しに来たのね」
細いが、しっかりとした声が、蘭の耳を打つ。ゆっくりと振り向くと、布団の上に上半身を起こした少女が、端麗な顔を歪めて蘭を見ていた。
「ご、ごめんなさい、明日、人形を棺に入れるようにお父様に言うから……」
何度も肩を震わせながら、独り言のように少女が呟く。少女の話から、蘭は自分が腹を割かれた理由を理解した。
少女の父である初老の男が仕えているこの地方の殿様には、長いこと病床に臥せっている少女と同い年の娘姫がいる。「同い年の娘の生肝を食べれば姫の病気は治る」という噂を聞きつけた家老の一人が、前に殿様の勘気を被ってから田舎で逼塞している初老の男を再出仕を餌に焚きつけ、生活の為に仕官は必要だが娘を殺したくない男は、同い年に見える行きずりの少女である蘭を娘の代わりに殺して生肝を取り、殿様に差し出した。そういうことだったのだ。そして。形の上では死んだことになっている少女は、明日の早朝、長年仕える家仕の伝を頼って遠くの国に旅立つことになっている。
他人を殺してまで自分が生き延びることによる罪悪感。そして住み慣れた場所を離れることへの恐怖に似た感覚。この二つの理由で、少女は泣いているのだろう。蘭はそう、見当をつけた。
蘭には、共感能力が欠けている。だが、目の前で全身を震わせて泣いている少女を、蘭は可哀想に思った。蘭が目を離せばすぐにでもその命を絶ちそうに見える、儚げな少女を助けたい。蘭とは違い、普通の人間の命は、一つしか無いのだから。
だから。
少女の目の前に座り直し、おずおずと、その背中に腕を回して抱き締める。そして、震えが止まった少女の耳元で、蘭はこう、囁いた。
「貴方は、生きていて良い。生きているだけで良いの」