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第23話 大切な人

なぜこの少年はこんな穏やかな顔をしていられるのだろう。

この子は今、本当に正気なんだろうか。


美沙は現実とも思えない恐ろしいほどの静寂と柔らかな光の中で、ただ春樹を見つめ、呆けたように立っていた。

必死に守ってきたものが失われる。崩れる。

けれど、こんなに穏やかな春樹のまなざしの前で、それが何だったのか、一瞬分からなくなってしまった。

正気ではないのは、自分の方なのだろうか。


「美沙」

柔らかな声だった。

「美沙、ごめんね。美沙はきっとあの火事が起こる前、兄貴から全てを聞いたんだね。聞きたくもないような、ひどい話を」

「・・・春樹」

「そして、それを僕に悟られないように、必死で隠し続けてくれたんだね。だから僕をあんなに避けて、指一本触れようとしなかった。・・・ねえ、そうなんだよね」

美沙の視界が歪んだ。


誰にも言えなかったこの3年間の苦しみと葛藤が一気に胸の奥底から込み上げ、同時に突きあげる激しい嗚咽を堪えた途端、焼けるように眼球が痛み、抗う間もなく涙が溢れだした。

目を伏せたのに、春樹が静かにその涙を見つめているのがはっきりと感じられる。

春樹に見せた、初めての涙だった。


「ごめんね美沙。美沙ひとり苦しかったよね。僕は何も知らず、そんな美沙に甘えて、くっついて生きてきた。一人前の顔して、美沙をずっと苦しめてきた」

「春樹! 春樹、もうやめてよ! どうして?」

「・・・」

「どうしていつもそんな良い子でいるの? どうして自分ばかり責めるの? あなたはもっと周りを恨んで良いのに。圭一を! あなたに余計な事を吹き込んだその男を!」

「ちがう、美沙、違う!」

「何が!」

「僕は嬉しかったんだ」

「嬉しいですって? 何を馬鹿な!」

「きのう一晩、寝ずにずっと考えた。本当にいろいろ考えた。苦しかったし、悲しかったし、気が変になりそうに寂しかった。・・・でもね、考え疲れてベッドに倒れ込んだ時、最後の最後に美沙のことが、頭をいっぱいにした。美沙との、この3年を振り返ってみたんだ。僕がこんな力を持ってるから避けてたんじゃないかも知れないって思ったら、そのことに凄く救われた。兄貴のことや、僕のこの力や、面倒くさいこといっぱいなのに僕から離れて行かなかった美沙の優しさが、改めて嬉しかったんだ。

兄貴のことは死ぬほど辛い事実だけど、今僕は、美沙の気持ちに感謝できる。そんな気持ちが自分の中に生まれてくるのが嬉しいんだ。美沙のお陰なんだ。だから・・・。

だから僕、美沙にありがとうって、そして今までごめんって、それだけちゃんと言いたかったんだ」


さっきまで人形のようだった春樹の表情は、人間らしい赤みを帯び、そして大きな仕事をやり終えた後のような吐息を一つ漏らした。

たった一晩で圭一や家族の惨劇を割り切れるはずもない。

けれども気持ちを切り替えることでなんとか自分の精神を保とうとしている少年の健気さと健全さを、美沙は痛いほど感じた。


けれど美沙は、この目の前の狂おしいほど愛おしい少年が、同時に今までよりももっと遠い距離にいるような感覚に陥り、愕然とした。

なぜなのだろう。

自分はこんな瞬間を待ち望んでいたはずでは無かったのか。


春樹に知られてはならない秘密を持ち、そのせいで触れられないことが悔しくて悲しくて狂いそうだった。

春樹を死ぬほど苦しめるだろうその秘密をばらして、その肌に触れたい、抱きしめたいと何度も思った。

今、その夢が叶う瞬間ではないのか。

美沙自身の手を汚すことなく春樹はその残酷な事実を知り、受け止め、耐えようとしている。

もう美沙を苦しめる鎖は切られた。良心の呵責なしに、その肌に触れられる。


それなのに、どうしてこの少年はこれほど遠い存在なのだろう。


「ありがとうなんて・・・そんなこと言わないで。私は結局春樹を避けて、ずっと苦しめて来ただけなのに」

「でも、傍にいてくれた。兄貴とは本当は恋人なんかじゃ無かったんだよね。本当は前から何となく分かってたんだ。それに否定もせずに、何の義理も責任も無いのに僕に優しくしてくれた」

「義理とか責任とか、そんなの関係ないわ」

美沙が低くそう言うと、いつの間にか少し見上げる程に背が伸びた涼やかな表情の少年は、憂いをすべてその奥深くに閉じこめて、美沙を見つめてくる。

美沙は真っ直ぐ、その淡い琥珀のガラスの瞳にささやいた。


「あなたが好きだったから」


春樹は美沙のその言葉をスッとその身に引き取ってくれるかのように、穏やかな眼差しで再び見つめ返してきた。

笑うでもなく、驚くでもなく。


「私が離れたく無かったから! 傍にいて、春樹をずっと見ていたかった。秘密なんてバレてもいいから、抱きしめてやりたいと思った。その肌に触れてみたいと思ったのよ。ひどい奴でしょ? 優しくなんてない。全部私の我が儘なのよ」

自分がどんな馬鹿げた告白をしているのか美沙にも分かっていたが、もう止めることが出来なかった。

情けなさと同時に嗤いが突き上げてきた。自分はこんなに薄っぺらで、抑制の利かない人間だったのかと。


春樹はその言葉を聞きながら、ただ静かに美沙を見つめていてくれた。

いくぶん弱まった西日が春樹を照らし、琥珀の瞳は今や、溶けそうに淡い金色の宝石になった。

互いにただその目を見つめ合うだけの、言葉も何もない、沈黙の時間が続いた。

それはしかし、穏やかでありながら、歓喜や安堵をかけらも含んでいない、ゾワリとする沈黙だった。


一体なんだろう。この時間は。自分は今、何を言ってしまったのだろう。


美沙はやっと落ち着きを取り戻した頭で思いめぐらし、金色の瞳を見つめながらジワジワと胸に染みこんで来る不安を感じた。

自分は今、取り返しの付かない事を言ってしまったのではないのだろうか。

そんな想いがシミのように胸に広がってゆく。


更に長い、息もつけない沈黙の後、目の前の少年はフッと糸が切れるように目を伏せ、そして再びゆっくり美沙の目を見つめてきた。


今、この少年の中で何かの答えが出されたのだ。

ついさっきまで、自分が見守らねばならないと思っていた頼りない少年が、実はそうではないのだと気付かされる瞬間が来るのだ。


“お願いだから何も言わないで! 違う、何かの間違いなの! 時間を戻そう、春樹。お願い!”

喉元が込み上げてくるもので震える。子供のように叫び出したくなる気持ちを美沙は必死で堪えた。


けれど春樹はゆっくりと口を開いた。

全てを包み込むような、それでいて自分自身は消えて無くなりそうな、柔らかな声で。


「美沙、今までありがとう。僕、・・・この事務所を辞めようと思うんだ」


それは美沙の耳に、はっきり『サヨナラ』と響いた。




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