8.妻の家は静かで、織の部屋は温かかった
「お父さん、今日は出かけたの?」
リビングで勉強していた美が、何気ない調子で彩に尋ねた。
「うん、友達の家に泊まってくるって」
「そうなんだ。めずらしい」
「そうね」
そのやり取りは、いつもの夕方の空気にすっと溶けていった。
長男と次男が家を出て半年。
広くなった家の空間に、彩はまだ慣れきれていなかったが、どこかでようやく肩の力が抜けてきた気もしていた。
子どもたちが大きくなるにつれ、夫の求めには応えられなくなっていった。
裕介が自分で処理していることも、気づいてはいたが、特に何も言わなかった。
数か月に一度、ラブホテルに行くこともあった。
それは、夫があまりに求めてくるからであって、彩自身が望んでいるわけではなかった。
自分がおかしいのか、夫がおかしいのか。
考えたことはある。
けれど、どちらでもいいのだと、最近は思うようになっていた。
毎日、決まった時間に帰ってきて、土日は家のことも手伝い、大体家にいる夫。
家族のためにきちんとしてくれている。
だから、たまに友達と羽目を外して飲みに行くくらい、いいだろうと彩は思っていた。
むしろ――
そういう時間があったほうが、
お互いに楽なのかもしれない。
美がノートをめくる音だけが、静かなリビングに響いていた。
彩はキッチンに立ち、湯を沸かしながら、ふと窓の外の暗さに目をやった。
夫が今どこで何をしているのか、深く考える気にはならなかった。
ただ、家の中の静けさが、少しだけ心地よかった。
----
本日二度目の乾杯をしたあと、今度は織が自分のことを語り始めた。
都内でOLをしていたこと。
趣味で書いていた小説が出版社の目に留まり、
思いがけずデビューにつながったこと。
書き溜めていた原稿の量は、自分でも呆れるほど膨大だったらしい。
それが、出版社が彼女を拾った理由のひとつでもあった。
OL時代は、会社の男と付き合ってはすぐに別れる、そんなことを繰り返していたという。
二桁には届かないが、それなりの経験はあった。
「でもね、誰も長続きしなかったの」
織は缶を指先で軽く回しながら言った。
「結局、私のこういう態度が気に入らなかったみたい」
淡々とした口調なのに、どこか寂しさを含んでいるようにも聞こえた。
裕介は黙って耳を傾けた。
織の言葉の端々に、彼女の十年分の孤独と、それでも生きてきた強さが滲んでいた。
遠い昔、小説で見たような女性がもしも存在するなら。
織を見ていて、裕介は本当にそう思っていた。
----
二人でシャワーを浴びに行った。
湯気の立ちこめる狭い空間で、織はふいに裕介の男の証に手を伸ばし、
自分の身体を寄せるようにして挟み込んだ。
「こういうのが好きなんでしょ?」
軽く笑う声は、湯気に溶けるように柔らかい。
「……ま、まあ、悪くはないけど……」
裕介が言葉を濁すと、織は首をかしげる。
「いや?」
「……そうじゃなくて。年甲斐もなく、ちょっと興奮してる」
その正直さに、織は目を細めた。
「……そうなんだ。裕介って、かわいいね」
その微笑みは、湯気の向こうで小さく光って見えた。
無邪気さと悪戯っぽさが混ざったような、小悪魔めいた笑みだった。
裕介は、自分が完全に翻弄されていることをはっきりと自覚した。
----
シャワーを浴び終え、
二人は濡れた髪を軽く拭きながら、和室へ戻った。
布団はまだ、さっきまでの熱をわずかに残している。
織が先に布団へ入り、裕介もその隣に横になる。
湯上がりの肌はまだ温かく、触れなくても互いの体温が伝わってくる距離だった。
部屋の明かりは落としてあり、月の光がふすまの隙間から薄く差し込んでいる。
ふと、裕介がつぶやく。
「…月の明かりは鮮やかすぎて…」
「…どうしたの?急に?」
「いや、なんでもない、ふと歌詞を思い出して」
「…ありきたりすぎよ、でも…」
その淡い明るさの中で、織の横顔が静かに浮かび上がった。
「……なんか、落ち着くね」
織がぽつりと言う。
裕介は天井を見たまま、ゆっくりと息を吐いた。
「……うん。変な感じだけど」
「変?」
「いや……こうしてるのが、久しぶりで」
織は少しだけ身体を寄せた。
湯気の残る髪が、裕介の肩に触れる。
「……さっきも言ってたよね。久しぶりって」
「うん。ほんとに」
しばらく沈黙が落ちる。
けれど、その沈黙は重くない。
むしろ、二人の間にゆっくりと馴染んでいくような静けさだった。
織が、布団の中でそっと裕介の手を探す。
指先が触れた瞬間、二人はそのまま、言葉もなく寄り添った。
外では、六月の夜風がどこか遠くで揺れている。
布団の中の温度だけが、ゆっくりと、二人を包み込んでいた。
----
布団の中で、織の髪がまだ少し湿っている。
湯上がりの匂いと、さっきまでの熱が、部屋の空気にゆっくりと残っていた。
織は横向きになり、裕介の胸にそっと額を寄せてくる。
「……あったかいね」
その一言が、思いのほか胸に響いた。
裕介は天井を見つめたまま、ゆっくりと息を吸う。
時計を見ると、もう二十二時を回っている。
もし今日、家に帰るなら、そろそろ動き出さなければいけない時間だ。
けれど、身体がまったく動かなかった。
それに、今日は友達の家に泊っていることになっている。
織の体温が、腕の中で静かに呼吸している。
その重さが、妙に心地よかった。
「……帰らなくていいの?」
織が、目を閉じたまま小さくつぶやく。
問いかけというより、ただの独り言のような声だった。
「今日は、友達の家に泊る。そう言って出てきた」
「ふうん」
その織のつぶやきを聞いて、胸の奥で何かが静かに折れた。
―どちらにしても帰れない。
言葉にはしなかったが、その感覚だけが、はっきりと自分の中に落ちていった。




