最終話 春風の中で
「本当に君ら二人は、仲がいいな。そろいも揃って、福岡の大学とはね」
聡は二人を送り出す最後の日、また同じ事を言って笑った。
「隆也君が国立大っていうのもすごいけど、春樹君は3カ月足らずの勉強で、目指す大学に受かっちまうんだもんな」
新幹線の改札口で、純粋に感嘆の声を上げる聡に、隆也と春樹は顔を見合わせて苦笑いした。
春樹はあの入院中から早速猛勉強を始め、2月末、当初から希望していた飯塚のK大理工学部に見事一発合格した。
一方の隆也は関東近辺の私学を早い時期に諦め、目標を地方に向けた。
関東近辺の中堅私立を受けさせたがっていた母親を、国立大という魅惑的なレーベルで説得し、九州の工業大学を受験。見事合格したのだ。
国立大とはいっても、隆也の学部は春樹の大学の偏差値には遠く及ばない。
「おふくろにはナイショな」
隆也がそう言うと春樹は、「そんなこと気にする方がおかしい」と笑った。
少しばかり見栄っ張りの隆也には、“そんなこと”は、それでも結構気になるのだ。
けれどこの友人が、そんな事をひけらかす人間では無いことは、隆也が一番よく知っていた。
そしてもちろん、申し合わせて福岡の大学にしたわけではない。
春樹は合格するまで志望校を言わなかった。
「西の方、行ってみたいな」と、ぽつりと言っただけで。
隆也は隆也で、いくつかの国公立の学部を受けたうち、たまたま受かったのがその工業大で、しかも飯塚キャンパスだったのだ。
その後、隆也がさっさと契約したアパートの方が、春樹のアパートよりも更に春樹の大学に近いのだと判明し、二人でガッカリしたような、可笑しいような気分で笑い合った。
何はともあれ、この春から二人それぞれの新しい生活が、この生まれ育った場所から遠い地でスタートする。
「美沙ちゃん、何やってんだろ。もう時間なのに」
聡は心配そうに駅構内を見回した。
ちょっとここで待っててね、と、3人を置いて消えてしまった美沙は、まだ戻ってこない。
「ホームは寒いから、お別れは改札でって春樹君が言ってくれたのに、まさか忘れて上にいっちゃったのかな、彼女」
美沙の事となると、まるで親鳥のように心配症になる聡が、隆也には面白かった。
今年の夏までには二人が式を挙げるらしいと言うことを春樹から聞いた時は、あまりの早い展開に胸が痛んだが、そのあと続けて春樹が告げた言葉への衝撃には、到底及ばなかった。
『美沙のお腹にはね、赤ちゃんがいるんだ』
ホワリと照れたように微笑みながらそう言った春樹の、本当の気持ちを理解することは、隆也には難しかった。その微笑みに相当する幸せが、この友人の中に本当にあるのかどうか。
けれど、ひとつだけ分かることがある。
“春樹はちゃんと、自分の中で折り合いをつけたのだ”
「ごめんごめん、春樹、隆也、これ持って行って」
弾けるような元気な声が響き、両手に弁当と、お土産らしきものを抱えた美沙が走ってきた。
聡は卒倒しそうに慌てて美沙に走り寄り、「走るなって言っただろ!」と、青い顔で美沙を叱った。
その視線は時折、美沙のまだ膨らんでもいない腹部に優しげに注がれる。
けれどもそんな心配性の未来の夫などお構いなしに、美沙は春樹の前に走り寄ると、その包みをガサリと手渡した。
「ここのお弁当、美味しいのよ。新幹線の中で食べなさい。それから新しい住所、いい加減に教えなさいね。向こうに着いてからでいいから。絶対よ。別に突然遊びに行ったりしないから。それから、携帯の番号とか変わったら絶対教えてね。それから、えーと、なんだっけ・・・」
美沙はいつになくソワソワとしながら早口で捲し立てた。何となく春樹から視線を反らしているようにも見える。
隆也は、そんな美沙を茶化すことも出来ず、何とも言えない寂しさが伝染して来るに任せた。
春樹のほうを見ると、やはり愛おしいような眼差しで、この麗人をみつめている。
美沙の体型はまだ少しも変化はなく、春を先取りしたような萌葱色の柔らかなワンピースにスプリングコートがとても美しかった。
見つめている春樹の横顔を見ていられなくて、隆也は不自然にならないように目をそらした。
「それから・・・」再び美沙が口を開いた。
「隆也が帰省する時には、一緒に帰って来なさいよ。ね、春樹。ここは、あなたの故郷なんだし。連絡くれれば泊まるところはすぐに用意してあげるし。・・・それから結婚式には来て欲しいし、子供が生まれたら、あなたに抱いて欲しいし、それから・・・それから・・」
「美沙、もう時間だ。行くね」
春樹は全部了解してるよ、とでも言うように美沙に優しく笑いかけると、足元のボストンバッグを手に持ち、隆也に『行こう』と、目で合図した。
