第20話 溢れだす
「どう? あれから少しは落ち着いた?」
聡は美沙の目を気遣うように覗き込みながら、そう訊いてきた。
その日の昼過ぎ、マンションに籠もっていた美沙を誘って聡が連れてきてくれたこの喫茶店は、落ち着いたレトロな雰囲気と香ばしいコーヒーの香りで、美沙をとてもリラックスさせてくれた。
「局長、落ち着いたも何も、私まったく何ともないですから。そんなヤワな女に見えますか?」
美沙は心外さをアピールするために不機嫌に言ってみたが、聡はそんな美沙に、ただ優しく笑いかけてくるだけだ。
癪ではあったが、しかしこうやって心底自分を気遣ってくれる目の前の男は、美沙の中で日に日に存在感を増していた。
守られたいとも甘えたいとも思ったことの無い自分が、軟弱になったものだと、少し腹立たしくもあった。
「ところで春樹君に今朝会ったんだけど、彼、雰囲気変わったね」
「春樹に?」
その名が出るだけで美沙の胸が鈍く痛んだ。
「うん。今回のことを大まかに説明して、美沙ちゃんのことが解決するまで本社においでって言っておいた」
「春樹は何て?」
「美沙ちゃんが『そうしろ』っていったら、従うって。なんかさ、彼、本当に君にだけ忠実だよね。探偵社に勤めてるっていうより、君に仕えてるって感じで」
「やめてくださいよ。何だか犬みたいに聞こえる」
美沙は苦笑した。
「いや、ちょっと妬けたもんでね。君たちの関係に」
「私たちはただの未熟な上司と、子供っぽさの抜けない新入社員ですよ」
「じゃあ、春樹君が君に想いを寄せてるってことは、ありえない話?」
「・・・は?」
あまりに唐突に切り替わった話の軌道に、美沙は動転して裏返った声を出した。
「この間、薫がそんなそんな話を振ってきてさ。そんなことないだろって薫には返したんだけど、その時なんとなく落ち付かなくなってね。俺は少しばかり焦ったのかもしれないな。18歳の少年に、40過ぎのこのオッサンが、だ」
美沙は目を見開いて正面に座る男を見つめた。
《いったい何の話をしてるんですか》、と言おうかとも思ったが、美沙は素直に話の先を訊くことを選んだ。
純粋に、目の前の男が何を思っているのかを、ちゃんと知りたいと思ったのだ。
「実はね、春樹君を正式に本社に引き入れようと思ってるんだ」
「春樹を?」
「行方調査だけでこの先、二人の生活を賄うだけの収入を得るのはきついはずだ。君さえ良ければ春樹君にそう言ってみようと思うんだが」
「いえ、素行調査、浮気調査の導入も考慮しています。そんな心配は無用です」
「浮気調査は君が思っているよりも精神の負担になる。君のプライドさえ許せば、君も本社に来て欲しいんだ。本社の行方調査のエキスパートとして」
「鴻上支店は必要無いと?」
少しばかり冷ややかに言っては見たものの、美沙はその不躾な提案に、不思議と怒りや不快感は湧いてこなかった。
ただ自分は、この話を断って、今日は帰るのだなとボンヤリ予測した。
「必要無いんじゃない。必要だから本社に取り込むんだ」
「じゃあ吸収合併?」
美沙は自分で言って、自分で可笑しくなり、クスクスと笑った。
「仕事が手につかなくてさ」
けれど急に繋がらないセリフを投げてきた聡に、美沙は笑うのをやめ、目の前の男を見つめた。
「高浜のことがあってから、心配でたまらないんだ。同時に今も街をうろついているかもしれないあの男を思うと、殺してやりたいほど腹が立ってくる。君が一人でマンションに籠もっていても、心配で仕方なくなる」
「・・・局長?」
「君を守りたいと思った」
聡はテーブルの上の冷めたコーヒーに向けていた視線をゆっくり上げて、美沙の視線に絡めた。
「君が大切なんだって思い知らされた。君を守りたい。これからずっと守って行きたい」
それはあまりに唐突すぎて、言葉の意味を半分も理解出来ぬまま美沙は、何か言わなくてはと、必死で考えた。
けれど情けなくなるほど何の言葉も浮かんでこず、微かに口を開けたまま美沙は、ただ聡の目を見つめ返すことしか出来なかった。
張りつめた沈黙を破ったのは、再び視線をテーブルに戻した聡の方だった。
