第13話 屈辱
《今夜は送って下さらなくて大丈夫です。春樹の親友の男の子が、今夜相談があると電話をくれたので。仕事帰りに会う約束をしました》
その日の仕事も一段落したころ、美沙は聡にそうメールを打ち送信した。
この頃、一日に何度も聡とメールのやり取りをするようになった。最初は聡からの他愛もないメールがきっかけだった。
《ほら、通りがかりの路地でこんなきれいな花を見つけた。なんて花だろう》と、夜中に月下美人の写メを送ってきたり、《この看板笑える》と、奇妙な文章の看板の画像を送ってきたり。
その度に美沙は笑い、今まで味わったことのない温かさに包まれるのだ。
聡なりに美沙の不安を和らげようとしてるのが伝わり嬉しかったが、そうは言っても社長と支店員との距離は保たねばとい思い、美沙は堅い口調を崩さないように努めた。
「ねえ、美沙」
ふいに春樹に話しかけられ、美沙はハッとして顔を上げた。
デスクの美沙を見つめる春樹は、仕事中の無表情を解いて、またいつものあどけない少年の目をしていた。
〈冬〉はさらにこの少年の肌を滑らかに白くし、頼りなさげに見せる。
この瞳がこうやって真っ直ぐ美沙を見つめてくるのは何日ぶりだろう。
美沙はなぜか居心地の悪い胸の痛みを感じ、壁の時計に目を泳がせた。
「もう定時だから、帰っていいわよ。お疲れさま」
「ねえ美沙。今日は一緒に帰らない? たまにはいいでしょ?」
「え? 今日?」
トンと美沙の心臓が跳ねた。なぜ今日にかぎって。
何となく一緒に帰ることはあっても、わざわざ春樹からそんなことを言ってくることは今まで無かった事だった。
「ごめんね、今日はちょっと帰りがけに用事があって。春樹は先に帰りなさい」
美沙がそう言うと春樹は一度ゆっくり瞬きしたあと、「そっか」と軽く言い、「じゃあ、お先に」と、すぐさま事務所を出ていった。
何気ないやり取りだった。
けれど美沙の胸は鉛を呑み込んだように重く息苦しく、心当たりのない罪悪感に襲われた。
今日の事は隆也が“個人的な相談だから、春樹には内緒で会ってほしい”と言ってきたので、春樹にも言えなかった。
ただ、それだけなのだ。
それなのに襲ってくるこの重苦しい罪悪感は何なのだ。
さっきのすがるような春樹の目は何なのだ。
美沙は春樹が消えたあとの事務所で一人、隆也との待ち合わせまでのほんの30分の時間を、悶々として過ごした。
◇
隆也と待ち合わせる約束をした喫茶店は、歩いて10分少々の所にあった。
表通りから少し離れた、目立たない場所にあるコーヒー専門店で、内密の話をするには丁度いいブース式の席になっている。
事務所に来るのを嫌がる依頼人と会うのに、美沙は時々その喫茶店を利用していた。
けれど、今日の待ち合わせにそこを指定してきたのは隆也のほうだった。
事務所では、春樹に聞かれてしまうかもしれないとでも思ったのだろうか。それほど内密な話だということなのか。
隆也が自分に相談など、始めは冗談かと思い、「マジで?」と昨夜は電話口で半笑いしてしまった。
けれど隆也の口調はいたって真面目で、美沙も口調を改めなければならなかった。
と、同時に咄嗟に感じたのは〈春樹の事ではないか〉という懸念で、そしてそれは不安へと変化した。
春樹の事となると、すぐさま不安へ直結する思考回路が、美沙には疎ましかった。
隆也に会うまでは余計なことは考えずにおこう。
勝手に気を揉んでも、全くの杞憂に終わるかもしれないのだから。
詮索しないこと。
ただそれだけを頭の中で念じながら美沙は目的地に向かい、ひたすら歩いた。
自分のコツコツと響くヒールの音とは別に、もうひとつ鈍い靴音が響くのを感じたのは、すれ違う人もまばらになった細い路地だった。
始めは気にしなかったが、美沙が角を曲がっても同じコースをたどり、少しずつ近づいてくる足音が次第に不気味に思えてきた。
