第22話 君の唇から
結局美沙は、その日1日休んだだけで、翌日からは通常どおりに事務所を開けることにした。
聡は心配するだろうが、その不満顔を想像することも楽しかったし、それだけで何か、守られているような安堵感があった。
その夜、春樹に 《明日から鴻上支店、通常営業!》と素っ気ないメールを送ると、しばらくして《了解。》と、更に素っ気ない返事が返ってきた。
ストーカーから受けた傷口に触れないでおいてくれる、春樹らしい気遣いを感じたが、きっとそれは《変に気を回さないで》という美沙の心情を、敏感に読みとってくれたからに違いない。
あの少年はいつも言葉にする前に、美沙が欲するものを感じ取ってくれた。手を触れなくとも。
それにしても・・・。
春樹が聡に言った『美沙を大切にしてくれますか』という言葉の響きを、あれから美沙は何度も反芻した。
美沙でさえ気付かずにいた聡の気持ちを、春樹は感じていたのだろうか。いや、もしかしたら美沙自身の気持ちを。
優しさに溢れ、そしてお節介で、残酷な言葉。
急に春樹のその声と面影が脳裏に浮かび、美沙は息苦しくなった。
春樹のことはいつだって答えが出ないことばかりだ。考える毎に訳も分からず胸が苦しくなる。
美沙はもうそれ以上何かを考えるのをやめ、まだ10時だというのに、早々にベッドに潜り込んだ。
◇
たった一日会わなかっただけだというのに、その翌日の春樹はまるで別人だった。
普通に美沙に「おはよう」と言い、一昨日の災難をサラリとねぎらい、まだどこかで平然としているだろう高浜に悪態を吐く。その後は淡々と業務をこなし、外回りの調査へ出かけて行った。
すべてが春樹らしい言動だったが、やはり何かが違うのだ。
昨日聡が、“春樹君、雰囲気変わったね”と言ったが、そういう変化とも違う。
やはり春樹の変化は聡のせいだろうか。
割り切れない何かが春樹の中にあって。
『美沙を大切にしてくれますか』
その言葉はもしかしたら、そんなに深い意味はなかったのかも知れない。
あるいはそんな言葉を言ってしまって春樹本人は、酷く後悔しているのかもしれない。だから様子がいつもと違うのではないか。
そんなことを願ってしまう自分に気づき、美沙は心の中で苦笑した。
粗方その日の作業を終えたところで6時となった。
「春樹、今日はもう上がっていいよ。お疲れさま」
美沙がファイル棚の上段の整理を終え、振り向きざまにそう声を掛けた時だった。
春樹は音もなく椅子から立ち上がり、まるで人形のように表情の無い顔で、美沙を真っ直ぐ見た。
空気がその一瞬ピンと緊張し、美沙はまだ何も起こっていないと言うのに呼吸が出来なくなった。
「美沙、話があるんだ。少し時間をもらっていい?」
それは頭の芯が張りつめて震えるほど、異様な静けさを持った声だった。
美沙の足がすくんだ。
イヤだ、聞きたくない。自分の奥底の声がそう悲鳴をあげ、美沙は首を横に振った。
「大切な話なんだ。美沙、お願い」
その声は、懇願という名の強制だった。
春樹は窓辺の棚の前に立ちつくしている美沙に、ゆっくり近づいた。
「美沙に謝らなきゃならないことがある。たぶん美沙は否定すると思うけど、何も言わず聞いて欲しいんだ」
「何? ・・・謝られなきゃならないことなんか、何もないよ」
「何も言わないで。僕の話を聞いて、美沙」
美沙の体が再び震えた。
こんなに静かで優しげで、そして絶望的に憂いた春樹の声を聞いたのは初めてだった。
訳もなく目の前が崩壊する予感に満たされたが、美沙には春樹の言葉を止めることはもう出来なかった。
「妹を亡くしたという男の人が数日前、僕を訪ねてきたんだ。その妹さんは児童ポルノ犯罪に巻き込まれ、自分から命を絶った。その犯罪グループというのは、兄貴のやっていた闇サークルなんだって、その人は言ったんだ」
時折、窓の外や手元に視線を移しながらも春樹は、詩を朗読するように、淀みなく淡々と語った。
美沙は今すぐこの部屋を飛び出したい衝動に駆られながら、しかしまだ現実のものと受け止められない思いで春樹の声を聞いていた。
「けれど兄貴と父と母が火事で死んだあの日、その犯罪グループはネット共有ファイルを全消去し、解散したんだ。まさに、その夜に」
もう止めてくれと美沙は小刻みに首を横に振ったが、春樹は話し続けた。
「僕はあの火事の直前、兄貴が二人の人間に電話を掛けていたのを知ってる。一人はもちろん美沙。そしてもう一人。美沙よりも30分以上前に電話を掛けていたのが、兄貴のサークルのリーダー竹沢。僕はずっと前美沙に訊いたよね。最後に兄貴と何を話したの? って。美沙は他愛もない話だと言った。でも、そうじゃなかった」
「嘘じゃないわ!」
「もういいんだよ美沙。僕、隆也と二人で竹沢に会いに行ったんだ」
「どうして! どうしてそんなことしなくちゃいけないの? なんで・・・」
「妹さんを亡くしたその男の人も、そしてその話を聞いてしまった隆也も、兄貴を疑ってしまっていたから。僕は無実を証明したかったんだ。ちゃんと確かめたかった。でも・・・嘘だった。今まで僕が信じてたことは、みんな嘘だったって分かったんだ。僕が好きだった兄貴は・・・」
「あなた、その竹沢って人に触ったの!?」
美沙の叫び声のような問いに、春樹はほんの少し目を細めた。
それは笑ったのか、それとも苦痛に歪めたのか分からない仕草だった。
「兄貴は児童ポルノ犯罪グループの、サブリーダーだった。そして・・・あの夜、父と母を殺して火を付け、自分の命も絶ったんだ」
きっと何かの間違いなんだ。この子がそれを口にするなんて。こんなの、絶対おかしいんだ。
美沙は気のふれそうなそんなセリフを淡々と穏やかに語るその少年に、ただ絶望の共鳴をすることしかできなかった。




