第29話 なぜ・・・
ああ、・・・この場面は見たことがある。美沙は思った。 いつかの、あの夜の夢だ。
消毒薬と不安の匂い包まれた病院の廊下。
自分の心臓が無傷で動いているのが忌まわしく、ただ浅く意味もない呼吸を繰り返す。
いや、違う。
あの最悪の夢の中では、春樹はもう冷たくなっていた。
だが今、慌ただしく医師らが飛び込んで行った鉄の扉の向こうでは、春樹はちゃんと生きている。
春樹を運んで行った看護師は、取り乱して春樹の体にしがみつく私に“大丈夫ですから、ここで待っていて下さい”と言ったのだ。
ちゃんと、そう言ったのだ。
あんな夢など、関係ない。全く違うのだ。
美沙は手術室前の堅い長椅子にポツンと座りながら、まだ拭いきれず所々血の付いた手とジャケットに目をやった。
あの時自分はどうすれば良かったのだろう。
陸橋の上で高浜を見た瞬間、身がすくみ、動けなくなった。
次の瞬間には、春樹と高浜は揉み合ったまま、急な階段を転げ落ちてしまっていた。
美沙も何か叫びながら必死で駆け下りたが、高浜は転落の衝撃に動転していたのか、美沙を見ることもせずそのままフラフラと走り去った。
暗く冷たいコンクリートに叩きつけられた春樹は、胎児のように背を丸め、横向きに倒れたまま動かない。
美沙は春樹にしがみつき、揺すり、抱き起こそうと肩や背に手を回した。
頭を打ったかもしれない人間を動かしてはいけないことなど充分に分かっていたはずなのに、冷静な思考は美沙から完全に失われていた。
そのうちジワリと春樹の体の下から染み出してきた温かいものが血だと分かると、美沙は再び半狂乱になり、春樹の上に覆い被さった。
通りすがりの人が呼んでくれた救急車の隊員が、その背を揺するまで、美沙は泣きながら春樹の名を呼び続けたのだ。
きっとあんな夢を見てしまったからだ。・・なぜ、あんな酷い夢を見てしまったのだろう。
自分は春樹に何を求めていたのか。夢の中で春樹を殺してまで、あの肌に触れたかったのだろうか。
抱きたかったのだろうか。あの咲子に嫉妬して。あの咲子がやったように。
自分は何て下劣な。何て浅ましい女なんだ!
春樹は優しいがゆえに美沙を遠ざける。
そんなことは分かり切っているのに、自分はそれを受け入れられずにいた。苛立ちを春樹に向けた。
つい数時間前、自分が春樹に突きつけた言葉が、情けなくて腹立たしくて、美沙は握りしめた拳を硬い椅子の縁に叩きつけた。
「美沙さん!」
突然大声で名を呼ばれ、美沙はビクリと身を震わせた。
弾けるように立ち上がって声の方を振り返ると、廊下の中央に息を切らせた少年が立っていた。
事態が飲み込めず、信じられないといった蒼白な表情でこちらを見ている隆也だった。
---そうだ、夢の中で隆也は私に言ったのだ。『あなたの願いは叶ったよ。ほら、もう春樹に触れられる。抱いてみれば? そうしたかったんでしょ?』と。---
「隆也・・・ごめんなさい。ごめんなさい・・・」
もう枯れたと思っていた涙が再び、美沙の頬を伝い落ちた。
◇
いつも気丈で冷静で、泣くことなど想像も出来ないと思っていた美沙の涙に、隆也は足が震え、体が硬直した。
彼女をこんなにまで憔悴させる、深刻な事態なのだ。
ぽつりぽつりと途切れながらの美沙の説明で、大体の状況は理解できたが、到底隆也には納得できなかった。
「なんで春樹が・・・」
けれどももう、それ以上は、目を泣きはらしている美沙の前で言うつもりは無かった。
信じられぬ思いで胸を潰しているのは、彼女も同じなのだ。
「春樹は大丈夫。ぜったい大丈夫だから」
美沙を椅子に座らせ、自分もその横に座りながら隆也は何度もそう言った。
同時に自分にもそう言い聞かせた。
“もしも春樹に何かあったら、もう神など信じない。
冗談じゃない。
春樹を連れて行きやがったら、天上に行って唾を吐いてやる!”
怒りの矛先を天へ向け、それでも隆也には、春樹を無事に返してくれとただ祈るより術はなかった。
◇
数十分して同じく青い顔をした立花聡が駆けつけたところでちょうど手術が終了し、執刀医の一人が扉の中から現れた。
出血は多かったが傷の方は内臓には至らなかったと開口一番、説明をくれた。
これから春樹をICUに運ぶのだという。
「気になるのは脳のダメージですね。意識はしばらく戻らないかもしれません。これからICUのほうで治療と平行して検査していきます」
淡々とした医師の説明に、安心していいのか絶望を言い渡されたのか判断できぬまま3人は、深夜を回った病院の廊下で沈黙し、立ちつくした。
「私、ずっと春樹の傍にいるから。隆也と立花さんは帰ってください」
容体に変化があればすぐに知らせるし、付添部屋もないので、とりあえず自宅に戻るように病院側から言われたが、美沙は頑として譲らなかった。
その気持ちをくみ取ってくれた聡が、自分も残ると言ってきかない隆也を強引に引きずって帰ってくれた事に美沙は感謝した。
---眠らなくてもいい。
部屋なんかいらない。ここにいる。ずっと、春樹の傍に。---
けれど春樹は目覚めなかった。次の日も、その次の日も。
見かねた聡が、半ば怒鳴るように飲まず食わずの美沙を自宅に帰らせ、代わりに丸一日仕事を休んで病院に詰めてくれた日もあった。
隆也も時間のある限り病院に来てくれたが、会話を交わすことも無く、美沙と二人、ただ遠くガラスを隔てた集中治療室で器具に繋がれた春樹を見つめているだけだった。
永遠にこんな日々が続くのかもしれない。
きっと、これは自分への罰なのだ。
自分はきっと、春樹を苦しめた罰として、春樹ともどもこの苦渋の永遠の中に閉じ込められるのだ。
寝不足が、病的な笑いを美沙から引き出させた。
「あなたが倒れちゃったら、春樹君が目覚めたときどうするの? ほら、帰ってゆっくり休んで、ちゃんと食事してらっしゃい」
ずっと様子をうかがってくれていたらしい看護師長が、5日目の夜、美沙に優しく声を掛けてくれた。
---春樹が目覚めた時に。
それは、いつですか? 師長。---
美沙は力なく師長に一礼すると、ふらふらと病院を出、役立たずの体を最終電車に押し込み、マンションに戻った。
春樹の部屋の前を、胸のつぶれる思いで通り過ぎ、部屋に入るとベッドに倒れ込んだ。
ここで眠って、目が覚めたら、悪夢も一緒に覚めてくれるだろうか。
目覚めたら、いつもの朝で。
支度をして、化粧をして、外に出たら、春樹が「おはよう」と声をかけてくれて。
そしたら、私は・・・。
トンと突き落とされるように美沙は眠りに落ちて行った。
まるで体が現実から逃避するように深い。
けれど重く、粘りつくような眠りだった。
息もできない、苦しい、沼の底のような眠り。
どこからか唸るような声が聞こえ、虫の声に変わった。
“いや、ちがう”
携帯のバイブだ。
病院からの電話だった。




