第1話 最悪の朝
まるで空気に鉛でも含んでいるかのように、その部屋は息苦しく、じっとりと澱んで薄暗かった。
美沙はそこに一歩、足を踏み入れる。
灰色の壁に囲まれた四角い部屋。
その中央に置かれたベッドの横には首だけを垂れ、棒のように突っ立った隆也がいた。
空洞のような目をして、傍らのベッドを見下ろしている。
そのベッドには春樹が横たわっていた。
紙のように白い肌をして、冷たくなった春樹だった。
ビスクドールのように美しいそれは、唇だけ花のように淡く萌え、胸を締め付けられるように艶めかしかった。
美沙が“それ”を確認するのを待っていたように隆也が口元を左右に引き延ばして冷笑し、美沙の方を向いた。
「あなたの願いが叶ったよね、美沙さん。ほら、もう春樹に触れられるよ。あなたの心を読まれることも、胸を痛めることも無い。この肌に触れてごらんよ。抱いてみればいい。そうしたかったんでしょ? これがあなたの願いなんでしょ? だから春樹を抱いた咲子さんに嫉妬したんだ」
《ちがう!》
美沙は力の限り叫んだが、喉からは空気が漏れるだけだった。
「どうしたのさ。抱いてみなよ。まだ少しだけ温かいんだ。さっきまで春樹、ここで泣いていたから。寂しいんだって。ひとりぼっちなんだって」
《ちがう!》
「違わない。春樹を生きながら殺してたくせに。救うこともしないのに、囲って傷つけてたくせに。自分の良心とやらばかりを守るために。本当は薄汚い欲望だらけのくせに。春樹はずっと苦しかったんだ。あんたのせいで、ずっと!」
「違う!」
やっと喉の奥から絞り出された大声が、夢と現実の狭間の幕を引きちぎり、美沙を覚醒させた。
ベッドの上で上半身をはね起こした美沙は、全身にぬるい汗をかき、喉から飛び出しそうに鼓動する心臓をただ、胸の上から左手で押さえた。
夢だ。
けれども、夢でよかったという安堵感は皆無だった。
それは美沙自身が呼び起こした妄想なのだ。深層心理の現れなのだ。
春樹と体を交えた藤川咲子が、自ら命を絶ってしまってから一ヶ月。
春樹はもう、その事を忘れてしまったかのように今まで通りに仕事をし、美沙も一切その事に触れずに春樹に接してきた。
けれども角砂糖を水に浸したように、確実にジワジワと何かが足元から崩れているように思えてならなかった。
今まで手を触れないようにしてきた“こわれもの”は、いつの間にか手を伸ばしても触れることの出来ない中空で、美沙を見下ろしている。
そんな気がして堪らなかった。
それは悲しみなのか、苛立ちなのか分からない。
けれどもその答えを知るのも馬鹿らしくて、いつも美沙はそこで想いを巡らせるのをやめる。
ずぼらで、ルーズで、不誠実で。
それでいい。
こんなにも運命というモノが非情ならば、真面目に取り合っても無駄なのだ。
堕としたいなら堕とせばいい。
どうせ自分は愛おしい少年一人救うことができない無能。
バッグを肩に掛け、立ち上がった時ようやく美沙の目は、固定電話の留守録ランプの点滅に気付いた。
少し眉を潜めながらボタンを押す。
録音テープからは微かな雑音と共に、何やらケモノのような息づかいが無意味にしばらく流れ続け、そして何も発せられないまま、切れた。
まただ。
美沙は眉をひそめて嫌悪感を露わにし、消去ボタンを強く押したあと、邪気を振り落とすように長い髪をパサリと手で払い、玄関に向かった。
「美沙、おはよう」
玄関を出、鍵を鍵穴に差し込んだ瞬間、右隣から軽やかな声が飛んできた。
2件隣の部屋の前から、春樹が笑顔で美沙を見つめている。
ついさっき見た夢のリアルな映像が再び鮮やかに蘇り、美沙の全身が粟立った。
「ああ・・・おはよう」
「今日は同時だったね。たまには一緒に行く?」
蛍光灯の下で見るその少年の肌は、あの夢の中の眠れる肌のように青白く、美沙の胸を締め付けた。
けれど、この目の前にある肌は充分に温かく、そして触れるときっと、柔らかいのだ。
「うん。そうだね。一緒に行こうか」
美沙が鍵をバッグになおしながらそう言うと、春樹はニコリとしてエレベーターに向かって歩き出した。
少し髪をカットしたのだろう。スッキリとした伸びやかな首筋が見える。
その首も、しなやかな腰も、美しい指も。今の春樹の心を象徴しているように悲しく、頼りない。
そしてそんなことを確認した瞬間、必ず無意識に思い起こしてしまうのだ。
一ヶ月前にこの少年を誑かし、味わい、勝手にさっさと死んでいった女の事を。
「美沙、乗らないの?」
エレベーターの中で、扉を開けたまま待っていてくれた春樹が痺れを切らせた声を出し、我に返った美沙は、慌ててそれに飛び乗った。
「ごめん、ごめん」
「今日も二日酔い?」
「まさか。最近お酒は控えてるから。医者がうるさいのよ」
「そう。うん、その方がいいよ。また入院されたら、困るもん」
緩やかに下降する表示ランプに目をやる春樹を、美沙は斜め後ろからボンヤリと見つめた。
こだわっているのは自分なのだと、改めて気付く。
あんな女を受け入れたこの少年を許せず、心のどこかで《なぜだ》と問いつめたい自分が居る。
それと同時に、そんな資格が自分に無いことも、嫌になるほど分かっている。
今の自分は、馬鹿げたエゴの塊なのだ。
一階に着き、開いたドアから出て行く春樹の後ろ姿を追いながら美沙は、ゆっくり坂を転げ堕ちてゆく何かに、もはや手を伸ばすこともせずに眺めているもう一人の冷酷な自分がいることを感じていた。