第2話 新たな足音
佐々木和彦は、車が僅か2台だけ置かれている50坪ほどの月極駐車場を、ぐるりと眺めた。
古くからある閑静な住宅地に、まだアスファルトも新しいそのガレージは少しばかり異質だった。
けれどその異質感はもしかしたら、3年ほど前にこの場所で、3人の人間が焼け死んだことから来る寒気なのかも知れないと、佐々木は思った。
「あの・・・すみません、ここには以前、天野さんのお宅がありましたよね? 火事で焼けてしまったと聞きましたが・・・」
佐々木は、ちょうど箒をもって玄関先に出てきた左隣の家の中年女に、出来るだけ穏やかな表情で話しかけた。
25歳で小さいながらも雑誌社に入り、それ以来4年間、この人好きのする笑顔で他人との距離を縮め、取材をこなしてきた佐々木が相手だ。
最初こそ警戒の色をその目に浮かべていた女だったが、佐々木の柔らかな雰囲気に、すぐにそれを解いたようだった。
「お宅は、どちら様? 天野さんのお知り合いか、なにか?」
「はい、そうなんです。火事のことはつい先日聞きまして、凄くショックで・・・。実はずっと海外に行ってたものですから。昔、ここのご主人に就職の際、とてもお世話になったんです。まさか、こんな事になってるだなんて、思いもしませんでした」
佐々木は神妙な表情をつくり、ついさっき思いついたばかりの嘘を並べた。
ここの住人とは面識もなく、ましてや死んだ3人への哀れみなど爪の先ほども有りはしない。
ここに来たのは、情報収集の一環になればいいという、ただそれだけの目的だった。
「まあ、そうなの。本当にね・・・あんないいご家族が・・・。可哀想で、可哀想で。私もいつも思い出しては泣いていましたよ。末っ子の坊やが助かったことだけが救いでねえ」
ふくよかなその女の言葉に、佐々木は食いついた。
「一番下の息子さん、無事なんですよね。僕もそれを聞いたときは、ホッとしました。彼、今どこにいるか分かりませんか?」
「ええ、知ってますよ。春樹君、本当にいい子でね。ちゃんと転居先の案内ハガキもくれましたよ。だけど・・・」
女は佐々木の勢いにほんの少し気圧され、また再び訝しげな影を、その目に浮かべた。
「春樹君に会いたいんです。できればちゃんとご位牌に手を合わせて、お悔やみを言いたい。・・・今さらですが。そうしないと、なんだかやり切れなくて」
一瞬疑われたかと佐々木はヒヤヒヤしたが、その女は再び同情の眼差しを浮かべ、「ちょっと待っててね」と、家の中へ小走りに消えていった。
うまく行った。佐々木は胸をなで下ろした。
これで圭一の弟、春樹に会える。
あれから3年以上が経ってしまったが、もしかしたらここから何かの糸がほつれて来るかも知れない。
妹の屈辱を晴らせる鍵が見つかるかもしれない。
だが、焦るな。
過度の期待は持たず、ただその少年に会おう。
その上で、必要があればそいつを煮るなり焼くなりすればいいのだ。まだ焦るな。
佐々木は自分に言い聞かせ、そして春樹から届いたというハガキを持って玄関から出てきた、人の良い隣の女に優しく笑いかけた。
◇
「もしかして春樹、また昨日、大分に行って来たのか?」
この日も夕方から春樹のマンションに上がり込んでいた穂積隆也は、チェストの上の卓上カレンダーを見て、思わずそう訊いた。
昨日の日付け、12日のところに小さく丸が付けてある。
それは1ヶ月前に由布川で自ら命を絶った藤川咲子の月命日だった。
「うん。日帰りで行ってきた。毎月その日には行くことに決めたんだ。調査料、もらい過ぎちゃったし。あれを使い切るまでずっと続けるよ。何年かかっても」
二人分のコーヒーを煎れながらそう語る春樹は、まるで気軽な小旅行の話題をするように、カラリとした口調だった。
隆也はただ、「そうか」とだけ返す。
1ヶ月前に藤川咲子が死体で見つかった事を知った隆也は震撼し、いったい何があったのかと春樹に訊いたが、春樹はただ「分からない」と首を振るだけだった。
けれどそこには依頼人の不信死に対する驚きや悲しみは感じられず、代わりに何かを悟ったような、諦めてしまったような、隆也には想いの及ばない春樹の横顔があった。
藤川咲子と春樹の間に何かがあったのは感じたが、春樹が語りたくないと言うのならば、無理強いはしたくなかった。
呆れるほどいろんな不幸を背負い込んでしまったこの友人を、自分まで追い込むことはしたくなかった。
「でも、美沙には一応ナイショなんだ。僕の思いつきだから」
春樹は隆也の前に、煎れたてのコーヒーを置きながら、静かに言った。
冬が来ると、元々日焼けなどとは無縁のこの友人の肌は、白磁のように白く、更にきめ細やかになる。
隆也は何となくその頬にボンヤリ視線を置きながら、香りの良いコーヒーを啜った。
「へえ。そうなのか。・・・ああ、やっぱり春樹のコーヒーはうまいな。喫茶店のマスターでもやったら、凄く流行るんじゃない?」
「それもいいね」
琥珀色のガラスの瞳を細めて、春樹が柔らかく笑う。
隆也は僅かに視線を反らした。
調子を合わせる為の小さな冗談も、悲しげに思えてしまうのだ。
不意に壁の時計を見ながら春樹が言った。
「あ、ねえ隆也。時間大丈夫? 8時から夜のゼミが始まるんだろ? もう7時半だけど」
「うわ! もうこんな時間! やべっ。じゃあ春樹、俺行くわ。コーヒー、ごちそうさま」
隆也は礼もそこそこに、参考書の詰まったカバンを肩に掛けて、春樹の部屋を飛び出した。
2浪などすれば鬼より怖い母親から家を追い出されかねない。
なかなか模試の成績の上がらない隆也には、予備校をサボってる余裕など少しも無かったのだ。
エレベーターで1階に降り、マンションの玄関口に向かう隆也の目が、ふと一人の男を捉えた。
壁一面に据え付けられたメールボックスの前でじっとしている20代後半くらいの男だ。
普段ここの住人とすれ違っても、別段気にも留めない隆也だったが、その男の視線がどうにも気になった。
男がじっと見つめているのは405号室。 春樹のメールボックスなのだ。
半ば睨むように、ゆっくりすれ違おうとした隆也の視線に気付いたのか、その男は隆也の方に顔を向けた。
そして、一瞬の間を開けたあと、訊いてきたのだ。
「失礼ですが、もしかして・・・天野春樹さんですか?」