〇、序章
物音を立てぬよう注意しつつ、闇に目を凝らす。
僅かな月明かりの下、人気の無い廃屋の真ん中に、粗末な服に身を包んだ童子髪の青年が独り、木製の背負い箱を抱えるように眠っているのが、見えた。
彼奴、だ。怒りと共にそう、認識する。しかし焦りは失敗を生む。注意して、掛からねば。そう、自分の心に念を押すと、廃屋の四方の隅に居る筈の部下に微かな手振りで合図を送ると同時に自身も隠れていた梁から飛び降りた。
音を立てず、ぼろぼろの床に降り立つ。慎重に慎重を重ねねば。自戒を胸に、青年の方へ歩を進める。前回、昨日の黄昏時にこの青年を襲った時には、いきなり懐に飛び込まれて狼狽してしまったが故に、自分と部下五人でしっかり囲んでいたにも拘らずこの青年に逃げられてしまっている。その時のことを思い出す度に、憤りが吹き出す。戦場でも裏仕事でも遅れを取ったことの無い自分なのに、この青年はその自信を木っ端微塵に砕いた。許さない。だから。
腰の直刀を抜き、躊躇わず青年の無防備な背を刺す。だが、流石というべきか、青年は必殺の刃を身を逸らせる事で軽く躱すと、部下の一人が繰り出した刀の柄を掴むなりくるりと起き上がった。
狼狽顔の部下が一人、青年の拳に倒れる。だが。……これくらいは、織り込み済みだ。顎を引いて、部下に指示を出す。複数の部下が同時に後方へ飛ぶと同時に、青年の胸と背を、三本の矢が貫いた。
目を見開き、床に頽れる青年に、ほくそ笑む。青年の機敏さを考慮して射手を配置しておいたのは、正しかった。後は。
動かない青年の身体を一瞥し、青年の所有物である背負い箱に目を留める。跪き、箱正面の蓋を上に押し開けると、目的の物が見えた。
箱の中にあるのは、白い頬に真っ直ぐな黒髪を豊かに垂らした、赤綾の着物を羽織る傀儡人形。街道沿いで青年が操っているのをたまたま見かけた主君の姫君が欲しがったので、任務として奪おうとしている物。その人形が、無傷で微笑んでいる。任務の成功に、青年に対する怒りは消えかけて、いた。
だが。
首筋に当てられた冷たさに、はっと顔を上げる。驚愕する瞳に映ったのは、短刀を構えた青年の、闇のように冷たく光る灰色の瞳。
「箱から離れろ」
男性にしては高い声が、闇を震わせる。
目だけでそっと辺りを見まわすと、いつの間に倒したのだろうか、射手を含めた部下達が全て汚れた床に転がっているのが、見えた。
「箱から離れろ」
もう一度、鋭い声が響く。渋々箱から手を離すと、青年の、血に濡れた胸元が、何故かはっきりと見えた。その血の量から察せずとも、青年が致命傷を受けたことは、確かめた筈なのに。狼狽しつつ睨みつけると、はだけた胸元の僅かな膨らみが、月明かりに映った。
こいつ。思わず、声が出る。女だったのか。しかし思考はそこで途切れた。
最期に、瞳に映ったのは、箱から人形を取り出し抱き締めた青年がその人形の額に口づけする、静かだが何処か艶冶な姿、だった。