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初夏の香りがした。
帰り道、ヒロエと一緒になる友人はいない。
タクトもナナコも帰りは一緒ではない。
ヒロエは1人で家路に着く。
玄関を開けると、家にはまだ誰もいなかった。
朝とは打って変わった静けさと、夕闇に包まれたダイニング。
電灯をつけると、息の絶えたような空間がそこにはあった。
自室に入り、着替えを済ませると洗面台で顔を洗う。
やけにその音が大きくて、ヒロエの心がざわついた。
廊下を歩いていく音が聞こえた。
顔を上げると、鏡越しにタクトがヒロエの後ろに立っているのが見えた。
ヒロエは「おかえり」と声をかけた。
タクトは澄ました顔をして、ヒロエを見た。
「ただいま。」
「ナナコは?」
「知らない。」
ヒロエが洗面台から離れタオルで顔を拭く。
その間に、タクトも手と顔を洗った。
他人が奏でる音だけで、心のざわつきは消える。
「貸して。」
タクトが濡れた顔を向けて手を伸ばした。
切れ長の目が、ヒロエの瞳を捕らえる。
ヒロエがタオルを渡すと、その影に隠れて捕らえていた視線はふいに途切れる。
まるで陽だまりが雲の影に隠れてしまったかのような、寂しさがヒロエに残った。
ナナコは夜遅くに帰ってきた。
「今日は、おばあちゃんのところ行ってきた。」
ナナコが大根の味噌汁をすすりながらヒロエに言った。
「急だな。」
ナナコは週に1度祖母の家に行く。
この家から電車で3時間ほどのところにナナコの祖母の家がある。以前は週末に行くことが多かった。だが最近は今日のようにふらっと行ってしまう。
「うん。そうだね。学校終わってから時間余ったから。タクトは?」
「部屋。」
「そ。」
短い言葉を残して、ナナコは食事を続ける。ヒロエはナナコに付き合って黙ってテレビを見た。
テレビは、イジメによって自殺した少年のニュースを女性アナウンサーが神妙な面持ちで告げていた。
そして、また朝が来る。
3人で食卓を囲み、ナナコの作る味噌汁を飲む。
タクトが先に家を出で、ヒロエとナナコはその後を追った。
同じような日常。
何年何十年そして何億年と続いた3人の日常。
時代や場所が変わろうとも、3人はいつも一緒だった。
生れ落ちた場所も
大地へ眠りにつくときも
そして輪廻の先もまた
ずっと。
そう信じて疑わない。
「なぁ、浩衛。」
クラスメイトの1人が真剣な面持ちで声をかけてきたのは、入学から2ヶ月と3週間と17日のことだった。
それは、2ヶ月と3週間と17日、3人が同じ穏やかな日常を繰り返してきた時のことだ。
「お前、同棲してるって本当か?」
「何。急に。」
ヒロエはその生徒の名前を思い出せない。
「うわさになってるぜ。毎朝一緒に来てる女の子だよ。ナナコちゃん?お前の彼女か?」
「違うよ。」
この生徒は誰だろうと考えながら、ヒロエは答えた。
「でも同じところに住んでるんだろ?」
「・・・違うよ。俺たちはただ・・・一緒に生きてるんだ。」
その言葉の後に、その生徒は次の質問をしてこなかった。
別の音がヒロエたちの会話を遮断したからだ。
ガシャン・・・ッ
それは1つ上の階での出来事だったけれど、ヒロエのクラスにまで響く音だった。
教室の誰もが窓際により、上の階を見上げた。
ヒロエもユウマも少し離れたところからその様子を見ていた。
「何だ?何かが、降ってくる。」
「ガラスだよ!おい、離れろ!」
「違うよ・・・これ・・・雪?」
窓から身を乗り出した女子生徒がそういった。
それは、チラチラと太陽の日差しにきらめいて舞い降りる。
ヒロエはそれが何かわかった。
『福音の色』
それは、決して目に見ることのなかったタクトの“力”。
繊細で、決して人を傷つけない。
タクトはヒロエとは違う。
そう、正反対だ。
タクトは、他人の心をすぐに察知する。
そして“力”の使い方も、タクトはよくわかっていた。
タクトは冷静に判断する。
どんなときも、何が最善かを見極める。
それを表現するための言葉を用いないだけ。
だから誤解される。それをタクトは別段気にはしていなかったが。
そう、タクトは静かなる月だった。
割れた窓ガラスが、雪となって降ってくる。
6月。
雨の季節がもうすぐ終わる。
季節はずれの雪。
だれもがその雪を見た。
悲しいほど真っ白な雪は、積もることなく一瞬の虹のように、何かを心に落として消えた。
その日、タクトもナナコも、家には帰ってこなかった。