第12話 苦悩
事務所ビル横のファーストフード店で、春樹は今日も退社後、飲みたくもないドリンクを前にしてガラス越しに車道を見つめていた。
もうこんな事をやり始めて二日目だ。
一昨日、聡が美沙を迎えに来たのは、たまたま何かの用事があったからなのか、それが確かめたかった。
けれど三日目の今日も、それはきっちり繰り返された。
聡の車は、春樹のいる店の前を通って左折し、有料パーキングに入るのだ。
春樹は今日もそれだけを確認すると、静かに店を出て帰途についた。
聡が夜、必ず迎えに来て、そして一時間ばかり時間を経て、美沙をマンションに送り届ける。
ただその事を春樹は確認し、胸のどこかに収めた。儀式のように。
そうすることで何が生まれるわけでも、何が解決するわけでもないのに、ただ春樹は感情をどこかに封印して、その確認作業を続けた。
電車に一人ゆられていると、時々ふっと思う。
美沙はもしかしたら藤川咲子と自分が寝たことを知っているのかもしれない。
もしかしたら事務所に依頼料を届けに来たあの日、咲子は美沙に何か言ったのかもしれない、と。
けれどそれこそ滑稽な話だった。
たとえそうだとして、美沙が春樹に余所余所しくなるだろうか。
手のかかる馬鹿な部下が一人、どこかの女と寝たからと言って、ここ最近のように腫れ物に触るような対応を取られる理由にもならない。
自分が美沙に抱くような感情を、美沙が自分に対して持っていると思う方が、どうかしている。
滑稽な自惚れだ。
多分美沙は疲れてしまったのだ。
気味の悪い力を持った扱いにくい子供の世話に、きっともう疲れてしまったのだ。
そして・・・大人の男に恋をした。
春樹はそんなよくありがちなシナリオを思い描いてクッと笑った。
今夜もこんな気持ちで長い夜を一人で潰さねばならないことにウンザリしながら、何気なく携帯の画面を見た。
隆也からはもう、まる三日メールも電話も無かった。
声が聞きたいと思った。あの突き抜けた笑い声が聞きたいと思った。
ふざけて触れてくる温かな肌と、そして見える乾いた秋の空が恋しかった。
〈何か、気に障ることしたのならごめん〉
そんな、まるで幼稚な文面をメールで打ってみて、馬鹿らしくなってすぐに消した。
----知りたけりゃ、すぐに知ることが出来るじゃないか。
隆也の心も、美沙の心も、知りたいならば、すぐにでも。
そういう力をお前は持っている。
そういう力を持って生まれてきた、化け物なんだから。----
漆黒の電車の窓の外から誰かがそう言ったような気がした。
春樹はひとつ身震いすると、目を閉じ、思考を停止させた。
◇
『君がその、美沙って人に訊くって言うのか?』
佐々木は電話の向こうで驚いたようにそう言った。
隆也は自分の部屋で携帯を強く掴み、そして自分に言い聞かせるように「はい。俺が聞き出します」と繰り返した。
「初対面の佐々木さんが美沙さんに問い詰めたって、絶対あの人は本音を話してはくれませんよ。俺が、佐々木さんの事も話して、真正面から訊いてみます。だから、佐々木さんは自分から彼女や春樹に接触しないと約束してください。お願いします」
『それはいいけど・・・隆也君。君を信じていいのかな。君は春樹くんの友人だから、こう言ってはナンだけど、正しい協力が得られるとは思えないんだけど』
「俺は真実を知りたいんです。もちろん圭一さんの無実を信じています。だけどもし本当に佐々木さんの憶測が正しいのなら、まだ平気で生活している竹沢という男を許しておきたくない。そういう性分なんです。俺は美沙さんから事実を聞き出してあなたにそれを伝えます。だからもう、それで終わりにしてください。
あとはあなたが個人的に竹沢という男に復讐すればいい。どっちみち立件の難しい事件なんだから。だけど春樹には何の関係もないんです。二度と春樹に近づかないで下さい」
佐々木は少し考えるように間を置いた後、『分かった、君を信じてみる』と言った。
たぶん佐々木は全面的に信用しているわけではないと、その声色から推測できたが、他に策が無いのは、お互い同じなのだ。
佐々木が動いたとしても、玉砕することは目に見えている。佐々木は隆也に賭けてくれたのだ。
電話を切った後、ベッドの上に座り、隆也は真っ直ぐ前の壁を見つめた。
二日間心の中でずっと思案し、ようやく迷いを消し去った。
自分がすべきことは、自分の中の疑いを払拭させること。
それだけだった。
美沙が嘘を突き通したら、などという懸念は隆也にはなかった。
圭一の犯罪も、放火も、ありえない。自分の中で、それを確認すればいい。
とにかく自分が納得できればいいのだ。
そうすればもう、春樹に触れることがあっても大丈夫。
可哀想な被害妄想の男が一人いたのだと、二人で気の毒がればいいのだ。
確かに佐々木の妹の話は可哀想だとは思うが、その事で無実の圭一の名誉が傷つけられたり、春樹が嫌な思いをするなんて、あってはならないのだ。
美沙にちゃんと納得させてもらおう。きっちりと疑問を払拭させてもらおう。
そうでないと自分は春樹のそばに行くことさえ怖くなる。
隆也は今さらのように、佐々木の厄介な話を聞いてしまった自分を恨みながら、美沙の自宅の電話番号を慎重に押した。




