第16話 決断
隆也は予備校からほんの数分歩いたところにある公園に春樹を連れて行き、寒々とした街灯の下で、自分が腹に溜めていること全てを話した。
多分、散らばった記憶を短時間拾っただけの春樹は、隆也の想いを半分も読んではいないだろう。
もう春樹に触れられても何も恐れなくて良いように、全てを話した。それが春樹へのせめてもの罪滅ぼしだと思った。
春樹を追いつめ、春樹が最も忌み嫌うあんな行為に至らしめたのが自分のせいだと言うことが、春樹に触れられて初めて隆也にも伝わってきたのだ。
春樹は隆也と並んで石造りのベンチに座り、人形のように動かず俯いたまま、隆也の話をじっと聞いていた。
激高するでもなく、ただ隆也の言葉を余さず受け止めようとしている。
きっと怖くて仕方ないのだろう。手が白くなるほど強く拳を握りしめている。
隆也はまるで今、自分が春樹に死の宣告でもしているかのような錯覚に陥り、臓腑の凍る思いがした。
佐々木から聞いたことは全て推測であり、自分はそれをひっくり返してやるために美沙に真実を訊こうと思ったこと。
そして決着を付けるまで春樹には会わないようにしようと思ったこと。
隆也は殊更それを強く春樹に伝えた。
すべてを聞き終えても春樹は握りしめた手を緩めることはなく、前方の闇を見つめたままだった。
悲痛な無言の時間が二人の間を流れた。
隆也は改めて自分を呪い、佐々木を呪った。
この3年、散々苦渋を味わってきた春樹を、どうして更に苦しめてしまうのか。
圭一の話は誤解であるに違いないが、春樹に与える傷は計り知れない。
笑い飛ばせる勘違いではないのだ。
「隆也」
その痛いほどの沈黙を破ったのは春樹だった。
「兄貴はそんな事、しない」
「もちろんだよ! 俺は少しも疑ったりしてない。だから美沙さんに確かめようと思って」
「美沙が本当の事を言うと思う? もしも佐々木さんの話が真実だとして」
そう言うと春樹は初めて顔を上げて隆也の目を真っ直ぐに見た。
そこにいるのはさっきまでの、自分を見失った春樹でも、いつもの温和な春樹でもない。
3年前と同じ、深い悲しみを心の中で凍結させ、表面だけで穏やかな笑みを浮かべる、あの春樹だった。
「美沙さんが違うと言えば、違うんだ。それでいいじゃないか」
「でも、そこに真実は無いよ。美沙は嘘を吐くのが巧いんだ。佐々木さんを納得させる前に、僕が納得できない。美沙に口で訊くことは無意味なんだ」
「春樹?」
「大丈夫。僕は美沙に指一本触れないよ。死んだって触れない」
そうサラリと言う春樹の瞳は冷たく厳しい光を帯びていた。
白か黒かで春樹のいる世界は180度姿を変えてしまう。
春樹の宝物であるはずの家族との優しい思い出も、そしてこれから先、未来も。
死ぬまで知らなければそれで良かったものを・・・。
「ほら。不安な顔してる、隆也。佐々木さんの話、どこかで真実かも知れないって思ってる」
横から春樹がぽそりと言った。その唇が薄く笑っている。
「そんなことない! 絶対、そんなことあるわけないだろ!」
「うん。・・・そうだよね。あるわけない」
「春樹、なあ!」
もうやめてくれ。そんな声を出すな。隆也は叫びたいのを必死で堪えた。
「春樹、どうすればいいと思う? 俺、何でもするよ。お前の言うとおりにする」
「竹沢という人の現住所、わかる?」
春樹は少し事務的な口調で返してきた。それはまるで、仕事の時の春樹の口調だ。
「佐々木さんに訊けばすぐ分かると思う。確か院を去年卒業して、家電系の大手メーカーに就職したって聞いた」
「分かったらすぐに連絡くれる? 僕、会いに行くから。真実を聞き出す」
「俺も行くよ。邪魔はしない」
