4.夫婦の温度が消えた朝と、織の身体に残る熱
翌朝。
月曜日。
雪はもうやんでいた。
裕介は、会社のある平日は、設定してあるスマホのアラームで目を覚ます。
織と会うようになる前は、朝、このあと自分で処理してから身支度を整えるのが習慣だった。
最近は、その必要がない。
その変化に気づいたのか、彩は裕介の部屋のゴミ箱に捨てられるティッシュの量が減ったことを、どこか訝しげに見ていた。
だが、問いただしてくることはない。
興味がないのだろう。
嫌っているわけではない。
ただ、夫婦としての“温度”に関心がないだけだ。
それに、彩はずっと専業主婦だった。
今から自立するのは難しいと、本人がいちばん分かっている。
だからこそ、裕介の不倫を黙認している――
そんな気配すらあった。
「行ってらっしゃい」
その声は、淡々としていた。
怒っているわけでも、冷たくしているわけでもない。
ただ、温度がないだけだ。
「行ってきます」
裕介は短く返し、ドアを開けた。
外の空気は冷たく、頬に触れる風が少し痛い。
車に乗り込むと、昨夜までいた織の部屋の温度がふっと思い出された。
柔らかい毛布の感触、彼女の寝息。
そのすべてが、今の自分の生活とは別の世界のもののように思えた。
エンジンをかけると、カーオーディオからいつものロックが流れ始める。
裕介は深く息を吐き、ゆっくりと車を発進させた。
今日も、いつもと同じ一日が始まる。
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午前十時ごろ、織はゆっくりと目を覚ました。
毛布がずり落ち、肩にひやりとした空気が触れる。
昨夜のままの格好、何も着けずに毛布だけで眠っていたことに気づき、軽く息を吐いた。
部屋は静かだった。
枕元に手を伸ばすと、シーツの皺が指先に触れる。
その感触が、昨夜の裕介の動きをふいに思い出させた。
胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
思い出そうとしたわけではないのに、身体のどこかが、記憶の続きを勝手に呼び起こしてしまう。
織は毛布を胸元まで引き寄せ、しばらく目を閉じた。
――まさか、こんな感じになるなんて。
後悔はしていなかった。
最近は、裕介が帰ったあとの静けさが、以前よりも少しだけ重く感じられる。
身体の奥に残る余韻が、その静けさをいっそう際立たせていた。
織の身体だけは、昨夜の続きをまだ手放せずにいた。
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シャワーを浴びたあと、織は濡れた髪をタオルで押さえながら、リビングの机に置きっぱなしにしていたノートパソコンを開いた。
画面には、昨夜のままの原稿が残っている。
毛布の中で目を覚ましたときの、身体の奥に残っていた熱が、まだ完全には消えていなかった。
織はゆっくりとキーボードに指を置いた。
昨夜の記憶が、ふいに指先を通して蘇る。
触れられた場所の温度。
呼吸が近づいたときの、あのわずかな震え。
思い出そうとしたわけではないのに、身体のどこかが勝手に反応してしまう。
文章が、その記憶に引っ張られるように流れ出す。
〈指先が触れた瞬間、息がひとつ、深く落ちた〉
織は書きながら、自分の胸の奥がじんわりと熱を帯びていくのを感じた。
これはフィクションのはずだ。
なのに、“思い出して書いている”という事実が、静かに胸をざわつかせる。
〈肌の温度が、夜の静けさをゆっくりと溶かしていく〉
今までは、過去の男との行為を思い出して、書く、なんてことはしなかった。
あくまでも、想像、いや妄想の中の出来事を書いていくだけで事足りた。
そこに最近は、なぜか裕介との行為で感じていることを足している。
それが、やたらリアルに感じるのだろう。
続編を待ち望む声が多くなってきたのも事実だ。
元々は、織が自分の欲求を文字にしておくことで客観的に見れるようにするためだけにいたずらに書いたのがきっかけだ。
小林ユキというペンネームもなんとなくつけただけで深い意味は無い。
ただ、本名の上条織で書くには、あまりにも自分の書いている小説とのギャップがありすぎた。
昼を少し過ぎたころ、織は原稿を保存し、そっとパソコンを閉じた。
部屋には冬の光が差し込み、静けさだけが満ちている。
その静けさが、昨夜の記憶をいやに鮮明にしてしまった。
触れられた場所の温度。
耳元に落ちた息。
身体の奥に残った、あの微かな震え。
思い出そうとしたわけではないのに、胸の奥がじわりと疼く。
織はソファに身を沈め、毛布を膝にかけた。
昼間の光の中で、自分の身体がゆっくりと熱を帯びていくのを感じる。
指先が、そっと毛布の端をつまんだ。
そのまま、ためらうように止まる。
――また、こうなっている。
誰にも見られない時間。
誰にも触れられないはずの時間。
なのに、身体だけが、昨夜の続きを求めるようにざわついている。
織は目を閉じ、毛布の中で小さく息を吸った。
胸の奥に広がる熱は、自分でも持て余すほど静かで、けれど確かだった。
そして、その熱に身を委ねてしまう自分がいることを、織はもう否定できなかった。




