第8話 不信感
翌朝、8時5分。
早朝から春樹のマンションに押し掛けていた隆也は、小さなローテーブルの上に広げた数学の問題集を、
春樹と二人で覗き込んでいた。
隆也の頭に、わざと自分の頭をコツンと軽くぶつけ、春樹が笑う。
「解き方、分かった? それとも僕の説明じゃ、分かりにくかった?」
隆也はゆっくり首を曲げて横に座る春樹の顔を見つめ、そして出来る限りの渋面を作った。
「悔しいよ、俺は」
「なにが」
「この半年予備校で必死こいて勉強したのにさ、その俺が解けない関数をさ、テキスト一つ開いてない春樹があっさりと解いちまうんだ。これがショックじゃなくて何なんだよ」
憮然として言う隆也を、春樹は始めポカンと見つめていたが、次第に可笑しそうに笑い出した。
「早朝から数学教えろって押し掛けられて、教えてやったら拗ねられる僕の身にもなってくれよ」
「そりゃあそうだけどさ。俺は何かもう、自分が枯れ葉になった気分だよ」
「なんだよそれ。大丈夫だって。数学はたまたま得意だっただけで、文系は苦手だし」
「俺はもっと苦手だよ」
隆也の言葉に春樹は肯定も否定もせず、ただ可笑しそうに笑っている。
凹んだことに嘘は無かったが、隆也はまるで高校時代に戻ったようなこんな時間に満足し、そして春樹の笑顔に満足した。
そう言えばあの頃は、毎日こんなふうに馬鹿らしいことを言いながら教室でふざけ合っていた気がする。
隆也はふと、ローチェストの上の、今は亡き春樹の家族3人の写真に目をやった。
色白で笑顔の美しいお母さん。怒ると怖いんだと、春樹がよく言っていたお父さん。
頭脳明晰で優しくて、春樹の自慢だったお兄さん。
春樹がこうやって笑っていることを、彼らはちゃんと見ていてくれるだろうか、と。
横で春樹がチラリと壁の時計に目をやる。
そろそろ出勤時間なのだろう。
「あ、そういえばさ春樹、昨日の男の人ってやっぱりセールスマンだった?」
隆也は自分もそろそろ引き揚げようと立ち上がりながら、何気なく訊いてみた。
「いや、兄貴の大学時代の知り合いだった。今まで海外に居たんで事故のこと知らなくって、どうしても手を合わせたいからって、わざわざ来てくれたんだ」
「へえ・・・。そう」
「やばい、もうこんな時間だ。下まで一緒に行こう、隆也」
「おう」
何かが頭の隅に引っかかったままだったが、隆也は髪を整えてカバンを抱え、春樹と一緒に外に飛び出した。
「朝から押し掛けてごめんな。また勉強、頼むよ」
「もう枯れ葉にならないって約束するならね」
春樹は屈託なくそう言って片手を上げてみせると、時間を気にするように、足早に駅の方向に歩いて行った。
これから隆也が向かう模試会場はその駅と反対方向になる。けれど隆也は何となく春樹の後ろ姿を見つめていた。
さっき感じた疑問が、ほわりと再び浮かび上がってきたのだ。
『兄貴の大学の知り合いなんだって』
その言葉が少しばかり引っかかっていた。
圭一を良く知ってる者が、隆也を見て弟と思うだろうか。
圭一と春樹は、色白な所もスラリとした体の線も良く似ている。けれど隆也ときたら、色黒な肌も、こぢんまりとした昭和風の地味な顔立ちも、どこをどう取っても圭一には似ていない。
その隆也を見て、あの訪問者は『天野春樹さんですか?』と訊いてきたのだ。
そんな事を今さら詮索しても仕方ないとは思いつつも、隆也はぼんやりと春樹が小さくなるまで、その背を見つめていた。
ようやく春樹から視線を離し、何気なくマンションの植え込みに目を向けたときだった。
去っていく春樹の方を凝視したまま、植え込みの影からスイと出てくる男の姿があった。
男はそっと春樹のあとを追っていく。
始め隆也は自分の勘違いかと思った。けれど、1.5の視力はしっかりとその男を捉えていた。
間違いなく、昨夜春樹を訪ねた男だ。
圭一の知り合いだという男がなぜまたここに? そしてなぜこっそり春樹の後をつける必要があるのか。
それ以上考えるのももどかしくなり、隆也は自分も足を忍ばせてその男を追った。
距離が縮まらないよう注意しながら、そのまま100メートルほど歩いた。
前を行く男の視線は吸い付けられるように春樹に向けられており、男が春樹を尾行しているのは疑いようも無かった。
春樹が一つ角を曲がり、姿が見えなくなると同時に、隆也はその男に走り寄り、後ろからぐっと右腕を掴んだ。
「何してるんですか?」
いきなり腕を掴まれた男はハッと息を呑んで隆也を振り返り、一瞬顔を引きつらせた。
「何って・・・どういうこと?」
「なんで春樹を追いかけてるんですか? あんた、昨日の人でしょ?」
「昨日の? ・・・ああ、マンションで俺が声を掛けた子?」
「圭一さんの知り合いなんでしょ? それが何で、春樹をコソコソ付け回したりするんですか」
「・・・君は誰? 春樹君の友達?」
「なんだっていいでしょ。春樹にまだ何の用です? 圭一さんの知り合いだったらもう、用事は終わったはずでしょ?」
「用事が終わった? ・・・なぜ?」
男はそう言うと、隆也が思いもしないところで不意に嗤った。
その反応に隆也は一瞬たじろぎ、そして寒気を感じた。
「圭一さんのお参りに来たなんて、嘘なんじゃないですか?」
声を低くして言った隆也に、男は更に口元を歪めて笑った。
「春樹君と仲がいいんだね。圭一くんの事にも詳しいのかな? ねえ君、俺と少し話をしないか?」
「な・・・なんで。あんた誰なんですか」
隆也の全身がさらにゾワリと粟立った。
目の前の男は至って冷静で、特に異常な感じでは無かったが、まるで自分の行動が正しいと思っているような自信が、隆也を不安にさせた。
二人が立っている路地はわりと広く、通勤通学の人々がひっきりなしに駅を目指して歩いている。
ここで何かされる危険は無さそうだと感じた。
「いいですけど・・・おかしな事をしたらすぐに警察を呼びますよ」
そう言ってぐいと睨みつける隆也を高い位置から見下ろし、男は肩をすくめるようにして言った。
「いいけど、警察を呼ばれて困るのは春樹君のほうになるよ?」