「うん。隆也が来てくれたら心強いよ」
そう言って、春樹は笑った。
なぜ笑う事が出来るのだろう。
兄の無実を信じ切っているからなのか。それとも感情の閉じこめ方を身に付けてしまったのか。
答えのない不毛な問いばかりを頭の中で巡らせていると、横で春樹がスッと静かに立ち上がった。
「寒いね。帰ろうか、隆也」
「・・・ああ。そうだな」
そう返すのが、やっとだった。
◇
マンションの自室に帰ってきた春樹は、薬箱の底から3年前に医師からもらった睡眠薬を取り出し、キッチンのステンレス台の上に3錠ほど転がした。
一回に何錠飲めばいいのか分からなかったが、取りあえず3錠を全部口に放り込み、水で流し込んだ。
3年前の薬は効くのだろうか。
袋の中にある睡眠薬を全て飲んだら、明日の朝はもう目覚めないんだろうか。
馬鹿らしい、無意味な疑問で頭をいっぱいに満たしながらシャワーを浴び、軽く拭いただけの裸の体を、そのままベッドに潜り込ませた。
直に素肌に触れる柔らかい毛布の感触が心地よく、そして懐かしかった。
春樹がまだ幼稚園の頃、圭一とふたり、風呂上がりにワザと素っ裸のままフカフカの母親のベッドに潜り込み、その度に母に呆れられた。
いつも首謀者の圭一は、逃亡間際にピシリとお尻を軽く叩かれる。
春樹は軽々と母に引きずり出され、人形のようにパジャマを着せられた後、『イタズラするときが一番仲がいいよね、あんた達』と言って、頭をくしゃくしゃっと撫でられた。春樹ばっかり贔屓だ、と圭一は頬を膨らまし、春樹はチロッと舌を出して、いつまでも母の膝から降りなかった。
そんな昔のことを頭の片隅で思い出しつつ、一方で、ちゃんとパジャマ着なきゃと、生真面目な自分がせっつく。
体が重かった。頭に霞が掛かったようにボンヤリする。
薬が効いてきたのだと、春樹はほんの少しホッとした。
よかった。もう何も、考えたくなかった。
ボンヤリした頭のすぐ側で虫の声がした。ジリジリと唸っている。
虫じゃないな、携帯だ。
春樹は反射的に腕を伸ばし、力の入らない手でサイドテーブルから何とか携帯をつかみ取り、ベッドの中に潜り込ませた。
「はい」
相手の名前も確認せずに、目を閉じたまま、くぐもった声で電話に出た。
『春樹君? ごめん、もう寝てた? 立花だけど』
「・・・薫さん?」
『いや、聡だ。美沙ちゃんが電話とメール入れたらしいけど、君が応答しないもんで』
「ケイタイ・・・部屋に置いて出かけてたんで・・・ごめんなさい。気が付きませんでした」
春樹はボンヤリした頭でそう答えた。
なぜ聡がそんな内容の電話をくれるのか、疑問に思うほどの思考能力も、今の春樹には無かった。
『明日はちょっと事情があってね、鴻上支店は休業になる』
「・・・はい」
『その事情について、君にも話して置きたいことがあるんだ。朝9時までに本社の私のデスクまで来てもらえるかな。20分ほどで終わる。君に説明したい』
せつめい・・・。何の?
春樹の意識は瞼とは対照的に更にフワフワと軽くなり、先程見た聡と美沙の寄り添う姿が幻のように浮かんでは消えた。
幻の中の美沙はどの記憶よりも可憐で美しく、その桜色の頬も唇も、幸せな一輪の花のようだった。
『いいね、春樹君。明日、本社に9時だよ』
「局長・・・」
『ん?』
「ミサを・・・」
『何? よく聞こえなくて』
「美沙を、大切にしてくれますか?」
『・・・え』
春樹の意識はそこで睡魔にさらわれ、深い眠りの底に落ちていった。
オフボタンを押されなかった携帯は、しばらく唖然としたままの通話相手に繋がっていたが、そのうちプツリと切れ、春樹の手からもこぼれ落ちて、床の上にゴトンと転がった。




