第7話 微熱
美沙はその紙をドアから勢いよく引き剥がし、手の中で乱暴に丸めながらエレベーターまで走った。
たかが知れた距離ではあったが、1秒でもその空間に居たくなかった。
たぶんほんの少し前までそこに居たのだろう忌まわしい男の、息や匂いがまだそこに残っているような気配が耐えられなかった。
ボタンに飛びつき、やっと3階に登ってきたエレベーターに飛び乗ろうとした瞬間、思いがけずそこから出てきた人物に激しくぶつかり、美沙は自分でも聞いたことのない甲高い悲鳴を上げてしまった。
「美沙ちゃん! どうした!」
その人物は抱き留めるように美沙の肩をつかんだ。
必死に見上げた美沙の視線の先にいたのは、立花聡だった。
「立花さん・・・ごめんなさい」
まだ僅かに肩を震わせながら美沙は慌てて体を退き、そして呼吸を整えた。
他人にうろたえた姿を晒したくないという感覚は、無意識に身に沁みついたものだった。
「ごめんなさい、何でもないんです」
「何でもない訳ないだろ、そんなに怯えて。何かあった? 誰かそこに変な奴でもいるのか?」
聡は美沙の肩越しにひょいと廊下を見渡した。
「大丈夫、なんでもないんです。ちょっと急いでただけで・・・」
「美沙ちゃん!」
今まで聞いたことも無い鋭い聡の声に美沙はビクリとし、思わず真っ直ぐ目の前の背の高い男を見上げた。
真面目そうな知的な顔が、少しばかり悲しげに歪んでいる。
「美沙ちゃん。君はもう少し他人に甘えた方がいい。困ったときには困った、辛いときには辛いって。ちゃんとそう伝えなきゃパンクしてしまうよ。この前入院したときだって、俺は元より春樹君にさえ何も頼らず、かといって親に言うでもない。
俺はね、探偵社の長として、君に責任がある。君がギリギリの所で張りつめて、苦しむのを見ていたくないんだよ」
反らそうとしても、なぜか美沙はその澄んだ切れ長の目から視線を反らすことが出来なかった。
まるで大きな布でパサリと体を包み込まれたように、身動きが取れなかった。
「頑張りすぎなんだよ、君は。春樹君の事も、この事務所の経営のことも、全部一人で背負い込んでいるだろ? 俺は君の能力を高く買っていると同時に、とても心配なんだ」
美沙はたった今自分が震えていたことも忘れ、その奇妙な感覚に包まれたまま、呆けたようにポカンと聡を見つめた。
こんな真剣な聡を見るのも初めてなら、こんな感覚に陥ったのも初めての事だった。
「ねえ美沙ちゃん。もう一回訊くよ。何があった? 何か怖いことがあったんだろ?」
普段は穏やかで涼しげな目が、今は熱を帯びたように美沙をじっと捉えると、美沙の体の力は逆に魂を抜かれたようにスルリと足元に落ちて行った。
すがってしまっても良いのだろうか。それとも、それは恥ずかしいことなんだろうか。
頭では迷っているというのに、美沙の視線は何かに従うように降下し、無意識に手の中でくしゃくしゃに潰れた一枚の紙に注がれた。
忌々しいその一枚の紙に。
「何それ。見てもいい?」
美沙は素直に頷き、ゆっくりと右手を聡の方に差し出した。
聡の大きな手が美沙の手を包むように優しく触れ、そして美沙からその元凶を引き受けるように、その紙を自分の手の中に入れた。
ほんの少し触れた聡の手が、とても温かく力強かった。
美沙はやはり、体中をすっぽりと包まれた感覚を保ったまま、その紙の文字に目を走らせる男の顔を見つめていた。
さっきまで自分は何をあんなにも怯えていたのか思い出せない。
不思議な気分だった。
「美沙ちゃん、これを書いた男に心当たりは?」
再び目を上げた聡は、声こそ荒げなかったが、明らかに憤慨した感情を眉間の皺に刻んでいた。
「見当はついていますが、確証はありません」
落ち着いた声で美沙がそう言うと、聡は小さく頷き、そっと美沙の左肩に手を置いた。
「どこかでゆっくり話そう。心配しなくていい。君に絶対指一本触れさせやしないから」
・・・ああ、やはりこの人は薫の兄だな。きっと血なのだろう。
臆面もなくそんなセリフをサラリと言ってのけてしまう。そのくせ、キザに聞こえない。
社の女の子たちが、心酔してしまうわけだ。
やっと少し冷静になった頭で美沙はそう思い、心の中でクスリと笑った。
けれど体を包み込まれるイメージは更に大きく、そして熱くなり、心を委ねてしまいたいとほんの一瞬思ってしまった自分に、どうしようもなく戸惑い、身震いした。