第28話 暗転
春樹は駆け寄るようにして美沙の横に並び、そのまま黙って人通りのまばらな歩道を歩いた。
空には満ちかけた月が青白く輝いていたが、その光りは冴え冴えと、春樹の心を冷やすだけだった。
先程の美沙の鋭い視線の針が、春樹の胸からまだ抜けない。
何か美沙を怒らせるような事を言ったのだろうかと不安になり、2時間の会話を反芻してみるが、何も思い当たらない。
ちゃんと今まで世話になった礼を言おうと思っているのに、そんな雰囲気でもなかった。
春樹は落ち着かない気分でソワソワしながら、ぴたりと美沙の横に寄りそって歩き、話題を探した。
できるならば最後は、美沙の笑顔を見て終わりたかったのだ。
「局長って、本当にいい人だよね。僕、あの人大好きだよ」
春樹がそういうと、美沙は再び一瞬チラリと春樹に目を向けたが、すぐに視線を外し、さらに足を速めた。
「それは、あの人に触って心を読んだから?」
金属か何かのように無機質な、美沙の言葉だった。
先程刺さった針が、春樹の胸で鈍く疼いた。
「・・・そう言う事じゃなくて、今まで見てて、そう思ったんだ」
「あの人はいい人よ。大人だし、安心をくれるし、ずっと傍に居たいと思える」
「うん。・・・よかった」
「だから私の前から居なくなるの?」
「・・・え?」
ドキリとして春樹が横を振り向くと、美沙の苦しげな目があった。
美沙はそのままスッと目をそらし、所々錆びて冷たい肌を晒した陸橋の階段を登りはじめた。
「美沙?」
「私が立花さんと結ばれれば、もう心残りなく離れられる? 一週間前に、私があんなこと言ったから、あなたが傍に居れば、私の心が乱れるとでも思った?」
「美沙、どうして。・・・そんな事じゃない」
春樹は、振り向きもせずに階段を登ってゆく美沙の後を、慌てて追った。
心臓が潰れそうに苦しかった。
「じゃあどうして私からワザと離れようとするの。できるだけ遠くの大学を選んで、マンションも引っ越すんだって、立花さんにそう言ったんでしょ? ただ私から離れたいようにしか思えない。私の為だったら、やめてちょうだい。私はあなたが傍にいたら心乱して恋も出来ないような女じゃないわ。自惚れないで」
美沙は階段を上り詰めると振り返った。
その目が悲しく潤んでいる。
春樹は月を背にして立つ、その美しい人に改めて心臓が止まるほどの激しい愛情を感じた。
触れたいと思った。
その愛おしい人の、子供じみた我が儘も、怒りも悲しみも、すべてに触れたいと思った。
何の痛みもなく傷つけず、その肌に触れられるならば、今ここで死んでもいい。
「美沙。ごめんね、美沙」
一歩二歩、後ずさりしながら美沙は首を横に振った。
振り絞った声が、震えていた。
「幸せになんか、なれない。春樹がずっとその力に縛られて苦しんでいるのなら、私は幸せになんか、ならない。触れた人間の悲しみや醜い感情を吸い取ったあなたを見てきた。自殺願望の女の狂った妄想に犯されていくあなたを見てきたのよ。これからも私の手の届かない所でずっとずっと苦しんでいくあなたを想像しながら、幸せに暮らせるわけがないじゃない!」
「美沙、大丈夫だから。僕は・・・」
美沙の言葉に胸が詰まり、それでも本心と反対のことを叫ぼうとする自分が悲しかった。
美沙はフッと糸が切れた人形のように陸橋の反対側に視線を向け、魂の抜けたような声で言った。
「苦しいよ・・・春樹」
いつか聞いたことのある、春樹の心臓を凍らす言葉だった。
美沙の幸せを願って、その笑顔が見たくて、春樹が下した決断はいつも美沙を苦しめただけだった。
自分の存在が、自分のこの忌まわしい力が美沙を苦しめる。
一番守りたいと思った女性を、結局は苦しめることしかして来なかった。
なぜ“自分”という忌まわしい人間がここに存在しているのか。
春樹は体の動かし方も忘れてしまったかのように、ただ陸橋を歩いてゆく美沙を見つめていた。
“ごめんね、美沙”
脱力し、放心し、心の中でそう呟いた時だった。
勢いよく春樹の背後から階段を登ってきた人物に、春樹はドンと押しのけられた。
それはおよそ尋常な動きではなく、ワザと目の前の物を毛散らかして進む装甲車のような、怒気と狂気を含んでいた。
ツンとするアルコール臭と汗の匂いが鼻を刺激し、同時にその男の振り払った手が春樹の手に触れた。
電流に触れたような衝撃にビクリと震え、春樹は目を見開いてその男の顔を見た。
男が濁った目で一瞬春樹を睨み、上着のポケットに手を突っ込みながら陸橋の反対側に走り出した時には、春樹の心臓は破裂しそうに鼓動し、全身が粟立った。
春樹の目が捉えたもののせいでは無かった。
触れた肌が瞬時に捉えた男の歪んだ心の断片が、凶器となって春樹の心を貫いた。
「美沙! 美沙、逃げて! 高浜だ!」
叫ぶと同時に、春樹は地を蹴った。
高浜はヨロヨロとしながらも、美沙だけを標的に着実に距離を詰めている。
ポケットから取りだしたナイフがキラリと冷たく光を放つと、春樹は気が遠くなるほどの怒りを覚えた。
触れた高浜の感情の中にあった美沙への執念、歪んだ欲望、そして殺意という快楽。
力の限り走りながら、春樹はただその忌むべき男への、怒りの塊と化した。
“指一本、触れさせない!”
すでに突き当たりの階段のところまで来ていた美沙は高浜を認めると声も出せずに固まり、欄干に背をつけたまま立ちつくした。
その美沙に突進して行こうとする高浜を、すんでのところで春樹は捉えた。
何の計算もないまま高浜に体当たりし、はじき飛ばしたはいいが逆に自分がバランスを崩し冷たい鉄の地盤に倒れ込んだ。
けれども柔らかいバネのある少年の体は、すぐさまクルリと形勢を立て直して立ち上がり、性懲りもなく奇声を上げながら美沙に突進していく半狂乱の男に再び力の限りぶつかって行った。
乾いた布のこすれる音と鈍い衝突音、そして春樹は美沙の悲鳴を聞いたような気がした。
耳鳴りのようにその悲痛な叫び声が頭の奥に反響する。
足元がふっと軽くなった。
陸橋の上から目に飛び込んで来た街明かりがぐらりと奇妙に歪み、何度も執拗に回転を繰り返す。
ガンと頭が何かに打ち付けられる衝撃の後、きな臭い匂いが鼻の奥に広がった。
--- ミサ 逃げて ---
もう一度叫ぼうと思ったが体中から力が抜け、まだ僅かに憤りを残したまま、春樹の意識は光の届かない闇の底に沈み込んで行った。




