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枯淡  作者: 水原伊織


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8/13

8.妻の家は静かで、織の部屋は温かかった

「お父さん、今日は出かけたの?」


リビングで勉強していたみまが、何気ない調子で彩に尋ねた。


「うん、友達の家に泊まってくるって」

「そうなんだ。めずらしい」

「そうね」


そのやり取りは、いつもの夕方の空気にすっと溶けていった。


長男と次男が家を出て半年。

広くなった家の空間に、彩はまだ慣れきれていなかったが、どこかでようやく肩の力が抜けてきた気もしていた。


子どもたちが大きくなるにつれ、夫の求めには応えられなくなっていった。

裕介が自分で処理していることも、気づいてはいたが、特に何も言わなかった。


数か月に一度、ラブホテルに行くこともあった。

それは、夫があまりに求めてくるからであって、彩自身が望んでいるわけではなかった。


自分がおかしいのか、夫がおかしいのか。

考えたことはある。

けれど、どちらでもいいのだと、最近は思うようになっていた。


毎日、決まった時間に帰ってきて、土日は家のことも手伝い、大体家にいる夫。


家族のためにきちんとしてくれている。

だから、たまに友達と羽目を外して飲みに行くくらい、いいだろうと彩は思っていた。


むしろ――

そういう時間があったほうが、

お互いに楽なのかもしれない。


美がノートをめくる音だけが、静かなリビングに響いていた。

彩はキッチンに立ち、湯を沸かしながら、ふと窓の外の暗さに目をやった。


夫が今どこで何をしているのか、深く考える気にはならなかった。

ただ、家の中の静けさが、少しだけ心地よかった。


----


本日二度目の乾杯をしたあと、今度は織が自分のことを語り始めた。

都内でOLをしていたこと。

趣味で書いていた小説が出版社の目に留まり、

思いがけずデビューにつながったこと。

書き溜めていた原稿の量は、自分でも呆れるほど膨大だったらしい。

それが、出版社が彼女を拾った理由のひとつでもあった。


OL時代は、会社の男と付き合ってはすぐに別れる、そんなことを繰り返していたという。

二桁には届かないが、それなりの経験はあった。


「でもね、誰も長続きしなかったの」


織は缶を指先で軽く回しながら言った。

「結局、私のこういう態度が気に入らなかったみたい」


淡々とした口調なのに、どこか寂しさを含んでいるようにも聞こえた。


裕介は黙って耳を傾けた。

織の言葉の端々に、彼女の十年分の孤独と、それでも生きてきた強さが滲んでいた。

遠い昔、小説で見たような女性がもしも存在するなら。

織を見ていて、裕介は本当にそう思っていた。


----


二人でシャワーを浴びに行った。


湯気の立ちこめる狭い空間で、織はふいに裕介の男の証に手を伸ばし、

自分の身体を寄せるようにして挟み込んだ。


「こういうのが好きなんでしょ?」


軽く笑う声は、湯気に溶けるように柔らかい。


「……ま、まあ、悪くはないけど……」

裕介が言葉を濁すと、織は首をかしげる。


「いや?」

「……そうじゃなくて。年甲斐もなく、ちょっと興奮してる」


その正直さに、織は目を細めた。


「……そうなんだ。裕介って、かわいいね」


その微笑みは、湯気の向こうで小さく光って見えた。

無邪気さと悪戯っぽさが混ざったような、小悪魔めいた笑みだった。

裕介は、自分が完全に翻弄されていることをはっきりと自覚した。


----


シャワーを浴び終え、

二人は濡れた髪を軽く拭きながら、和室へ戻った。

布団はまだ、さっきまでの熱をわずかに残している。


織が先に布団へ入り、裕介もその隣に横になる。

湯上がりの肌はまだ温かく、触れなくても互いの体温が伝わってくる距離だった。


部屋の明かりは落としてあり、月の光がふすまの隙間から薄く差し込んでいる。

ふと、裕介がつぶやく。


「…月の明かりは鮮やかすぎて…」

「…どうしたの?急に?」

「いや、なんでもない、ふと歌詞を思い出して」

「…ありきたりすぎよ、でも…」


その淡い明るさの中で、織の横顔が静かに浮かび上がった。


「……なんか、落ち着くね」

織がぽつりと言う。

裕介は天井を見たまま、ゆっくりと息を吐いた。


「……うん。変な感じだけど」

「変?」

「いや……こうしてるのが、久しぶりで」


織は少しだけ身体を寄せた。

湯気の残る髪が、裕介の肩に触れる。


「……さっきも言ってたよね。久しぶりって」

「うん。ほんとに」


しばらく沈黙が落ちる。

けれど、その沈黙は重くない。

むしろ、二人の間にゆっくりと馴染んでいくような静けさだった。

織が、布団の中でそっと裕介の手を探す。

指先が触れた瞬間、二人はそのまま、言葉もなく寄り添った。

外では、六月の夜風がどこか遠くで揺れている。

布団の中の温度だけが、ゆっくりと、二人を包み込んでいた。


----


布団の中で、織の髪がまだ少し湿っている。

湯上がりの匂いと、さっきまでの熱が、部屋の空気にゆっくりと残っていた。

織は横向きになり、裕介の胸にそっと額を寄せてくる。


「……あったかいね」

その一言が、思いのほか胸に響いた。

裕介は天井を見つめたまま、ゆっくりと息を吸う。

時計を見ると、もう二十二時を回っている。


もし今日、家に帰るなら、そろそろ動き出さなければいけない時間だ。

けれど、身体がまったく動かなかった。


それに、今日は友達の家に泊っていることになっている。


織の体温が、腕の中で静かに呼吸している。

その重さが、妙に心地よかった。


「……帰らなくていいの?」

織が、目を閉じたまま小さくつぶやく。

問いかけというより、ただの独り言のような声だった。


「今日は、友達の家に泊る。そう言って出てきた」

「ふうん」

その織のつぶやきを聞いて、胸の奥で何かが静かに折れた。

―どちらにしても帰れない。

言葉にはしなかったが、その感覚だけが、はっきりと自分の中に落ちていった。

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