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第11話 ゆれる

車の助手席に乗り込んだ美沙は、少し居心地悪そうに運転席の聡を見た。

『今日から毎日送るよ』と言った聡の言葉は冗談では無いのだと、その意思の強そうな横顔を見ながら思った。


「立花さん・・・。私本当に平気だから、もう今日だけにしてください。毎日こんな事してたら大変だもの」

聡はいつもの柔らかさを消し、前を向いたまま強い口調で返してきた。

「美沙ちゃんを狙っているのは、俺が鴻上支店に回した仕事の依頼者なんだろ。俺の責任だよ。だから俺がぜったい何とかする」

美沙はその言葉への適当な返事が見つからず、ただ「立花局長のせいなんかじゃありませんから」、と前を向いたまま小さく呟いた。

もう、昨日から何度も交わしたやり取りだった。

そして昨日から付きまとうフワフワした感覚も、相変わらず胸のあたりに漂ったままだ。

守られるというのはこういう感覚なのだろうかと、少しばかり頭の中がボンヤリした。


美沙を付け狙っているストーカーは、ほぼ間違いなく高浜という36歳の男だった。

2カ月前に本社から回ってきた行方調査の依頼人であり、調査対象者は24歳の女性だった。

ほんの4日ほどでその女性は見つかったものの、実のところ彼女は高浜のストーカー行為から必死で逃げていたのだと言うことが、女性の話から分かったのだ。


美沙は高浜を呼び出し、彼女の場所は教えることが出来ない、向こうの女性の勘違いかもしれないが、警察沙汰にならない内に、紛らわしい行為はやめるように、とヤンワリ忠告した。

その時はすんなり説得できたように感じたが、実際は高浜の妄執の矛先を変えただけの事だったのだ。

24歳の女性から、美沙へ、と。


美沙はあの電話口の声を聞き違えようもなかった。

甲高く掠れた声と独特のイントネーションは間違いなく高浜のものだ。

無視し続ければきっとあきらめると思って放置していたのだが、その粘着性はさらに拍車がかかり、美沙の中のストレスも同時に膨らんで来ていた矢先だった。


「俺を助けると思って甘えて欲しい。そうでないと俺は自分が腹立たしくて居てもたっても居られなくなるんだ。たのむ」

聡は真っ直ぐ前を見つめてハンドルを握りしめながら、ぽそりと言った。

守る。甘えてくれ。そう言いながらもこの男は自分の弱さを取り繕うことをしない。

美沙は相変わらずほわりとしたものに包まれた気分のまま、自分でも不思議なほど素直に頷いた。

「はい。じゃあ、甘えさせてもらいます」


けれど、そう口に出してみたとたん、その言葉の気恥ずかしさに全身が火照り、美沙は困惑して俯いた。

自分が小さな、弱い女の子になってしまった気がして落ち着かなかった。

「ありがとう。美沙ちゃん」

追い打ちを掛ける聡の真っすぐな言葉に、美沙の心臓がトクンとひとつ跳ねた。


         ◇



多分、今日の模試は最悪だったと隆也は確信していた。

再びD判定をもらって、また口うるさい母にどやされるのだとボンヤリ思ったが、今はそんな些細なことはどうでも良かった。

模試会場に行く直前に、あの佐々木という男から聞かされた話は、眩暈を伴って隆也の頭の中をぐるぐる巡っていた。

佐々木の話は結局の所、推測の域を出てはいないはずなのに、“もしもすべて事実だったら”と思うと、不意に浮かんでくる春樹の顔に、胸が張り裂けそうになる。


佐々木の話は概ねこうだった。

春樹の兄圭一は大学の仲間と4年前児童ポルノ画像売買のビジネスを立ち上げ、密かに活動を続けていた。

第三者によって盗撮された画像を、彼らの手で売られてしまった佐々木の妹は、3年近く心を病んだあげく、一昨年、自ら命を絶った。

3年前佐々木がそのグループの首謀者をつきとめた直後、彼らはその痕跡を全て消し、グループは解散した。

その日がちょうど圭一の死と重なる。

サブリーダーであった圭一はあの火事の直前、二人の人物に電話を掛けている。

一人はリーダーである大学生。もう一人は圭一の女友達。


佐々木は、その電話の内容を調べたいのだと隆也に言った。

もしもあの圭一が実家で偶然に、持ち帰ったPCの中の「ビアンカ」を家族に見られたのだとしたら、

その2本の電話は全てを明らかにする鍵となる、と。


「大学生の方はどんなに接触しても頑強で口を割りそうにない。だから俺はその女性に話を聞きたいんだ。その為に春樹君を尾行していた。その女性は春樹君の上司らしいからね。俺は真実を知りたいだけなんだ。春樹くんにも、その女性にも迷惑を掛けるつもりはない。ちゃんと話を聞いて、なにもおかしな所がないと納得すれば、春樹君に付きまとうのもきっぱりやめるよ。それまではどうか見逃して欲しい。俺の妹のために」