「昨日、電話で春樹君と話した時にね」
「・・・はい」
凝りもせず、その名に美沙の心臓がトンと跳ねた。
「春樹君に言われたんだ。唐突に」
「春樹に?」
「美沙を、大切にしてくれますか? って」
「・・・」
「もしかして、春樹君は俺の気持ちに気づいてて、応援してくれてるのかな・・・なんて、ちょっと思ったりしてさ」
目の奥が熱く痛んだと思った時にはもう遅かった。
感情の動きよりも先に、涙が美沙の目から溢れ出し、熱いまま頬を伝った。
それは美沙自身を驚かせ、そして同時にもう、この涙は止まらぬのだと瞬時に諦めた。
今まで眠らせていた感情が一斉に目覚め、悲しみも憎しみも愛おしさも、一切合切が寂しさに変換された瞬間だった。
『春樹・・・』
声にならない声が胸の奥から込み上げてきた。
そして今、初めて聞いた、春樹の心の声。
《美沙を、大切にしてくれますか?》
その瞬間、美沙の脳裏にその声が鮮明に再生された。
清らかで愛おしくて、けれど触れることを躊躇われた宝物は今、美沙の体からスイと離れ、二度と開けられないガラスのカプセルに封印された気がした。
切なさと無力感が涙となって美沙の頬を伝った。
春樹が何を思ってその言葉を聡に言ったのか。たぶん自分は分かっている。
その事が、震えるほど苦しかった。
春樹は、やはり美沙のことを、自分を見守ってくれている姉替わりの人間だと位置づけているのだ。
そして、春樹のそばにいることで、苦しんでいることを知っている。
知られたくない秘密があると言う、本当の理由はもちろん知らなくても、春樹はカンのいい子だから。
自分はやはり、春樹に気遣わせるだけの、情けない姉だったのだ。
そして春樹は、その情けない姉の幸せを願ってくれている。
聡に、その願いを託そうとした。
この、目の前の男に。
聡がひどく慌てて濃紺のハンカチを差し出してくれるまで、美沙は涙を拭うという行為も忘れていた。
「美沙ちゃん、ごめん。気に障ること言った? 俺、こういうの慣れて無くて・・・」
聡のハンカチをやんわり断り、自分のハンカチで目を覆いながら美沙は首を横振った。
まるで三流の恋愛ドラマのシーンみたいだと思いながら美沙は、「局長のせいじゃないんです。ごめんなさい。少しだけ待って下さい」と、声に出した。
ちょっと待って貰ったところで、今この胸の中に溢れる感情はどこに収めて良いものか分からなかったが、とにかく美沙は涙を止めることだけに神経を集中した。
春樹の為にも、春樹の事を少しだけ忘れてみようとした数分間だった。
美沙がゆっくりハンカチを外し顔を上げると、『待て』と言われて必死に言いつけを守っている犬のような目をして、目の前の男は座っていた。
心から美沙を想い、気遣い、愛情を示してくれた男。
自分なんかのために、これほどまで心を痛めてくれる。
「局長。少しだけ時間を下さい。なるべく・・・前向きに考えてみますから」
美沙は聡を真っすぐ見つめた。
聡はハッとしたように美沙と目を合わせ、「うん」と、弾かれたように答えた。
「・・・ねえ美沙ちゃん、それはどっちの返事?」
2分経ってからやっと、そう訊いてきた聡。
美沙は笑い、「吸収合併の件」とサラリと言ってみる。
ああ・・・、と少し悲しそうに微笑んで目を伏せた聡に、美沙は不思議なほど安堵を感じた。
溢れ出て来るこの感情はどこへ向かうのだろう。この人を愛おしいと思う、この気持ちは。
目の前の男への想いが膨らむほどに、胸を突き刺してくる悲しみが確かにある。
けれど、その悲しみは、悲しみゆえに美沙から遠ざかろうと身をひるがえす。
美沙の想いを知らぬまま、美沙の幸せだけを願っている。
だとしたら、それに応えてやることはもしかしたら、あの子の幸せなのではないだろうか。
春樹、ねえ、私は・・・この想いに従ってもいいのかな。
さっき遠ざけたはずの少年の面影を手繰り寄せ、無意識に訊いている自分がいた。
濡れたハンカチを握りしめながら、ただ祈るように美沙は、心の中の少年の答えを待ち続けた。
自分が、決して愛してはいけない、少年の答えを。




