6.織の部屋で、距離がゼロになった夜
織は、目の前の男を静かに見定めていた。
出版社からの帰りの電車で、たまたま隣に座っていた男だった。
彼は、自分の書いた小説を読んでいた。
気に入っている作品ではあったが、売れ行きは決して良くなかった。
それを読んでいる――その事実だけで、織の中に小さな引っかかりが生まれた。
降りる駅も同じだった。
清水と名乗ったその男とは、その後も自然と連絡を取るようになった。
話していても、見た目も、どこか嫌味がなく、距離の取り方が心地よかった。
二十五歳で作家としてデビューしてから、もう十年が経つ。
独身で、男の影もなかった。
作家という仕事は、基本的に家で完結する。
もともと出不精な織には、これ以上ないほど向いていた。
食べる、寝る、書く。
時々、ひとりで欲を処理する。
そんな生活が、いつの間にか日常になっていた。
売れ行きが安定してきた頃、地元の、実家に近い駅前のマンションを購入した。
新幹線を使えば都内にもすぐに出られる。
その距離感が、織にはちょうどよかった。
そして――
清水をそのマンションに呼んだのは、十年ぶりに“男の肌”に触れられるかもしれない、そんな期待があったからだ。
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缶ビールが半分ほど減ったころ、二人の会話はゆっくりと落ち着いていった。
音楽だけが部屋に流れている。
窓の外では、六月の夕方の光が少しずつ薄くなっていく。
織はソファの背にもたれ、缶を指先で軽く回しながら、ときどき裕介のほうを見た。
その視線が、妙に長い。
「……ベース弾ける人って、いいよね」
ふいに織が言った。
軽い調子なのに、どこか含みがある声だった。
裕介は返事をしようとして、喉の奥で言葉が止まった。
ソファの距離は、最初よりも確実に近くなっている。
気づけば、手を伸ばせば触れられるほどだった。
織は缶をテーブルに置き、ゆっくりと身体をこちらに向けた。
「清水さんって、落ち着いてるよね」
「そう……ですかね」
声が少しだけ震えた。
自分でも分かるほどだった。
織は笑わない。
ただ、じっと見つめてくる。
その瞳に、どこか試すような、それでいて受け入れるような光があった。
部屋の空気が、ゆっくりと変わっていく。
音楽の低いベースラインが、二人の沈黙を埋めるように響く。
裕介は、自分の呼吸が浅くなっていくのを感じた。
織の指先が、ソファの上でわずかに動く。
触れたわけではない。
けれど、その距離が
“触れる前の距離”になっていることが、
はっきりと分かった。
言葉はもう必要なかった。
その沈黙こそが、二人の間で交わされた最初の“合図”だった。
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和室に敷きっぱなしになっていた布団へ、二人はもつれるように倒れ込んだ。
口づけが、いつから始まったのか分からない。
何年ぶりなのかも思い出せないほど、ただ、何度も、何度も、互いを確かめるように唇を重ねた。
夏の服は薄く、気づけば布団の上には、重ねていたはずの布が静かに落ちていく音だけが残った。
肌が触れ合うたび、汗ばんだ体温が混ざり合い、離れるときには、湿った音がわずかに響いた。
織は、自分を求める裕介の懸命さに、長いあいだ忘れていた“女としての感覚”がゆっくりと呼び覚まされていくのを感じていた。
久しぶりすぎて、二人ともどこかぎこちなく、焦りのような熱が先に立っていた。
だが、裕介のほうが年上のせいか、ふとした瞬間に呼吸を整える。
深い溜息とともに、織の身体に触れる手つきが驚くほど丁寧なものへと変わっていった。
その変化が、織の胸の奥に静かに落ちていく。
布団の中で、二人の影がゆっくりと重なり、やがてひとつの動きになっていった。




