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第30話 禁断の宝石

病院から連絡を受けた美沙は、取るものも取り敢えずマンションを飛び出し、タクシーをつかまえた。


右手で必死に前の座席のシートを掴み、左手で自分の飛び出しそうに跳ねる心臓を抑え込む。

この夢は覚めないでと、何度も何度も心の中で繰り返しながら。

顔なじみになった看護師の澄んだ落ち付いた声を、もう一度すがるように脳内で反芻してみた。


「春樹君、意識が戻りましたよ」


安堵で全身に震えが走るのを、初めて経験した。

けれど、まだだ。この目で確かめるまでは。

酷薄な運命の神に、どうかもう、邪魔をしないでくれと祈りながら、美沙は病院に飛び込んだ。



春樹はすでにICUから一般病棟に移されていたが、病院の部屋割りの都合で、取りあえずの個室だった。

「個室にしてもらえて、良かったですよね」

案内してくれた看護師は、こそっと美沙に呟いた後、拳で小さくガッツポーズをつくり、微笑んでくれた。

その笑顔に勇気づけられた。

大丈夫なんだ。

もう、悪夢は終わった。


看護師に礼を言って病室に入ると、まだ起きあがることもできず春樹は、ベッドに横たわっていた。

窓から入る白い光の中で、春樹は美沙を待ちわびていたかのようにこちらを向き、柔らかく笑った。

その頬は光に溶けて消えそうなほど白く頼りなかったが、唇は桜色に色づき、美沙の不安を払拭してくれた。

けれど美沙は春樹をホワリと包む光のあまりの清らかさに足がすくみ、近づくことができなかった。

こうして再び春樹の笑顔を見ることができる幸せに歓喜しているというのに、言い知れぬ自己嫌悪が美沙を引き止めた。


「美沙、来て」

その声に許しを得るようにベッドの横まで歩み寄った美沙を、春樹は澄んだ目でまっすぐ見上げた。


「丸5日も眠ってたって聞いて、すごくびっくりしたよ。ねえ美沙。あの男、どうなった? 美沙はあのあと、何もされなかった? 大丈夫だった? ごめんね僕、・・・かっこ悪かったな。落ちちゃって」

まるでちょっと転んで怪我をした後のように、春樹はしっかりとした口調で話した。

自分がどれほど危険な状況だったのか、どれほど美沙や隆也達が心配したのか、この子は知らないのだろうかと思うと無性に可笑しくなり、安堵と共に涙が滲んできた。


「私は何もされてないし、高浜はあれからすぐ捕まったから。もう大丈夫よ。立花さんが警察の方、全部やってくれてる」

「そう。良かった。もう安心だね」

「春樹・・・」

「ん?」

「ごめんね・・・春樹。本当に・・・」

「美沙」

春樹は優しく美沙の言葉を遮り、横になったままではあったが、美沙をしっかり見つめてきた。


「ねえ美沙。ごめんとか、いらない。今僕がどんなに嬉しいか、分かる?」

「・・・うれしい?」

「美沙に怪我させなかったこと。美沙の役に立てた事が、どんなに嬉しいか分かる? 僕は多分、今まで美沙の役に立てたこと、無かったから」

「なんで。そんなこと・・・」

春樹は再び美沙の言葉を遮るように、懸命に笑顔を作った。

まだ体が辛いのだろう。途切れ途切れ、息を継ぎながら話す静かな少年の声が、美沙にそれ以上の反論は不要だと諭した。

そしてこの18歳の少年の深い優しさと愛情に、美沙は遮られるまでもなく、胸が詰まって言葉が出てこなかった。


「ねえ、美沙。隆也や局長にも、知らせちゃった? 僕が目を覚ましたこと」

「・・・ううん。ごめんね、まだなの」

「良かった」

春樹は少しホッとしたように目を細めた。

「どうして?」

「隆也、うるさいからさ。ちょっとだけ、美沙と二人で話がしたかったんだ」

春樹はそう言った後、目だけを動かして部屋の隅の丸椅子を見つけ、美沙に自分の横に持ってきて座ってくれと言う。

春樹と喋っていることも、春樹が淡々と指示することも、何から何まで不思議な感覚を伴い、美沙はまだ自分が夢の中に居るのでは無いかと不安になりながら、指示通り丸椅子を寄せてベッドの横に座った。


「あのね、美沙。大発見があります」

春樹は妙にイタズラめいた口調でそう言うと、目を輝かせた。

その表情が可笑しくて、可愛らしくて、思わず美沙は笑ってしまった。

それはまるで、宝物を見つけて、それを自慢したくてウズウズしている無垢な子供のようだったのだ。

「何よ。さっきまで夢の中にいた人が、何の大発見をするのよ。宝島の夢でも見た?」

「もう。何で笑うかな。ねえ、笑わないで聞いてよ。すごいんだから。僕ね・・・」

「だから何よ」

「もう、人の心を読む力が消えちゃったんだ」

「・・・・・え」


一瞬その言葉の意味が理解できず、美沙はポカンとした顔を春樹に向けた。

春樹はその顔が見たかったとでも言うように満足げな目をし、そして柔らかく笑った。


「美沙。・・・もう平気になったんだ。さっき目覚めてね、看護師さんが僕に触れても、何も伝わってこないんだ。僕にとっては、すごく奇妙な感覚なんだ、それって。きっと手袋でも着けてるんだろうと思ったけど、そんなことなかった。美沙、僕・・・」

「春樹・・・春樹、本当なの? それ、本当なの?」

春樹は無言で大きく頷いた。

さっきまで懸命に喋っていたその口元が微かに震えて歪み、美沙を見つめる大きな目が潤んできた。

懸命に堪えていたのだ。

「もう、大丈夫なんだ、美沙。僕・・・。なぜだか分からないけど、もう・・・」

美沙は思わず椅子から立ち上がり、興奮気味に話す春樹のベッドに近寄った。

春樹の顔のすぐ横に置いた自分の手指が震えている事に、その時初めて気が付いた。

歓喜と、そして同等の“絶望”に打ち震えているのは自分の方なのだ。

美沙の下で、春樹が動かずにじっと、美沙を見上げていた。


愛おしくて愛おしくて、傷つけてでも抱きたいと思った命が、ここにある。

ふとベッドに突いたこの腕を緩めれば、叶う夢がここにある。

けれど、お互いに分かっていた。

それがもはや、禁断の行為になってしまったと言う事を。


「美沙、僕はもう、化け物じゃない。開放された。もう、自由なんだ」


神は春樹を救い、そしてこの呪縛を解いてくれた。

そして、辛くて悲しくて、胸を焦がした、悪夢のような恋がひとつ、終わった。


---そう、終わったのだ。永遠に叶わぬ想いだけ、残して。

原野を切り開き、動き始めた自分の列車に乗ったこの少年を、止めることはもはや、できない。


「美沙?」

「うん」

「今までありがとうね」

「・・・うん」

「僕はもう、大丈夫」

「・・・」

「もう、一人で生きていけるから」


「うん」


美沙の目から溢れた涙が、春樹の頬にポタリと落ち、そして流れて消えた。


背中を押されたのは、もしかしたら自分だったのだろうか。


春樹が、美沙の目をじっと見つめた後、再び柔らかく笑った。

金色の、宝石の瞳。

優しく愛撫されたような、何もかも包み、許し、溶かしてくれるような、生涯忘れられない笑みだった。




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