その話は余りにも衝撃的で隆也の脳に拒絶反応を起こさせたが、筋は通っていて、妄想に取り付かれた男の話には思えなかった。

昔春樹に、『兄貴が最後に電話したのは美沙だったんだ』と聞かされたことも、記憶に残っていた。


けれど隆也を苦しめたのは、圭一が犯してしまったかもしれない犯罪よりも、そんな推測でしか無い話を聞いてしまった事、それ自体だった。

こんな話を春樹が知ってしまったら一体春樹はどれほど苦しむだろう。

圭一がネット犯罪を疑われている事。そしてあの火事はただの不幸な事故では無いと、疑われていることが分かったら。


隆也は棒きれになったようにベッドに横たわり、天井をじっと睨みつけた。

10分、20分。頭の中でぐるぐると鈍い思考を巡らしたあげく、ようやく辿り着いた二つの答えは、当たり前過ぎるほど当たり前のものだった。

〈美沙に電話のことを確認して、自分の中で圭一の濡れ衣をしっかり晴らそう〉

〈そしてそれまでは、春樹に触れることを絶対に避けなければ〉

隆也はようやく進むべき方向に気持ちを切り替えると、ベッドから起きあがった。


               ◇


春樹はマンションの自室のソファに座ったまま、ただ騒がしくがなり立てるテレビ画面をボンヤリ見つめていた。

あれから小一時間経った言うのに、美沙はまだ部屋に帰って来てはいないようだった。まだ聡とどこかで一緒にいるのだろう。

廊下から美沙の部屋のドアスコープを眺め、そんな事を確認してしまった自分がとても卑屈で嫌らしい人間に思えた。

気を紛らわそうとパラパラと捲った真新しい問題集は、懐かしい紙の匂いがして、ふと高校時代を思い出させる。


・・・隆也、また模試の出来、悪かったって言ってたな。

お母さん、あまり隆也にキツイこと言わなければいいんだけど。ああ見えても、すごく繊細なやつなんだ。


もしかしたら、さっきの電話は自分を避けてたんじゃなく、本当に落ち込んでただ塞ぎ込んでただけなのかも知れない。

そう思い始めると急に人恋しさが込み上げてきて、春樹は携帯を掴んだ。

今、仲間と飲んでいるだろう隆也には、さすがに掛ける気になれず、指は自然と隆也の家の番号を探っていた。


『はい。穂積です』

気丈で甲高い隆也の母親の声が響いてきた。

「夜分すみません、春樹です。ご無沙汰しています」

『まあー、春樹くん? 久しぶりねえ。元気にしてる? 隆也がしょっちゅう遊びに行ってるみたいで、ごめんなさいね。迷惑だったら追い返して頂戴ね。ホントよ?』

相変わらず快活で突き抜けた話っぷりに、春樹は思わず頬を緩める。

ああ、これが母親の声だ。

口では馬鹿だマヌケだと罵りながら、心底隆也を心配し、愛している母親の声だ。

わざわざこっちに電話を掛けたのは、この声が聞きたかったからかも知れない。


「いえ、迷惑だなんて、とんでもないです。あの・・・隆也君が帰ってきたら、今度また勉強会しようって言ってもらえますか?」

『隆也に?』

「ええ。僕も久々に勉強したくなったから、ゼミのない日は、一緒にやろうって」

『それは願ってもないわ! ね、ねえ、隆也なら今、上にいるのよ。電話代わりましょうか?』

「え? ・・・でも今日は出かけるって・・・」

『いいえ。帰ってきてずっと家にいるけど。どうせまた、ふて寝してるんでしょう。ねえ、代わる?』

「あ・・・いえ、いいです。いいんです、ごめんなさい」

春樹はそこで電話を切った。


相変わらずTVではコメディ番組が賑やかな笑い声をたたている。

けれど春樹の心は更にシンと静まり、冷たくなっていった。

あの隆也がついた些細な嘘は、春樹の胸にプツリと小さな穴を開けた。




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