聡と最後の挨拶を交わし、美沙に「じゃあ、元気でね」と満面の笑顔で言うと春樹は背を向け、改札を抜けて行った。
隆也もゆっくりそれに続く。
雑踏の中の、それは無言の儀式のようだった。
「春樹」
登りのエスカレーターに向かう春樹の背に、美沙の切ない声が飛んできた。
春樹はほんの少し立ち止まって振り向くと、大きく手を振った。
「さよなら、美沙。幸せになって」
そしてもう、振り向くことは無かった。
◇
美沙は二人の姿が視界から消えてしまうと、横に寄りそう聡の腕をぐっと握った。
そのあまりにも強い力に驚いた聡が「どうした? 気分でも悪い?」と訊いてきたが、美沙はただ無言でその腕を引き寄せた。
春樹の「さよなら」は現実味のない幻のように、フワフワと美沙の中に漂っていた。
あまりにも神聖で、最後まで指先ひとつ触れることが出来なかった金色の宝石は今、天上へ帰っていった。
悔しいような、天に嫉妬するような、けれどようやく天の使いを天上に帰すことができたという、安心感と寂寥。そんな様々な複雑な思いが、美沙の胸を満たした。
「春樹、幸せになるよね。大丈夫よね」
ようやくポツリと美沙がそう言うと、横から伸びてきた大きく温かな手がそっと、美沙の肩を抱いた。
「もちろんだよ。あんなに良い子はいない。あの子は大丈夫。誰よりも幸せになるよ」
相変わらずフワリと包み込んでくれる、大きな、目には見えない布だった。
それに身を預けてひとつ頷くと、美沙の心の中の震えが、ようやく止まった。
◇
「なあ、春樹」
ボストンバッグを足元に置き、ホームに並んで立ちながら、隆也は春樹に訊いた。
春樹は相変わらず穏やかな目をして隆也を見つめてきた。
無言で『なに?』と、僅かに小首を傾げる。隆也はため息をついた。
一度その胸を開いて、どんな想いが詰まっているのか、全て覗いて見たくなる。
「本当にもう、会わないつもり?」
「うん」
「本当の、ほんとに?」
「うん」
「・・・そうか」
何度訊いても、この頑固な友人は絶対に決断を変える気は無いらしい。
そして《頑固な友人》の仮面をかぶり、親友である自分にも、酷く脆いだろう本心を見せない春樹に、隆也は少しばかり拗ねていた。
「結婚式にも出て欲しそうだったよ。きっと案内来るぞ? 赤ちゃんが生まれても、見に行ってやらないのか? 抱っこして欲しいっていってたぞ?」
「住所、教えない。携帯も変える」
「徹底してるな」
「うん」
「でも、忘れてないか? 相手は探偵だぞ?」
隆也がそういうと、春樹は急にクルリとした目を隆也に向け、「あ、そうか」と呟き、可笑しそうに笑った。
そしてホームの天上から僅かに覗く春先の青空を仰いだ。
「美沙の赤ちゃん、可愛いだろうな。・・・抱っこしてみたかった」
天空からこぼれる光の玉を抱くように、春樹は宙に腕を伸ばした。
しなやかで優しい、繊細できれいな手。
大切なものほど遠ざけ、決して触れることをしなかった聖なる手だ。
いろんなことに傷つき、愛する人を想うが故にその気持ちを封じ込め、それでも何かを恨む訳でもなく、
運命を受け止めてきた手だ。
隆也は自分の腕を伸ばし、まだ光にかざしていた春樹の左手首をグッと強く掴んだ。
虚を突かれたように春樹は隆也の方に顔を向け、腕の力を抜いた。
琥珀色の澄んだ瞳が真っ直ぐ隆也を見つめてくる。
《あんまり役には立たないかも知れないけどさ。・・・俺、春樹の傍にいるから。》
心の中で強くそう言うと、春樹の目は一瞬戸惑うように微かに揺れ、やがて気恥ずかしそうに視線を反らし、「うん」と笑った。
呪いは解けなかった。
けれど優しい嘘をひとつ吐き、この友人は大切な恋をひとつ、終わらせた。
春樹は今はただまっすぐ前を見て歩き始めようとしている。
きっと、その胸の中には、他人には計り知れない苦渋が畳み込まれているに違いないのだが。
正しいとか、正しくないとかを決める物差しなど存在しない。
隆也にはただ、誰も歩いたことのない未開の道を、不安を隠してまっすぐ歩き始めた春樹が誇らしかった。
「ドキドキするな」
ふいに春樹がそう言った。
隆也は途端、我に返り、そしてジワリと汗が噴き出した。
今さっき、自分は何を読まれたろうか。
「え? 何に?」
「明日からの、新しい生活に、だよ。他に何がある?」
春樹は隆也のほうをチラリと見た後、目を細めて笑った。
「ああ、そうだよな。俺もだ」
・・・この小悪魔。
自分は胸を開かずに、こちらばかり、まる裸にされる。
隆也は急に可笑しくなって心の中でクスクスと笑った。
ホームに入ってくる新幹線を見つめる春樹の艶やかな髪を、ほんの少し温かな風がフワリと揺らした。
もう、すぐそこまで来ている、希望と不安と波乱に満ちた、春の匂いがした。
(END)




