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終章『ただの狂人の話。』


 彼は優しく微笑んで、目の前にある黒い鱗の群れを撫ぜた。

 冷たくもなく、熱くもない。心地よい温もりを持つ、すべらかな鱗であった。


(綺麗だなぁ)


 心の中で呟いて、丁寧に撫で続ける。

 一つ一つの形をなぞり、感触を覚え込むかのように。


「綺麗、綺麗……」


 囁くように呟いて、眠りを貪るその大きな体へ身を預ける。寄り添うその巨躯は今、ただ静かに眠っていて。寝言もなく、寝返りもなく。まるで死んでいるかのよう。

 けれど心地よい体温が生きている事を教えてくれているので、死んでいるのかもなどと考えてしまう不要な恐怖を抱く事は無い。ただの安らぎがあった。


(おばあちゃんが、毎晩眠るのは、死ぬのに慣れるためって云ってたっけ)


 いつか来る、絶対に避けられないものを受け入れるために。人は毎夜、疑似的な死を迎えるのだと云う。

 眠りにつくと云う事は、現世から離れる事。現世から離れる事は、死に他ならない。

 いつか必ず来るものだから、ソレが来た時に無様に取り乱す事がないように、逃げたりしないように、ただ静かに受け入れるために毎夜人は死ぬのだと、祖母は慈愛に満ちた顔で語ってくれた。

 その慈しみ溢れた祖母の墓は、もう燃えてしまっただろうか。


(燃えちゃったね。あの炎の勢いなら)


 毎朝毎朝参りに行った大事な祖母の墓。自分が老いる前には妻を娶り、子を成して、その子供へ受け継がせるつもりだった先祖らの墓。それらはみな、焔の海に焼かれて消えたに違いない。

 けれど不思議な事に、悲しみも憎しみも湧かない。怒りもない。かと云って喜んでいる事もない。ただ彼は“受け入れていた”。諦めとは違う。仕方ないと思っている訳でもない。どう云う訳か恐ろしい程に凪いだ心で、彼はその事実を受け入れていたのだ。


(みんな、燃えちゃったよねぇ……)


 黒い鱗へ頬ずりをする。火傷を負った頬が擦れてさらに痛むが、そんな事がどうでもよくなるくらいの喜びと幸福があった。



 ――美しいと思った。

 絶対的な絶望を与えて来るその存在を。

 ひたすらに、美しいと。


 花が咲き誇る森の奥の園よりも、山間から見た輝く朝日よりも、木の上から眺めた満点の星空よりも、行商人にこっそり見せてもらった数多の宝石よりも、幼い頃から側に居た麗しのひとよりも、何よりも、美しくて。


 己を取り巻く全ての中で、最も美しく見えたから、恋をした。

 それだけだった。


 燃え落ちる村も、焼けて行く人々も、その恋の前では何の意味もなく。ただただ湧き上がる恋情に幸福を感じて。美しいものに出会えた喜びを噛み締めて。

 そうして、死んで行くのだと思っていたのだけれど。



(……どうして助けてくれたんだろう)


 美しい姿を目に焼き付けて意識を失って、それが最期だとばかり思っていたのだが。目を覚ませば周りに炎は無く、側には眠る絶望の化身があるばかり。

 腹の周りに鋭い刃を当てたような傷が幾筋かあったので、恐らく、爪がついた手か口にくわえられるかして運ばれたと思うのだが。どうしてそんな事をしてくれたのか、訳がわからない。


 殺すのは簡単なはずだ。爪であれ牙であれ、力をこめられればぐちゃりと潰れるくらい彼は弱い。それよりも、あのまま放っておけばみんなと同じく焼かれて死んだのだ。

 なのに生かされている。どうしてだろうか。


(餌、じゃないよね。私一人でこの体を賄えるとは思えないし、私より栄養になりそうな馬や牛に見向きもしてなかった。気まぐれ、かなぁ。同情、とか? ……意味ないよね、そんな事しても)


 手は鱗へ当てたまま、身を起こす。ふと振り返ると、遠くの山の間に赤い光が見えた。

 朝日や夕陽ではない。光りが淡すぎる。そもそも方角が違う。

 あれはきっと、村が燃えている光りだ。彼が生まれた時から住み続け、死ぬまで居るはずだった優しい村が燃えてる色――


「……――ふふっ」


 それが分かるのに、心は凪いでいる。もう一度見れば涙一つ浮かび上がるかと思っていたのだが、そんな事はなかった。村が燃えていると分かるのに、それだけだ。理解はしている。飲み込んでいる。わかっている。けれどそれでも、心は揺るがない。


「狂ってしまったかなぁ」


 そうなのだろう。多分、そうなのだ。

 生まれ育った村が燃えて哀しみも怒りも湧かないなら、狂ったに違いないと云う事だ。常人なら、泣いて喚いて目の前の存在を憎まなくてはおかしいではないか。

 狂ったのだ。彼は。美しい存在への恋で狂ってしまった。

 そうしてその恋狂いを疎まぬ自分が居る事を彼は知ってしまったので、笑い出した。

 穏やかに、柔らかく、“狂喜の色など欠片もない声音で”、彼は笑った。


「あはは、はは、あははははは」


 酷く楽しげで、軽やかな笑い声だった。誰かが聞けば、「あぁ彼は嬉しい事があったのだな。良かったなぁ」と穏やかに思ってしまうだろう、そんな笑い声で。

 彼はまた優しく微笑むと、愛しい存在へと身を預けた。


「早く起きて。話したい事がいっぱいあるんだ。君の話もたくさん聞きたいよ。まずは自己紹介しなくちゃね。私の名前を知って、君の名前も知りたいな。それから私と恋をしようよ。私はもう君に恋をしてるから、君に私も恋して貰いたいな。何もないけど、君への愛は誰にも負けないから、ずっと一緒に居ようよ。恋しあって愛しあって、ずっとずっと、一緒に生きて行こう。私は君との“永遠が欲しい”よ」


 彼が恋した美しいものは。

 見上げる程の巨躯を黒き鋼の鱗で包み、黄金の瞳を煌めかせる凶悪なドラゴンであったけれど。

 人が聞けば、気狂いよ、病心よと蔑んだだろうけれど。

 恋した彼にはそんな事一切関係なく、ただ喜びに包まれて、愛しい竜が目覚めた後の幸福へ思考を巡らせて笑うのだった。

 一つも狂ってない心で、笑うのだった。


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