数日前、たった貼り紙一枚で味わった恐怖心が、ジワジワと再びその胸に込み上げてきて、振り向くことさえ出来ない。
さらに人気のない路地に差しかかったとき美沙は堪らなくなって走り出した。
けれどもその足音の主も全く同時に走り出し、美沙は恐怖の余り冷たくなった手を握りしめながらようやくそこで振り返った。
その男はもう2メートル程の距離まで近づいており、見覚えのある卑屈な笑みを浮かべながら無言で腕を伸ばしてきた。
美沙は力の限り走りながら30メートルほど先のコンビニを目指したが、ヒールの足は思い通りに動かず、すぐに後方から腕をガシリと掴まれた。
「放して!」
そう叫んだ声は空しく掠れ、その体は抵抗も空しくすぐ横の車庫の壁に押しつけられ、そして力任せに抱きつかれた。
汗とアルコールと生臭い匂いに吐き気が込み上げ、叫ぼうとしても喉が塞がった。
男は壁に押しつけるように美沙の体に覆い被さり、くぐもった笑い声をのどの奥に発しながら自分の唇を美沙の首筋に這わせ、更に下肢を押しつけてきた。
首筋に熱いモノを感じ、男の舌だとわかると全身が総毛だったが、腕を強く掴まれているため身動きも取れない。
嫌悪感と悔しさと恐怖に心臓が張り裂けそうになり、喉の奥が痙攣して呼吸ができなくなった。
一瞬のうちに視界がかすみ、意識が薄れかけた、その時だった。
「おいコラ! 放れろ!!」
男がその声に振りかえった気配がしたが、その瞬間美沙の体は開放され、自由になった体は力なく地面に崩れ落ちた。
逃げてゆく男の足音と、罵詈雑言を吐きながら凄まじい剣幕で追いかけてゆく別の男の足音が、爆音のように美沙をかすめ、遠ざかって行った。
けれど美沙はただ呆然としてその冷たいアスファルトの上に座り込んだまま、動けなかった。
男のゴムのような手に触られた自分の手首を見つめ、男の舌の熱い感触が首に蘇ると、沸き立つように全身に震えが来た。
叫び出しそうだった。
シャワーを浴びたい! 今すぐ! 今すぐ!
その声にならない叫びが頭の中を占領した。
男を追いかけていたもう一人の男が再び美沙の所に帰ってきたのはそれからほんの5、6分だっただろうか。
まだ冷たい地面に座り込んでいた美沙に両手を差し出し、そっと抱きかかえるように立ち上がらせた。
「美沙ちゃん・・・ああ。畜生! やっぱり俺がずっと付いておくべきだったんだ。くそっ!!」
聡は普段口にしそうもない悪態を吐きながら、美沙の体が崩れ落ちないようにしっかり、けれど優しくその肩を掴んでいてくれた。
「やっぱり高浜だった。俺は追い切れなかったけど、事情を説明してバイクの兄ちゃんに追ってもらったから。もしダメでも警察に通報済みだから、ぜったい捕まる。もう心配いらないから」
「はい。・・・ありがとうございます」
普通にそう言ったつもりなのに、声が震え、掠れて音にならなかった。
きっと寒さのせいだ。そう思うのに、涙が滲んできた。
「ごめんね。美沙ちゃん、ごめん」 聡が悲痛な声でそう呟く。
この人はなぜ謝っているのだろう。
そうボンヤリと思いながらも優しく抱きしめてきた腕と、その温もりに、じわりと全身の筋肉が緩んで行くのが分かった。
抱きしめられると、こんなにも温かいのだ。
美沙は次第に平静に戻ってゆく鼓動と呼吸に安堵し、けれど代わりに押し寄せた照れくささに体をそっと離した。
そこで初めて美沙は、聡が高浜を追跡中に派手に転倒したことを理解した。聡のスーツの膝は見事にすり切れ、同じくすり切れた手の平からは血が滲んでいる。
「転んだの?」
美沙がその目を見つめて訊くと、聡はバツが悪そうに目を伏せ、「面目ない」と悲しげな表情をする。
その子供のような、それでいて大きな優しさに、美沙は改めてこの目の前の男を〈愛おしい〉と、強く感じた。




