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第10話 孤独

「今日はもう帰っていいよ、春樹。黒田さんの報告書は、私がチェックして仕上げておくから」

6時を少し回った頃、美沙が春樹に声を掛けてきた。


その声は優しかったが、どこか事務的で、冷めているように春樹には思えた。

藤川咲子の一件があってからこの2カ月、ずっとそうだった。

きっと美沙は何も知らない。

自分と咲子の間に何があったのか知らないはずなのに、時々ふと目が合ったときに感じる僅かな嫌悪感に、春樹は胸が軋んだ。


また以前の美沙に戻って欲しかった。

今までのように化け物だと、きついジョーダンを言ってくれてもいい。“そんな能力あったって探偵稼業に何の役にも立ちやしないんだから”と、からかってくれてもいい。

今のように何かを気にし、腫れ物に触るような優しさは逆に、春樹をどうしようもなく不安にさせる。

美沙はもしかしたら、咲子と自分が肌を重ねた事を知っていて、そして軽蔑し、嫌悪しているのではないか。

そんなことを思うと震えが来るほど恐ろしく、呼吸が苦しくなった。


「美沙はまだ帰らないの?」

いつもと変わりなく平静を装った声で春樹は訊いた。

「うん。明日2件依頼が入る予定だから、それまでに雑用済ませてから帰る」

「そう・・・。じゃあ」

歯切れの悪い言葉を残し、春樹は事務所を後にした。


別段、早く帰れたからと言って嬉しくも無かった。誰が待つわけでもないのだから。

すっかり暗くなった繁華街は、さっそく夜の活気にざわめきはじめていた。

サークル仲間と楽しげに肩を組み、騒いでいる大学生や、同僚と居酒屋に入って行くサラリーマンをボンヤリ眺めながら、春樹は何となくフラリと、書店に入っていった。

目的も無く入ったにも関わらず、足は真っ直ぐ参考書コーナーに向かった。

大学入試に向けての参考書や赤本の背表紙を見つめ、隆也が苦戦していた分野の問題集を抜き出してみた。


「ああこれ、ちょうどいいな」

知らず知らず、誰かに語るように呟いていた。

今日の模試はどうだっただろう。今回もD判定だったら、きっとまたお母さんに怒られるんだろうな。

そしたらまた、『今夜は泊めてくれ』って、泣きついてくるんだ。

そんな事を思うと、不意に口元が緩み、脳裏にあの屈託のない笑顔が浮かんだ。

春樹はさらに参考書と問題集を一冊ずつ抜き出すと、レジで精算を済ませ、外に飛び出した。

店の前の歩道で携帯を取りだし、隆也の番号を押す。

無性にあの、快活な声が聞きたかった。


『・・・おう』

「あ、隆也。今大丈夫?」

『ああ。今日は夜のゼミ無いから、家にいるよ』

「今日の模試、どうだった? 教えた所、出た?」

『うん。・・・ありがとう。助かったよ』

そう言う隆也の声はのトーンはいつもと少し違い、どこかうわの空に聞こえた。


「隆也、どうかした?」

『いや。・・・どうもないよ。やっぱり出来が良くなくてさ、落ち込んでるだけ。いつもの事さ』

「そう? なあ、ウチに来いよ。いい問題集見つけたんだ」

『いや、ごめん春樹。今日はちょっと』

隆也の声が少し、焦りを帯びたように響いた。

「用事?」

『・・・ゼミの仲間とメシ食いに行く約束してるから。ごめん、もう、行かなきゃ』

「あ、そっか。ごめん。じゃあ・・・またメールするよ」

春樹は電話を切った。

“慌てて切った”と言った方が近いかもしれない。

正体の掴めない、何か触れてはいけないモノに触れてしまった時ような、苦い後味が残った。


隆也には隆也の付き合いがあるのは当然だし、春樹とは接点のない友人もたくさん居るのは知っていた。

けれど今感じたのは、そんな事への嫉妬や寂しさでは無かった。

もっと別なもの。美沙にかつて感じたのと同じ感覚だ。


避けられている。

まさか。・・・朝までは、何も無かった。


春樹はその不毛な思案をふるい落とすべく頭をブンと振り、駅の方向を目指して歩いた。

いつものように定期を取り出そうとカバンのポケットに突っ込んだ手が止まった。

そこに入れたはずの定期が無かった。きっと事務所に置いてきたのだろう。

特に、ガッカリした感情も湧いてこず、ただ人形のような無機質な自分の体を方向転換させ、来た道を戻った。

早く家に帰らなければいけない理由もない。

春樹にとって、どっちへ歩いて行こうとも、変わりは無かった。


事務所ビルの前まで来て歩道から見上げると、美沙はまだ残っているらしく、明かりがついていた。

その窓辺にスイと近寄った影があった。美沙ではない、長身の男の影だ。

目を凝らして誰だか確認しようとしたが、再び男は引っ込み、そしてすぐに事務所の電気は消えた。


春樹はビルの玄関口の植え込みにそっと体を隠しながら、じっと“二人”が出てくるのを待った。

自分のそんな行動の意味を考えるのを避けながら、とにかくさっきの男が立花薫であることを祈った。

彼なら安心なんだという、根拠のない核心があった。


けれど5分程してエントランスから出てきたのは、一番そこにいて欲しくない人物。立花聡だった。

聡はピタリと美沙に寄り添い、時折美沙に話しかけた。

美沙も、少し緊張気味の笑顔を浮かべながら聡を見上げ、それに答えていた。

二人に見られないように息を殺し、植え込みに身を隠しながら春樹は、胸がグッと押しつぶされそうに軋むのを感じた。


仕事が残っているからと言って、春樹を先に帰してからまだ小一時間しか経っていない。

仕事ではない。

美砂はきっと自分を先に帰したいだけだったのだ。

ストンと腑に落ちた感覚が春樹の鼻の奥をツンとさせた。じわりと熱くなった目頭の痛みを紛らわそうと再び頭をふった。

まるで小学生じゃないか。

こんな事くらいで動揺する自分が腹立たしく、情けなく、そして信じられなかった。


「明日も送るから、帰れる時間になったら必ず電話しなさい」

美砂に寄り添うようにして、ビル裏のパーキングに歩いていく聡の声が微かに聞こえてくる。

その口調はどことなく厳しく、保護者でもあるかのように春樹の耳に響いた。

聡の横の美沙が、小さな、守られるべき可憐な少女に見えた。


春樹はひとつ深く呼吸をしたが、なぜか体に力が入らず、しばらくその場所から動くことができなかった。



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