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第19話 決別

竹沢の腕を掴んだ瞬間、いつものようにその特異な感覚が春樹を満たした。

ザブンと水中に潜り込んだ時のように外界の音がくぐもり、そこからは春樹と、春樹が触れた人間の記憶だけの空間となる。

隆也が後ろから叫ぶ声が微かに聞こえた。

けれどもう戻れないのだ。さっきまでいた世界には。


竹沢が般若のような形相で睨んでくるのがわかった。

それは竹沢がその瞬時、天野圭一の記憶を最前線に引き出していることの現れだった。

溢れ出てくる、あの夜の記憶。

兄、圭一の電話越しの叫び声。

触れた肌から浸食してくる竹沢の記憶は、容赦の無い刃だった。


『竹沢、消去だ、ごめん! 親父にバレタ!』

「は? 何言ってんだよ天野!」

『まさか俺のPCファイル開かれるとは思わなくて! ごめん!』

「お前何言ってんのか分かってんのかよ! どうすんだよ!」

『すぐにビアンカを閉鎖してくれ。手持ちの全ファイル消去。親父、怒りまくってるんだ。もう手が付けられない。そう言う犯罪の撲滅に力を入れてきた人だから。ビアンカも探られるかもしれない。あいつ、息子だからって、許す奴じゃないんだ。頭イカレてんだ!』

「馬鹿ヤローが。ぶっ殺せそんな親父! お前どういう事か分かってんだろうな! 責任取れよ!」


滝沢の中に強烈に焼き付いていた、あの火事が起こる前の電話の記憶だ。

そして混在して流れ込んで来るのは、サークルとは名ばかりの、児童ポルノ犯罪の巣窟。

商品画像の収集、売買、被害児童のあどけない顔、裸体。おびただしい数の、目を背けたくなる映像の数々。

それらを眺める竹沢、その他のメンバーの高揚した笑い。

竹沢の中にある、“これは誰を痛めつけるでもない、まったく正当なビジネスなのだ。”という信じられない理念。

その狭間には兄、圭一の姿も混ざり込んでいる。春樹の知らない、天野圭一という男の。

竹沢の感情を通した天野圭一は、歪んだ性癖を持ち、厳格すぎる親に反感を持つ、時として感情の不安定な、同族だった。

そこには、春樹の知っている「兄」は、居ない。

竹沢と同等の欲情した笑いを画像に向ける、知らない男だった。

そしてその男の生涯は、竹沢の中で 《あの夜、ちゃんと始末をつけて逝ってくれた》 という安堵の結末で幕を閉じられていた。


ほんの数秒のうちに取り込まれた莫大な量の情報は今、春樹の感情を醜悪なもので満たし、絶望させ、崩壊ギリギリの痛烈な負荷を与えた。


「何だよ! 放せ、コラ!」

春樹の手を乱暴に振り払いながら「こいつ、頭おかしいんじゃないの?」と隆也の方を見て吐き捨てるように言ったあと、竹沢は逃げるようにレストランのほうへ走り、ドアの中に消えてしまった。



         ◇


「春樹!」

その場に呆然と立ちつくす春樹に走り寄りその肩にそっと手を置いたが、しかし隆也は自分がこの瞬間掛けるべき言葉がまるで見つからない。

ただ、春樹のダメージだけは、訊かなくても分かっていた。

春樹は知らなくていい真実を知ってしまったのだ。

蒼白な頬も、見開いたまま見えない何かを見つめている瞳も、もうさっきまでの何も知らなかった少年のものではないのだ。


「行こう、春樹。帰ろう」

傍を通り抜けてゆく人々の好奇な視線がうざったくて、隆也は春樹を帰路の方向へ促した。

悶えるほどの後悔と自戒の念が、隆也の中に溢れかえっていたが、もうどうすることもできない。

予測できた高熱の炎に自ら飛び込んだのは春樹自身であり、これからその衝撃との戦いが始まる事もきっと、本人は承知しているのだ。


もう、戻れないのだろう。

ならば自分の役目はただ一つだった。


「マンション、帰ろうな、春樹」

「・・・うん」

「タクシーのほうが、いい?」

「いや・・・大丈夫」

「何か食い物買ってかえろうか」

「隆也」

「ん?」

「・・・訊かないのか?」

ゆっくりと歩を合わせて駅の方向へ歩きながら、春樹は表情の戻らない青白い顔を、フッと隆也に向けた。

「うん。訊かない。3年前の真実なんて、俺にはどうだっていい」

「・・・」

「俺は春樹がこれ以上何かで苦しむのが嫌なんだ」


カサカサと街路樹が音を立て、そのあと乾いた冷風が二人の間を吹き抜けていった。

春樹は黙ったまま身を縮ませ、ゆっくり歩きながら隆也の言葉を聞いている。


「だって、春樹は何もして無いじゃないか。春樹は少しも悪くないのにさ。こんなの・・・おかしいよ」

隆也は声が怒りでうわずらないように、必死でセーブした。

自分が激高して取り乱すのだけは止めたかった。

自分の横を歩くこの友人の心の中に、今どんな嵐が吹き荒れているのか予想すらできない自分には、ただ静かに寄り添う事しかできないと思った。


「春樹は少しも悪くない・・・って・・・」

春樹はふいに小さな声でポツリと言った。


「え?」

「兄貴がさ、僕が学校で虐められたり、親に酷く叱られたあと、必ず言ってくれたんだ。“春樹は少しも悪くないよ。悪いのは、全部あいつらだ ”って。だから、そんな悲しい顔すんなって。いつも優しくて、僕の味方で。大好きだった」

「・・・そう」


「あの兄貴は、・・・もういないんだね」


隆也は返事ができなかった。

脳天に突き上げるような悲しみと、この不条理への憤りで目の前が霞み、嗚咽を漏らしそうだった。


その言葉は隆也への問いかけではない。

春樹自身の何も知らなかった過去との決別の声であり、痛々しい、諦めの言葉だったのだと隆也には思えた。



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