2.官能描写が“記憶”に変わった日
スタンプを返した後、織は、リビングの机に置きっぱなしにしていたノートパソコンを開いた。
画面には、途中まで書きかけの原稿が残っている。
タイトルの横には、小さく〈小林ユキ〉の名義。
本名で書く小説とは違い、この名義では“身体の温度”を描く。
読者はそれを求めているし、編集者も期待している。
画面の端に、編集者からの未読メッセージが光っていた。
〈ユキ先生、最新作、すごく評判いいです〉
〈“描写が前より生々しい”“息遣いまで聞こえる”って読者からも〉
〈どうやって書いてるんですか?〉
織は、ビールの缶を持ったまま固まった。
――どうやって、なんて。
裕介と関係を持つようになってから、確かに文章が変わった自覚はあった。
肌の温度、指の動き、息の乱れ。
以前は“想像”で書いていたものが、今は“記憶”として浮かんでくる。
フィクションのはずの官能描写が、いつの間にか裕介の体温に引っ張られてしまう。
読者はそれを“リアル”と呼び、編集者は“進化”だと言う。
だが織にとっては、それは創作の深化ではなく、自分の境界線が静かに崩れていく音にしか思えなかった。
返信を打つ指が止まる。
〈取材ですよ〉
そう軽く返すこともできた。
だが、そんな嘘をつく気にもなれない。
結局、〈ありがとうございます。頑張ります〉とだけ返した。
部屋は静かだった。
裕介が帰った後の静けさは、いつもより少しだけ重く感じられた。
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織は三十五歳になった今も独身だ。
二十五歳までは都内でOLをしていた。
交際相手に困ったことはない。
むしろ、向こうから寄ってくる男のほうが多かった。
だが、長続きしなかった。
理由は単純だった。
織は、男が“女に求めるもの”をほとんど持ち合わせていない。
家事はしない。
部屋は散らかる。
外出は面倒くさい。
食べて、寝て、セックスして、また寝る。
そのループが好きだった。
付き合い始めの頃は、それでも男は満足する。
身体の相性さえ良ければ、男はしばらくは機嫌がいい。
だが、慣れてくると、決まって織の“生活の雑さ”に幻滅する。
「もっと外に出ようよ」
「たまにはデートしよう」
「せっかく予約したんだから」
男たちはそう言う。
だが、織にはどれも響かなかった。
高級レストランにも興味はない。
ディズニーランドや遊園地など、もってのほかだ。
人混みも、待ち時間も、作り笑いも、全部苦手だった。
――私は、誰かの“恋人役”を演じるのが下手なんだ。
織は、そう結論づけていた。
男たちが求める「彼女像」に合わせるくらいなら、
一人でいたほうがずっと楽だった。
だから、恋愛はいつも短命だった。
身体だけの関係なら続くが、“恋人”になった途端、どこかが軋み始める。
そんな自分を、織は嫌ってはいなかった。
むしろ、これが自分の自然な形だと思っていた。
――なのに。
裕介とは、なぜか続いている。
週末だけの関係。
恋人でも夫婦でもない。
名前のつかない曖昧な関係。
織にとっては、それがちょうどよかった。
彼は家に帰る。
自分はここに残る。
互いの生活に踏み込みすぎない距離。
その距離感が、織には心地よかった。
だが、同時に、胸の奥に小さなざわめきが生まれていることにも、織は気づいていた。
裕介が帰った後の静けさが、以前より少しだけ冷たく感じられるようになったのだ。




