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枯淡  作者: 水原伊織


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14/15

14.織が“母”を見せた夜

ふと時計を見ると、午後八時を少し回っていた。

裕介は、いつものように布団から出て、買い出しに行く準備を始める。


「裕介……今日はさ。行きたいところがあるの」

「……めずらしい」

「でしょ?」


織も布団から身を起こした。

暗がりの中でも、相変わらず官能的な身体のラインが浮かび上がる。


思わず抱き寄せたくなる衝動が胸をよぎるが、気持ちとは裏腹に、二回戦に突入できるほどの体力はもう残っていない。

無理をすれば、途中で息が切れて、みじめな気持ちになるだけだと分かっていた。


----


夜になると、外は急に冷え込んだ。


二月らしい刺すような寒さが、肌にまとわりつく。

裕介は織の後ろを歩きながら、白い息を吐いた。


十分ほど歩いただろうか。

小さなスナックの看板が見えてきた。

「雪」と書かれた、どこか古びた文字。


織はためらいもなく、そのドアを押し開けた。

裕介も訝しみながら後に続く。


店内は、テーブル席が二つほど。

あとはカウンターが中心の、こぢんまりとした空間だった。

金曜の午後八時過ぎ。

二次会の客が来るにはまだ早いのか、店内には誰もいない。


「いらっしゃいま……なんだ」

「お邪魔します」


奥から現れたのは、白髪が少し混じった女性だった。

その佇まいから、この店のママなのだと裕介にもすぐ分かった。


知り合いなのか――

そう思った瞬間、織が裕介の疑問を見透かしたように言った。


「……母なの」

「……え?」

女性の名は、せつといった。


「はじめまして。いつも織がお世話になっております」


雪は丁寧に頭を下げ、その仕草には、年季と品のある柔らかさがあった。

裕介は思わず背筋を伸ばした。


裕介は、雪を見た瞬間、どこか“夜の匂い”をまとった人だと思った。


派手ではない。

むしろ地味な装いなのに、長い時間を夜のカウンターで過ごしてきた人だけが持つ、独特の落ち着きと鋭さがあった。

白髪が少し混じった髪。

目元の皺は深いのに、視線は妙に澄んでいる。

その澄んだ目が、一瞬でこちらの内側まで見透かしてくるようで、裕介は思わず背筋を伸ばした。


“この人は、簡単に嘘をつける相手じゃない”

そんな感覚が、言葉より先に胸に落ちた。

そして次の瞬間、雪が織に向ける視線の柔らかさを見て、裕介はさらに戸惑う。


母親らしい甘さはない。

けれど、突き放すでもない。

ただ、長い時間を共有してきた者同士だけが持つ、静かな信頼のようなものがそこにあった。

“ああ、織はこういう人に育てられたんだ”

その気づきが、裕介の胸にじわりと広がっていった。


織は、カウンターに腰を下ろすと、ためらいもなく言った。


「母はね、バツイチなの」

裕介は思わず織の横顔を見る。

織は淡々としているが、その声にはどこか乾いた響きがあった。


「私が就職して都内に出たときに、別れたの。そのとき初めて聞かされた」


雪はグラスを拭きながら、あっさりと言い放つ。


「熟年離婚よ。よくある話」


その軽さに、裕介は一瞬だけ言葉を失った。

深刻さも、恨みも、未練もない。

ただ事実だけを置いていくような声音。


(……ああ、間違いなく親子だ)


裕介はそう思った。

織の率直さも、必要以上に感情を乗せない話し方も、

この母から受け継いだものなのだと、

妙に腑に落ちるものがあった。


「何か飲むでしょ?」


雪がそう言うと、織がちらりと裕介を見る。

どうする? と目で問いかけてくるようだった。


「じゃあ……瓶ビールで」

「私も」

「瓶ビール、グラス二つでいい?」

「いや、三つで。雪さんも飲みましょう」


裕介が気を利かせて言うと、雪は少しだけ目を細めて笑った。


「あらやだ、“雪さん”だなんて」


軽く肩をすくめると、「じゃあ、お言葉に甘えて」と言って、

カウンター下から瓶ビールを取り出し、慣れた手つきで栓を抜いた。


カン、と乾いた音が店内に響く。

雪は三つのグラスをそれぞれの前に置き、泡が立ちすぎないように角度をつけて注いでいく。


「はい、どうぞ」


三人でグラスを軽く合わせた。

裕介は、喉が渇いていたこともあって、半分ほどを一気に飲み干す。

織も同じように、喉を鳴らして飲んだ。


「いい飲みっぷりね」


雪はそう言って、自分のグラスをほんのひと口だけ含んだ。

その仕草は、長年この場所で夜を過ごしてきた人の、無駄のない、静かな美しさがあった。


裕介は、ふと二人の横顔を見比べる。

血のつながり以上のもの――

“生き方の似方”のようなものが、そこには確かにあった。

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