第14話 ヒトリ
数日前に買った参考書と問題集が、無造作にソファに投げ出されたままだった。
少しばかり外で時間をつぶして帰宅した春樹は、ぼんやりとそれらを手に取り、パラパラとめくりながらソファに沈み込んだ。
英語も数学も物理も、まだ高3レベルの知識は残っており、目についた代数の問題を傍にあったボールペンとメモ用紙を使って数問解いてみた。
けれどそんなふうにして潰せる時間は僅かであり、あとはまた虚無と倦怠感が春樹に覆い被さった。
チラリと視線を上げると、ローチェストの上の写真立ての中から両親と圭一が、穏やかな笑顔で春樹を見つめている。
春樹はじっとそれを見つめた。
その笑顔は、とても幸せそうに見えた。
「なんだか、そっちの方が楽しそうだな。一人は、つまんないよ」
ふだん言ったこともない独り言が、つい口を付いて出てきた。
圭一が《そうだろ?》と、写真の中で笑った気がした。
・・・ねえ、兄貴。美沙に嫌われちゃったみたいなんだ。隆也にも。どうしたらいいかな。
小さい頃はいっぱい、そんな悩み聞いてくれたよね。もう、相談には乗ってくれないの? 昔はいつも、“春樹は悪くない。”って言ってくれたのに。その言葉だけで、すごく安心できたのに。
春樹は再びじっと写真を見つめたが、父も母も圭一もただ穏やかに笑い、春樹を見つめているだけだった。
「どうして3人とも居なくなっちゃうんだよ。酷いと思わない? 僕だけひとりぼっちだ」
ふいに目頭がじわりと熱くなり、春樹は慌ててギュッと目を閉じた。
深呼吸を繰り返した後、洗面所に走り、顔を洗った。
泣くのはやめたのだ。
泣いてどうにもならないことなら、胸を潰すだけ無駄だから。
洗面台に立っていると、リビングで携帯がコールを始めた。電話のコールだ。
春樹は相手の名を確認するなり、慌てて電話に出た。
「隆也? どうした?」
『あ、春樹? あのさ、変なこと聞くようだけど・・・』
「何?」
『美沙さん、もう帰ってるかな』
「美沙?・・・今日は用事があるって言ってたから、まだだと思うけど」
春樹は三日ぶりの隆也からの電話に少し緊張し、「ちょっとまって。見てくるから」と、携帯を耳に当てたまま廊下に飛び出した。
美沙の部屋のドアスコープから光は漏れていない。
帰宅していないことを確認すると春樹は、廊下に立ったまま隆也に伝えた。
「まだ戻ってないみたいだけど、どうした?」
『いや、それならいいんだ。ちょっと訊きたいことがあっただけだから』
「あれ? 携帯番号知らない? 教えようか?」
『いや、大丈夫。急ぐ用事じゃないしね。騒がせてごめんな』
「あ、隆也!」
すぐさま電話を切ろうとした隆也を春樹は慌てて止めた。
隆也の電話の内容の矛盾も、廊下に突っ立ったまま喋っている自分の奇妙さにも意識が及ばなかった。
「隆也、今夜はゼミ? 終わったらちょっとウチ、来ない?」
『え・・・でも、けっこう遅くなるよ。明日も仕事なんだろ? また今度にするよ』
「どうして?」
『・・・何が』
「隆也はいつも11時だろうが12時だろうがお構いなしにフラリと遊びに来てたじゃないか」
『悪かったよ』
「そんなこと言ってるんじゃなくて」
『ごめん、・・・またな。また寄せてもらうから』
そこで電話は切れた。
春樹は携帯を持った手を見つめながら、シンと静まりかえった廊下で一つ、息を吐いた。
何もかも分からないことだらけだった。
隆也の態度も、突然の電話の意味も、自分の言った、我が儘も。
まるで、聞き分けのない子供みたいだ。
こんな事やればやるほど、隆也に疎ましく思われるだけなのに。
春樹は携帯を握りしめたまま、重い足取りで自室の方へ向かった
もう何も考えるのはよそう。風呂に入って、少しばかりビールを飲んで、今日はちゃんと眠ろう。
ドアレバーに手を掛けた時だった。
エレベーターがこのフロアで止まる音がし、春樹は慌てて自室に滑り込んだ。
美沙だろうか。
そう思っただけでなぜか心臓がバクバクと早く鼓動した。つい数時間前まで同じ部屋で一緒に仕事をしていた相手だというのに。
そっとドアスコープから廊下を覗いてみる。別段、その時の春樹の行動に深い意味は無かった。ただ、美沙かどうか確認したい、それだけの事だった。
けれど、ドアの前を横切っていく影は、思いがけず二つだった。
一つは美沙。そしてもう一つは立花聡。
二人はお互いを庇い合うように寄り添い、ゆっくりと春樹の視界を横切って行った。
体中がすーっと冷たくなるような、もう今までの自分に戻れなくなってしまったような、絶望に似たさびしさに包まれながら、春樹は一歩、ドアから離れた。
それ以上考えることを拒否した頭のままリビングに戻り、ストンとソファに座り込んだ。
目は部屋の壁をぐるりと一周し、そしてローチェストの上の家族の写真に落ち着いた。
やはり3人とも穏やかに笑っている。
憎らしいほど平穏な笑顔で、『どうしたんだ? 春樹』 と口々に尋ねてくる。
「なんでもないよ。大丈夫」
3人が見ている前で泣きたくはなかった。
春樹はただじっといつまでも天井を仰ぎ、気持ちが落ち着くのを静かに待ち続けた。




