14.織が“母”を見せた夜
ふと時計を見ると、午後八時を少し回っていた。
裕介は、いつものように布団から出て、買い出しに行く準備を始める。
「裕介……今日はさ。行きたいところがあるの」
「……めずらしい」
「でしょ?」
織も布団から身を起こした。
暗がりの中でも、相変わらず官能的な身体のラインが浮かび上がる。
思わず抱き寄せたくなる衝動が胸をよぎるが、気持ちとは裏腹に、二回戦に突入できるほどの体力はもう残っていない。
無理をすれば、途中で息が切れて、みじめな気持ちになるだけだと分かっていた。
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夜になると、外は急に冷え込んだ。
二月らしい刺すような寒さが、肌にまとわりつく。
裕介は織の後ろを歩きながら、白い息を吐いた。
十分ほど歩いただろうか。
小さなスナックの看板が見えてきた。
「雪」と書かれた、どこか古びた文字。
織はためらいもなく、そのドアを押し開けた。
裕介も訝しみながら後に続く。
店内は、テーブル席が二つほど。
あとはカウンターが中心の、こぢんまりとした空間だった。
金曜の午後八時過ぎ。
二次会の客が来るにはまだ早いのか、店内には誰もいない。
「いらっしゃいま……なんだ」
「お邪魔します」
奥から現れたのは、白髪が少し混じった女性だった。
その佇まいから、この店のママなのだと裕介にもすぐ分かった。
知り合いなのか――
そう思った瞬間、織が裕介の疑問を見透かしたように言った。
「……母なの」
「……え?」
女性の名は、雪といった。
「はじめまして。いつも織がお世話になっております」
雪は丁寧に頭を下げ、その仕草には、年季と品のある柔らかさがあった。
裕介は思わず背筋を伸ばした。
裕介は、雪を見た瞬間、どこか“夜の匂い”をまとった人だと思った。
派手ではない。
むしろ地味な装いなのに、長い時間を夜のカウンターで過ごしてきた人だけが持つ、独特の落ち着きと鋭さがあった。
白髪が少し混じった髪。
目元の皺は深いのに、視線は妙に澄んでいる。
その澄んだ目が、一瞬でこちらの内側まで見透かしてくるようで、裕介は思わず背筋を伸ばした。
“この人は、簡単に嘘をつける相手じゃない”
そんな感覚が、言葉より先に胸に落ちた。
そして次の瞬間、雪が織に向ける視線の柔らかさを見て、裕介はさらに戸惑う。
母親らしい甘さはない。
けれど、突き放すでもない。
ただ、長い時間を共有してきた者同士だけが持つ、静かな信頼のようなものがそこにあった。
“ああ、織はこういう人に育てられたんだ”
その気づきが、裕介の胸にじわりと広がっていった。
織は、カウンターに腰を下ろすと、ためらいもなく言った。
「母はね、バツイチなの」
裕介は思わず織の横顔を見る。
織は淡々としているが、その声にはどこか乾いた響きがあった。
「私が就職して都内に出たときに、別れたの。そのとき初めて聞かされた」
雪はグラスを拭きながら、あっさりと言い放つ。
「熟年離婚よ。よくある話」
その軽さに、裕介は一瞬だけ言葉を失った。
深刻さも、恨みも、未練もない。
ただ事実だけを置いていくような声音。
(……ああ、間違いなく親子だ)
裕介はそう思った。
織の率直さも、必要以上に感情を乗せない話し方も、
この母から受け継いだものなのだと、
妙に腑に落ちるものがあった。
「何か飲むでしょ?」
雪がそう言うと、織がちらりと裕介を見る。
どうする? と目で問いかけてくるようだった。
「じゃあ……瓶ビールで」
「私も」
「瓶ビール、グラス二つでいい?」
「いや、三つで。雪さんも飲みましょう」
裕介が気を利かせて言うと、雪は少しだけ目を細めて笑った。
「あらやだ、“雪さん”だなんて」
軽く肩をすくめると、「じゃあ、お言葉に甘えて」と言って、
カウンター下から瓶ビールを取り出し、慣れた手つきで栓を抜いた。
カン、と乾いた音が店内に響く。
雪は三つのグラスをそれぞれの前に置き、泡が立ちすぎないように角度をつけて注いでいく。
「はい、どうぞ」
三人でグラスを軽く合わせた。
裕介は、喉が渇いていたこともあって、半分ほどを一気に飲み干す。
織も同じように、喉を鳴らして飲んだ。
「いい飲みっぷりね」
雪はそう言って、自分のグラスをほんのひと口だけ含んだ。
その仕草は、長年この場所で夜を過ごしてきた人の、無駄のない、静かな美しさがあった。
裕介は、ふと二人の横顔を見比べる。
血のつながり以上のもの――
“生き方の似方”のようなものが、そこには確かにあった。




