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枯淡  作者: 水原伊織


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74.揺れの夜に抱かれて

宿に戻る頃には、京都の夜はすっかり深くなっていた。

古い町家を改装した小さな宿は、外観こそ静かだが、中に入ると木の香りがふわりと漂い、どこか懐かしい温もりがあった。


部屋に入ると、織はすぐにノートを机に置き、ペンを握ったまましばらく動かなかった。


裕介は、そんな織の背中を見ながら、自分のバッグから小さなノートを取り出した。


「……書くの?」


織が振り返ると、裕介は少し照れたように笑った。


「まあな。さっきの話、なんか引っかかってて」


「揺れ?」

「そう。俺の中にもあるんだよ、たぶん」


裕介はノートを開き、ゆっくりとペンを走らせた。

織はその姿を見つめていた。


「……裕介が書いてるの、久しぶりに見る」


「普段はパソコンだからな。でも今日は…手で書きたい気分だ」


「分かる。こういう日は、手書きのほうが言葉が素直になる」


二人は向かい合うように座り、それぞれのノートに向き合った。

部屋の中には、ペンが紙を滑る音だけが静かに響く。

外では、風が古い木戸をかすかに揺らしていた。


----


しばらくして、裕介がふと手を止めた。


「……織」


「ん?」


「揺れってさ、人に見せない部分のほうが大きいよな」


織はペンを置き、ゆっくり頷いた。


「うん。表に出る揺れより、心の奥で静かに起きてる揺れのほうが、ずっと深い」


裕介はノートを見つめながら言った。


「俺…そういう歌詞、書いたことなかったかもしれない」


「書けるよ。裕介は、ちゃんと感じてる」


裕介は少し照れたように笑い、ノートを織に見せた。

そこには、たった一行だけ書かれていた。


「もう歌詞になってる」

「まだ一行だけだよ。」

「でも、この一行だけで、物語が始まってる」


裕介は照れたように視線をそらした。


二人は静かに笑い合った。



そのあとも、二人はしばらく言葉を交わさず、それぞれのノートに向き合った。


織は新作の冒頭の断片を、裕介は揺れをテーマにした歌詞の種を。

部屋の灯りは柔らかく、外の風は静かで、京都の夜は二人の創作を包み込むように流れていた。


やがて織が小さく呟いた。


「……ねえ、裕介」

「ん?」

「こういう夜が、一番好き」


裕介はペンを置き、織の頭をそっと撫でた。


「俺もだよ。こうして、お互いの言葉が生まれるのを見るのが、一番幸せだ」


織は照れたように笑い、またノートに向き直った。

京都の夜は、二人の言葉を静かに育て続けていた。


----


夜の温泉は人も少なく、湯気が静かに立ちのぼっている。


織は湯に肩まで沈み、ふう、と長い息を吐いた。


「……生き返る」

裕介は隣で湯に浸かりながら、少し笑った。


「いい一日だった」

「うん。すごく…濃かった」


湯の温度が、昼間の疲れと、胸の奥に残っていた揺れの余韻をゆっくりと溶かしていく。


しばらく黙って湯に浸かっていると、織がぽつりと呟いた。


「…こういう時間も、物語の一部だよね。」


「どういう意味?」


「昼に気づいて、夜に深まって、ほどけて、そうやって、心が動いていく」


裕介は湯の表面を指で軽く揺らした。


「揺れ、だな」


織は笑った。


「そう。今日一日、ずっと揺れてた」


----


風呂上がりの二人は、部屋に戻ると冷蔵庫から地酒を取り出した。


小さなグラスに注ぐと、ふわりと米の香りが広がる。


「……美味しい」

織が目を細めると、裕介も一口飲んで頷いた。


「京都の酒って、なんか優しいな」

「うん。今日の気分に合ってる」


二人は窓を少し開け、夜風を入れながらゆっくり酒を飲んだ。


外からは、遠くの通りを歩く人の足音がかすかに聞こえる。


その音さえ、今日の、揺れ、の延長のように感じられた。


----


酒を飲み終えると、織は布団に横になり、ぽつりと呟いた。


「……なんか、安心する」


裕介は隣に寝転び、そっと織を抱き寄せた。


織は自然に身体を預け、目を閉じる。


「今日、いろんなことがあったけど……これでよかった。」


「うん。俺も」


二人の呼吸がゆっくりと重なり、温泉で温まった身体の余韻が静かに布団の中に広がっていく。


織は、裕介の胸に顔を寄せたまま、小さく呟いた。


「…揺れって、悪いものじゃないんだね」


「揺れたから、気づけたんだろ」


「うん……そうだね」


そのまま織の呼吸は、ゆっくりと、深く、眠りのリズムへと変わっていった。


裕介も目を閉じ、織の体温を感じながら静かに眠りへ落ちていく。

京都の夜は、二人を包み込むように静かに深まっていった。

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