第17話 沼の淵へ
翌朝、立花探偵社本社の社長室のドアがノックされたのは、9時を少し回った頃だった。
「15分遅刻だな、春樹君」
ドアを開けてやりながら聡が冗談っぽくそう言うと、春樹は申し訳なさそうに小さく頭を下げた。
春樹を応接用ソファに座らせると、聡もその正面に腰をおろした。
久しぶりに見た天野春樹は、顎のラインが細くなったせいか以前感じていた幼さが消え、説明し難い静けさを内包していた。
目をやるとスッと視線をそらせるその瞳はガラスで出来た人形のそれのようで、内面が見えない。
美沙の身に起こっている災難を伝えて置いた方が良いだろうと春樹をここに呼んだのだったが、聡は少しばかり戸惑っていた。
春樹の雰囲気の変化に。
そして昨夜の電話の最後、眠そうに小さく呟いた、春樹のあの言葉に。
「休んでくれと言いながら、呼び出してすまなかったね。実は、美沙ちゃんの事なんだけど」
「美沙の?」
春樹はそこでやっと我に返ったように瞬きをし、聡を見た。
「実は昨夜少し騒動があってね。君、高浜明雄という男を覚えてる? 君も関わったことのある案件の依頼人だ」
聡はかいつまんで昨日までの経緯を説明した。
高浜という少し歪んだ性癖を持った男が美沙に付きまとっていたこと。そしてついガードを緩めた昨夜、危うく美沙は高浜に襲われそうになったことを。
春樹は全く初耳だったらしく、目元に怒りを湛えながら、それでも一言も発することなく静かに聡の話を聞いていた。
「美沙ちゃんは今日は休むことを了解してくれたけど、明日からは普通に事務所を開けると言って聞かないんだ。高浜も結局昨日は逃げ切られてしまい、今どこに潜んでいるのか分からない。警察のほうにも届けてはあるが、彼らの仕事を俺はあんまり当てにしてないからね。本社で手が空いたものに捜索させたり、こちらでも手を尽くしてる。でも、そうは言っても奴が野放しにされてる中、彼女を出歩かせるのはやっぱり不安なんだ。美沙ちゃんの仕事はデスクワークばかりじゃないだろ?」
「・・・はい」
「それでさ、美沙ちゃんには、あの男が捕まるまで休業して貰おうと思ってる。損失は本社で補う。今回の事は高浜の依頼を鴻上支店に回した本社の責任でもあるし、介入させて貰いたいんだ。そして君にはそれまで本社の方に来て欲しい。そうすれば、彼女も納得するはずだし。・・・どうだろう」
「本社に?」
春樹は色の薄い、悲しげに見える目をして、静かに聡を見つめてくる。
弟の薫は 『あの目がさぁ、堪らなくいいんだ』 と事あるごとに言うが、聡はなぜか、訳もなく胸が疼いて落ち着かなくなった。
「嫌か?」
「いえ。美沙と相談します。彼女がそうしろと言えば、僕はそれに従います」
「そうか、良かった。そうだな。君の上司は俺じゃなく、彼女なんだから」
「お話は、それだけですか?」
「ん? ・・・ああ、それだけだ」
聡は抑揚のない声で言う春樹に再び戸惑いを感じた。
もっと興奮して高浜のことや昨夜のことを訊いて来ると思っていたのだか、拍子抜けしてしまった感がある。
この少年は、こんな感じだっただろうか。
「では、失礼します」
春樹はそう言って立ち上がり、聡に一礼するとすぐさまドアの方に向かった。
「春樹君」
聡が自身も立ち上がり、慌てて呼び止めると、ドアノブに手を掛けたままの春樹が振り向いた。
「ねえ、昨日の電話で君が最後に言った言葉なんだけど・・・」
「電話の最後? 何ですか?」
春樹は少し不思議そうな顔をして聡を見つめ、聡は聡で、なぜ自分がそんなことを今切り出したのか分からなかった。
ただ異様に恥ずかしくなり、そのままの姿勢でじっとこちらを見つめてくる純真この上ない琥珀の瞳から、一刻も早く逃れたかった。
「あ・・・いや、いいんだ。ごめん、何でもない。美沙ちゃんに会ったら外出はなるべく控えるように言って貰えるかな。やむを得ず外に出る場合は、極力俺が付き添うからって」
春樹はドアノブに手を掛けた姿勢で聡をじっと見つめた後、ふっと何かを諦めたような、そんな切ない目をして柔らかく笑った。
「分かりました。伝えておきます。いろいろありがとうございました」
最後に小さくそう言うと、少年は静かに社長室を出ていった。
聡は一人になった部屋の壁に一度だけぐるりと無意味に視線を走らせ、そしてそのあと自問した。
自分は今、何か良くないことを言っただろうか。
けれど思い当たる事は無かった。失言は取りあえず無かったはずだ。
それなのに、息子ほど歳の離れた少年に何か酷いことを言ってしまったような罪悪感が、その場を満たしていた。しばらく考えたが、やはり思い当たらない。
きっとあの少年の生まれついての憂いた目のせいだ。 風のような声のせいだ。
この罪悪感も昨日の電話も、すべては、それらによる気のせいなのだ。
聡はとにかくそう割り切ることにして、少しばかり気疲れした身をソファに沈めた。
◇
その本社ビル、1階のエレベーターホールで、隆也は春樹をじっと待っていた。
20分ほど前、ここから社長室に向かう春樹を見送った。
まるで主人を待つ忠犬のように、隆也は身動きもせずに同じ場所に佇んでいた。
「早かったな、春樹。何か厄介な話だった? 社長の呼び出しって」
やがてエレベーターを出てきた春樹に、隆也は少しばかり慎重にそう切り出した。
これから“戦地”へ向かう友人には、これ以上重荷を背負って欲しくなかったのだ。
「いや、何も」
「何も?」
「うん。ただの業務上の伝達事項ってやつ」
「なんだ、そうか」
あまりに春樹がカラリと言うので、隆也は拍子抜けしたように息を吐き、少しばかり笑った。
「ねえ、隆也」
ビルを出て、地下鉄の駅に向かいながら春樹が訊いてきた。
「ん?」
「立花局長って、いい人だよね」
「は?」
「・・・いい人だよね?」
真っ直ぐ前を見たまま強引に訊いてくる春樹の横顔を少し唖然として見つめながら、隆也は眉をひそめた。
「いや、いい人かと訊かれてもね・・・。俺、局長に会ったこと無いし」
隆也がそう言うと、春樹は“え”といった表情をし、途端に恥ずかしそうに笑った。
「そうだっけ」
「うん、そうだ」
春樹が笑うので隆也もなんだか可笑しくなり、クスクスと笑った。
その笑いは互いを触発し会ってしばらく続き、隆也を嬉しくさせた。
何でもいい。意味のないことでいいから春樹には笑っていて欲しかった。
カラ元気でもいいから、笑っていて欲しかった。
これから春樹と自分は何が潜むか分からない沼の淵まで行くのだ。
竹沢という沼の主が、ただの魚なのか、人食い怪魚なのかを確かめるために。
もし後者だとすれば、春樹の足元は崩され、新たな苦悩の泥水の中に落とされる。
それでも春樹は、行こうというのだ。
「ねえ隆也。竹沢って人の職場まで、ここからたった5駅だよ。近いんだな」
地下鉄の券売機の前で、路線図を見上げながら春樹は何気ない口調で言った。
《なあ、春樹、やっぱりやめよう。引き返そうよ》
何度も口をついて出そうになるその言葉を飲み込み、隆也はただ静かに「そうだな」、と返した。




